5変化
ジルへの想いを自覚した翌朝。ろくに眠ってはいないけど、ジルにおはようのキスをする。ジルへの想いを自覚したといって、日常生活はなんら変わることはない。ただね、ほんの少し緊張はした。
「ララ、なんだか疲れている顔をしているね。寝ていない?」
「ん、ちょっと考え事だよ」
すりすりと目元をこすられる。されるがままになってると、ジルが「猫みたいだね」とまた私の額にキスをした。それからポニーテールの先を弄びながら、ララと名前を呼んだ。答えるとまた呼ばれるので、また返事をしてやる。子どもの戯れだ。
「まったく。ジルは甘えん坊だな」
「ララにだけだよ。だからララもぼくを頼ればいい」
「そうするよ」
身長も追い越されたし、この前はベッドまで運んで貰ったようだし。絵の才能は言わずもがな。そして美貌も叶わない。
私はジルに負けっぱなしだ。不思議と悔しくはない。むしろ誇らしい。私は師匠よりも誰よりもジルを自慢に思っている。だから、ジルの幸せを一番に願っているのは自分だという自負があった。
例えば……ジルの幸せが私ではない誰かのそばだとしても。私は惜しみない拍手と心の底からの祝福を捧げることができる。それくらいジルが大切だった。
ミレーヌさんが作ってくれた朝食を食べて、お世話になっている印刷所へ行く。製版ができたので、試し刷りされたものを受け取ってチェックしなければならない。そして手渡されたのはジルが描いた『愛と悲しみ』のポスター。
愕然とした。
「……これは、こちらが作ったインクで?」
「もちろんですよ。今回も綺麗な色に仕上がったと思います」
「そう、そうですか。持ち帰って、確認しますので」
言葉少なに交わしたやりとりが、精一杯だった。本屋の息子でジルの友人であるシャーリーに呼び止められても、手をふるだけに終わった。いつもならお茶の一杯でもねだるのに。
なんだこれは、なんだこれは!!
「おはよ、ララ……っておい? ララー?」
「師匠、師匠はどこですか!」
工房に帰るなり師匠を大声で探す。タンタンが居たような気がしたけど、今はどうでもいい。
探し出した師匠はまだガウンを着たままで、食後の紅茶を飲んでいるところだった。まだ片づけられていない食器をどかして、刷り上がったポスターを師匠の前で広げる。
そこには青の世界が広がっていた。繊細な線の男と女が見つめあう一枚。特に男性の表情が切なく描かれていて、期待の新人に胸が高鳴るというものだ。
「ああ、できたんだ。いい感じじゃない。ジルのデザインも、ララの調色も」
「本当ですか、本当にそう思うんですか。これを見てもですか!」
きちんと資料として、そして絵画として保存されているジルのオリジナルを取り出して、ポスターの横に並べる。違いは歴然としていた。それなのに師匠は「いいんじゃない。ちょっと刷りが甘いかな」なんて的外れなことをいう。
「違います、そうじゃない。色が……インクが、全然違うでしょう。こんなの、ジルの色じゃない!」
騒ぎを聞きつけたのか白いスーツが顔を出した。やっぱりタンタンはいたらしい。
「ララには色が違って見えるのかい? それほどまでに?」
「……ちがいます。似てはいる。けど、決定的に何かが違う」
どうして? オリジナルとポスターを見比べても、頭に浮かぶレシピは全く同一。紙の違いなのか。それとも刷ったから違うのか。
今まで色を見れば配合の比率が瞬時にわかった。私にとって調色とは簡単なもので、答えの通りに配合すればよかったのだ。赤、青、黄の世界で、すべてが鮮やかに染まる。中には白を入れ、墨を入れ、金や銀を混ぜ、顔料を砕いて混ぜることをした。
「もう一度、作ります」
師匠に言えば鷹揚に頷いてくれる。遅れてやってきたジルは、状況を飲み込めないみたいで、私を心配そうに見つめた。彼の才能を潰すのは私かもしれない。そうなったら、ジルのそばにいることはできない。
*
ただでさえ色が白いのに、飛び込んできた愛弟子のララの顔は真っ青だった。ココアブラウンの髪を振り乱して、広げたのはジルがデザインしたポスター。相変わらず素晴らしい出来栄えで、「エリヴィノ・リリ」を継ぐのはジルになるだろうと確信した。
それにしてもララは何に納得していないんだろうね。
ちょっと思い込みが激しいところがあるからなぁ。
なんて思っていれば、オリジナルとポスターを並べて「色が違う」と苦渋の表情を浮かべた。やってきたタンタンもそれらを見比べるが、首をかしげるばかりでララの言っている意味がわからない。
ララがインクを作り直すと宣言して、その通りにさせて……今日で三日目。
「ずーっと、配合、調整の繰り返しだねぇ。あの子の頭にはすでにレシピは出来上がっているだろうに」
「師匠の目から見て、あのポスターの出来はどう思いますか?」
作業室を覗けばそっとやってきたのがジルだった。あまりにもちっこくて綺麗な顔をしていたもんだから、女の子だと思ったとはまだ言っていない。この養子にして弟子。そこらの俳優なんざ目じゃないってくらい美しく育ったが、その根性はまっすぐなようでいてねじれている。特にララに対して。
「いい出来栄えだ。感心したよ。原画を書いたお前にも、調色をしたララにも」
「……ぼくも、ぼくも……そう思ったんです」
「ジルは天才だ。ララもそう。ただララの才能は早熟だった。幼いころから彼女は調色に関してはプロ。何の淀みも迷いもなく指定された色を作り出す」
ずっとララの才能はそれだと思っていた。
「だけど違ったのかもしれないね」
作業室ではインクの配合を延々と続けるララがいる。女の子にしてはちょっと大きくなり過ぎたけど、それがなんだっていうんだろう。彼女は親友のマノンの娘で、かわいい愛弟子だ。
眉間に刻まれたしわが深いほど、ララの前に立ちはだかる壁が高いのがわかる。ろくに飲食せず、夜も眠っているのか怪しい。取り憑かれたように色の海に沈んでいる。それがジルには溺れているように見えるのかもしれない。
ララが一言たすけてと手を伸ばせば、ジルがその身体を引き寄せて、ララをすっぽり囲ってしまうだろう。そしてララの持つありとあらゆる光と才能を塗りつぶす。もう二度と煩わせないように。
隣でララを見つめるジルの眼は、愛憎に転じてしまいそうなほど暗く澱んでいる。それなのに養子のグリーンの瞳から煌めきが失われないのは、ララがいるからだ。
ララも厄介なのに好かれたねぇ。
「ジルは聞いたかい?」
「なにをでですか?」
「ジルが作り出した悲しいほどに澄んだ青が、表現できないと。彼女はきっと、重なり合った色の奥にある……ひそめられた思いってやつを表現したいんだ。もしかして、恋でもしたのかな」
あははははと笑えば、ジルはじっと作業中のララを見つめる。その恋い焦がれる男の顔には、焦燥と苦渋が滲んでいた。
「そうだとしたら……ぼくはなにも描けなくなる」
大げさだ。だけど否定できない。ジルは誰もが見惚れるような優美な世界観を描く。優しく美しいもの、清らかで誇りたかいもの。それはひとつの楽園だろう。だけど師である私は、彼の神髄は対比した地獄絵にあると知っている。
夢のような理想郷はジルの夢想の産物だ。
当初、この弟子が描いてみせたのは、黒と赤の悪魔的な世界だった。そこには希望も温もりも情けもない。混沌とした世界のなかで、どうあがいても与えられる絶望。それが徐々に変わり始め、そしてある日、がらりとジルの筆は異なる筆跡を描く。
世界が希望に満ち溢れた。尊いもの、幸福、すべてを許す光。それらがキャンバスに描かれるようになった。
それを間近で観察していた私は、彼の内面に光が生まれたことを知った。そしてその光をもたらしたのが、ララという少女であることも、あっさりとわかった。
なのに、この二人ときたら。
「物事はタイミングというけれど。きっかけは言葉じゃなくてもいいと、私は思うよ。そりゃねぇ、言葉も大切だけど。言葉っていうのは、形のないものや定義のないものを捉えるには不足しているから」
「……師匠? 何の話ですか」
「君とララのこと」
ジルは奇妙な顔をした。顔はいいし、腕もある。性格も問題なく、甘やかすのも得意。ただし察しが悪い方ではないのに、相手を大切にしすぎて踏み込めない。
損な子だなぁ。
ララとの仲は非常によろしい。同じ弟子という枠組みを超えている。双子みたいかと思えば、そんな空気ではない。なのに、なんだ。まだ同じ屋根の下で私たちは暮らさないといけないのか? そろそろ部屋でも借りて、二人で暮らしたらどうなんだろう。ここには通ってこればいいのに。
「さて、もう日が暮れるね。その前にお客さんがいらっしゃる予定なんだよ」
「依頼ですか?」
「というより、ルモワーニュ伯爵がねぇ。謝罪をしに」
「……あの。なるほど、伯爵の耳に醜聞が入ったと」
ほぼほぼ初対面の男に、裸婦画を描いてくれと頼み、結婚をほのめかした少女。
ジルの反応を伺えば予想通り淡々としたもので、何の関心も抱いていなようだった。彼女の捨て身のアプローチも功を奏さなかったようだ。
「ジルさ、女の子の裸に興味あるの?」
「……裸? ああ、ララの」
「ララの!」
「肌が異様に白いんですよ。あれを画布に見立てて、絵を描いてみたいとは思いますけど」
「……それ。芸術的なのか変態チックなのかわかんないねぇ」
「さぁ、どっちでも」
ララの肌に絵をねぇ。ふと奥さんのミレーヌに絵を描いてみることを想像したけど、たぶん、それをやったら私は怒られる。しばらくごはんを作ってくれなさそうだ。




