4自覚
「私の絵を描いていただきたいの」
そう言って微笑んだ彼女は、少女の域をようやく出て、大人の女性へと変わり始める蕾だった。子どもでも大人でもない、危ういバランスの上で成り立った美しさ。
豊かな金髪をまとめた彼女は白いうなじを露わにさせ、ゆったりした袖口からはほっそりした腕が伸びている。少女らしい淡いブルーのドレスは、何重ものパニエでふんわりと膨らんでいた。きゅっとくびれた腰と、丸くふくらんだ胸元がとても若々しい。
彼女は熱のこもった目で、ジルを一心に見つめた。
*
誕生日祝いの翌日。つまり今日。朝から颯爽と働き、印刷所との打ち合わせが終わって工房に帰ってきたお昼過ぎ。立派な馬車がこの狭苦しい通りに止まっているのが見えた。しかもうちの工房の前。
迷惑だなと思って馬車の紋を見ると、どこかの貴族らしい。
劇場や俳優たちの出資者で、彼らのポスターやなんかを依頼にしにきたのだろうか。それなら大歓迎だ。
「ただいま戻ったよ」
「ララ、こっちよこっち」
パンツにシャツのいで立ちの私を手招きしたのは、「エリヴィノ・リリ」の営業の一人。バネットだった。黒髪美人で鮮やかな口紅を愛用している。タンタンが劇場に営業をかけるなら、バネットは新商品やお店の広告を取ってくる。特に酒の広告をぶんどってくるので、理由を聞けばただの酒好きだった。
そんなバネットが不機嫌そうに手招きするので、何かミスでもしたのか? と緊張した。例えば納期を忘れていた依頼があったとか。叱られる覚悟で彼女の後に続くと、案内されたのは応接間だ。
「ティノ、愛弟子が戻ってきたわよ」
「やぁララ。あれだけワインを呑んだのに、まったくもって元気だねぇ」
「途中からすっかり夢の中だ。記憶がないよ」
臙脂を基調とした応接間のローテーブルには、金でふちどりされたティーカップが四つ。四脚あるソファに少女、そのお付きの男、師匠、ジルが腰かけていた。少女は応接間に入ってきた私をちらりと見ると、興味なさそうに目の前に座るジルに視線を戻す。
新しくデビューする女優だろうか。小首を傾げると、師匠がつるつるの顎を撫でながら、楽しそうに同席を促す。どこに座れって?
とりあえず私は壁際のカウチを引っ張って、ジルの横に座った。
「紹介しよう。工房で調色を行っているララ。こちらはジャニーヌ・ルモワーニュお嬢さん」
「どうも、ララです」
会釈をすると彼女はやはりちらりと視線を寄こしただけだった。依頼人らしいことはわかるけど、貴族のお嬢さんが何を頼むのだろうか。話の内容が掴めなくて、こっそり覗き込んでいるバネットに目配せする。
すると彼女は大きくうなずいてから「ファイト!」と口パクで応援してくれた。とりあえず、私が何かをがんばらないといけない状況らしい。
「話を戻しますと……ルモワーニュお嬢さんの絵を描いていただきたい、ということですか」
「何度もそう言っていますでしょ。わたくし、十六歳になりましたから、社交界デビューですの」
十六歳。え? この女の子が? 私と同じ歳だってのに、なんだか身体つきが随分と違う。彼女はやわらかくまるっこい。このまま成長すれば、少女から立派な女性の身体つきになるだろう。つまり胸があってお尻がまるいってこと。
それはポスターに登場する女性たちと一緒だ。女体が美しいといわれるのは、その丸いフォルムと優美なカーブにあるという。
「わたくしが一番美しいのは、きっと今。だからこそ絵に留めておきたいのですわ。貴族社会で……若い女ほどもてはやされるものはない」
そう言ってほほえんでみせたジャニーヌの瞳は、憂いと不安で陰っていた。きめ細やかな肌に、色づいた頬。華奢でたよりない肩に、自信にあふれながらも震える声。薄幸そうだ。
たいしたものだと、目の前にあったティーカップを手に取る。するとすかさずジルが紅茶を注いでくれた。
「だから新星の天才と呼ばれる画家に姿絵を依頼したいの。私の絵を描いていただきたいの」
ジャニーヌが真っすぐに見つめたのは、師匠じゃなくてその隣のジルだった。本人は私のティーカップに角砂糖をひとつ、落としているところだった。それを見てジャニーヌはほんの少しだけ眉をひそめる。けれどその青い瞳に宿る情熱は揺るがない。
まるで恋する乙女。けれども、よく演技をする。自分をか弱く見せることに長けているな。貴族でも平民でも、気をひきたい男の前では、多少演技をするものらしい。なんでかなぁ、私はそういうのに敏感で……ジルの前でしおらしく振る舞う様子を見ると……いらっとしてしまう。
頑なにジルだけを見つめる彼女に、ジルは何にも気づかない様子でのんびりと師匠のティーカップを奪った。姉弟子がこれであれば、師匠の養子もこれである。
「できれば、わたくしの裸婦画をお願いしたいわ」
「……はい? らふが……?」
裸婦画。自分の裸を描けと。それを聞いてこの場にいる全員が固まった。お付きの男でさえも、目をむいてジャニーヌを見ている。私も貴族のお嬢さんがそんな突拍子もないことを言うとは、想像さえもしていなかった。
「それはいくらなんでも無理でしょうねぇ」
ぱちぱちと瞬きをする間に、師匠がのんびりした調子できっぱり断る。
そりゃそうだろう。しかし彼女は引く様子を見せない。
「承知のうえでお願いしておりますのよ」
確かに美しい少女だ。画家の中には喜んで筆をとる者もいよう。良い題材ともなろう。
ただし、デビューもしていない少女の裸を描く。つまり裸の若い女と若い男が向き合うことになる。例え二人の間に何もなくても邪推が生まれるだろうし。もし貞操観念の強い家ならば、裸をみただけでジルは責任を取らされてしまう。なんて言ったって、ジルは昨晩、成年したのだ。もう子どもだという理屈は通らない。
本当にたいしたものだ。同じ十六歳でもお貴族様と工房の小娘では、こんなにも違う。なんだかしょっぱい気持ちになった。同時に苦々しいものが口と胸いっぱいに広がる。
ジルは断るだろう。わかっている。なのに……どうしてだか不安だった。いや、ジルが描きたいというなら……止めることはできないんだけど。
「ジルは誰が見ても若い青年なので。何かなくても疑われると大変でしょう」
「ええ、ええ、わかっているわ。わかっているのよ。だからお願いしているの。わたくし、あなたが……昨日、成年を迎えたとお聞きしました。だからなの。きっと、わたくしの裸婦画を描かれる間に、あなたはわたくしを好きになる。絶対よ」
だから、あなたに絵を描いて欲しい。
そういって目を潤ませた彼女は、ひたすらジルだけを見て、ジルの愛を乞おうとしている。その横で私は何も言うことができなかった。ただ唖然としていたのだ。
彼女はジルに恋をして、そして社交界デビューし、ジルが誰かと婚姻する前に、彼を手に入れようと躍起になっている。それは無謀にも思えたし、これが恋の力なんだと感心もさせた。
チリチリと胸が痛む。
この美しい少女といつ出会ったのか。ジルに夢中になるほど、彼女とジルは会ったということか。そのことを私は知らない……ずっとお世話してきたのになぁ。さびしい。
遠まわしでいて直球の告白に、ジルはなんと言うのだろうか。ティーカップをテーブルに戻して彼を見ると、ジルは少女の言葉に緩くかぶりをふっていた。
「残念ながらあなたと……話した記憶もありません」
「当然です。話したことはありませんから」
え、と固まったのは私だけだった。皆は当然だろうという言葉で軽く頷ている。え? なんで? 状況がおかしくないだろうか。どうして話したことのないジルに……彼女は裸婦画を描いてくれなんて、あばずれにも似た求婚をしているんだ。
そこまで考えて納得した。一目ぼれってやつ。
「それにぼくには、誰よりも大切な人がすでにいます。それはあなたではないし、あなたが脱いで見せたところで、ぼくはあなたを絵にする魅力さえ感じない」
「それは、やってみないと、わからないわ!」
「やったら終わりでしょう。あなたと個人的な関係を結ぶ気はありません」
ジルのはっきりした拒絶に、ジャニーヌはショックを受けたようだった。きっと頷くと思ったのだろう。貴族からの仕事の依頼でもあるのだから。彼女は目に涙を浮かべて、引き裂かれた恋人を求めるようにジルをなじった。
その様子を冷静を装いながら眺める。
ジルの言葉はジャニーヌだけじゃなくて、なぜか私にも痛かった。誰よりも大切な人がいるなんて、聞いたことが、ない。
紅茶を飲みながら傍観に徹しようと思ったのに、とんだ飛び火だった……甘いはずの紅茶の味がしない。
ずっとジルのそばにいて、最近はお世話をされる割合が多いけれど、小さいころは私が面倒を見た。怖いと言って一人で泣くジルを宥めて、ベッドで一緒に眠ってやったし、まともに風呂に入れないのを洗ったのも私。ジルはどういう生活をしていたのかわからないけど、ボタンひとつさえまともに外すことができなかった。
子どものときは周りの男の子より一回りも小さいから、ジルは近所の子どもにバカにされてきた。くだらないと切り捨ててつつ、私は小さなおつかいでさえジルを一人にしなかった。本当に、双子かと思うくらい、私たちは一緒だった。それは今でも変わらない。
なのに。
いつの間にかジルには大切な人ができていた。
「ほんとうに、お願いよ。そうしないと、私、すぐに婚約者ができてしまう。そしたらあなたと一緒になるチャンスがないの。これで最後なのよ!」
哀願するジャニーヌに、ジルはほんの少しでも希望をみせることはなかった。
「チャンスなんてありません、今までもこれからも」
可哀そうにジャニーヌはぽろぽろと涙をこぼして、それから男に付き添われて出ていった。馬車が通り過ぎる音がする。嵐が去った。そんな安堵感に脱力すれば、奥から隠れていたバネットが笑いながら出てくる。
「すごかったわねぇ! ジャニーヌ・ルモワーニュって、劇場に出資しているルモワーニュ伯爵のお嬢さんでしょ」
「ほんとほんと。恋は盲目っていうけどよ、ジルの見てくれに騙されちゃうなんて、可哀そうだな」
バネットの後ろから出てきたのはタンタンだ。灰色のワンピースをびしりと着こなしているバネットと、相変わらず白いスーツのタンタン。ちなみにバネットは美術は好きだけど、やろうとは思わない人種らしい。
「それともジル。どこかでお嬢さんと会ったのかしら?」
「さぁ……覚えはありません。ただ、師匠と劇場に出入りすることもあるので」
ジルは興味ないとでも言いたげだ。
複雑な思いはあるけども、それを口にするのははばかられて。私は先ほどから感じている疑問をバネットに投げる。
「それにしても、私がここに座る意味ってあるの?」
「あったわよ、もちろん。でも、お嬢さん……あなたのことを男だと思ったんじゃないかしら」
「はぁ、そんなもの?」
「ララを男だと見間違うなんてどうかしている。骨格からして違うのに」
まぁ、そうだけど。
ふふふと笑いながら狭いカウチにジルが座る。ちょっと寄ればさらに距離を縮められて、ぴたりと身体がくっつく。なんだか妙な気持ちになった。こんなに近いのに、私はジルのことを知らない。
それが悔しくて苛立たしい。なんで? どうして話してくれなかったの。
ジルの大切な人は誰なんだろう。きっと、優しくて美しい女性なんだろう。彼のポスターに描かれる女性たちのように、やわらかい身体のひと。私とは全く違うだろう、その女性が、心底羨ましい。
その日の夜は眠りにつけなかった。何度も寝がえりをうって目を閉じても、ジルの言葉がぐるぐる回ってどうしようもなかった。スザンナ、オレリー、フィオナ、思いつく限りの女性たちが浮かんでは消える。
例えば印刷所のスザンナ。そばかすがチャーミングな女の子で、いつも元気いっぱい。彼女がクリスマスプレゼントをジルに渡しているところを、私は目撃したことがある。もちろん、私も貰ったし、プレゼントを贈った。
オレリーは大通りの本屋の娘。シャーリーという兄がいて、ジルは兄と仲がいい。だから必然的にオレリーと話す機会も多いだろう。でもオレリーは十二歳だ。ない、きっとないな。
次にフィオナ。デリカテッセンで働く色気むんむんのお姉さん。ジルが買い物にいくと、いつもサービスをしてくれる。あの大きな胸を好きじゃない男なんているのだろうか……?
だめだ、考えれば考えるほど目は覚めていくし、夜が更けるにつれて泣きたくなってきた。私は起き上がってベッドの端にこしかける。なんだかなぁ。母のマノンはスタイルが良くて、笑顔がとてもチャーミングだ。それに比べて私は平凡な顔立ちで、少年っぽい身体。脱げば多少のおうとつはわかる。脱げば、だ。
そんな私の性格は、こんなに女々しくない。今が異常なくらい、動揺している。まるで嫉妬をしているみたいだと笑ってしまった。小さく笑ってから、まさかと気づく。
「……これは……嫉妬?」
小さい頃からジルのことばかりだった。ジルに触れたら安心するし、ジルが触れるとこそばゆくてなんだかじれったい。ララと名前を呼ばれるのも、最近はいれてくれないけど、ジルのココアだって大好きだ。
ふとした拍子に、ジルにキスをしたくなる。ダイヤのほくろにじゃなくて、唇に。そんな関係ではないからやらなかったけれど、ときどき、無性に、わきあがる衝動に釣られてしまいそうになる。
ジルとキスをするところを想像すると、簡単にも思い浮かべることができて、しかも嫌じゃなかった。師匠やタンタンとキスをするなんてとんでもない。それならパン屋の犬とキスをする。
好きなんだ。
私はジルが好き。
「……っ!」
それは家族や兄弟の親愛でもあって、欲をかきたてられる情愛でもあった。自分の気持ちに気づいた瞬間、暗かった部屋が劇的に変わった。
すべての色彩が彩度をあげて、細かく分かれた色の粒子が、以前に増して私の目に映り込む。そのひとつひとつが奇跡のように美しく、そしてすべての色のレシピが私の中で展開されていった。
色の波に漂っていると、ジルの声が反響する。
――誰よりも大切な人がすでにいます。それはあなたではない。
やっぱり今夜は眠れそうになかった。




