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3誕生日

「ララ、調色は終わったのかい? 相変わらず早い仕事じゃねぇか」


 陽気な調子で調色の作業室に入ってきたのはタンタンだった。


「おれが昼前に来るころにはまだ調整してただろ。今回のポスターは色が多かったし。しかもブルーのニュアンスカラーばっかり。劇場も相当の金を出したもんだよなぁ。って仕事を取ってきたおれでも思うぜ」

「はいはい、タンタンは偉いよ。おかげでやりがいのある仕事ができた」

「はぁ? 足し算の答えを弾きだすみてぇに、一発で色を決めるお前になぁ。やりがいねぇ?」


 そういってタンタンはブルーまみれの私の指先と、缶詰がおわったインクのサンプルを見た。それぞれにレシピがついている。

 彼は「まぁ、印刷所にはすぐにでも回すよ」と屈託のない笑みを見せた。

 タンタン。本名はコンスタンタンで、生まれ育ちはこの国だけど、お爺さんが移民らしい。びっくりするぐらい色の白い私と違って、タンタンは褐色黒髪で異国情緒あふれる。陽気な性格だが、見た目はインテリクール風だ。いつも白いスーツで劇場に営業をかけるお調子者。


「タンタン。調子はどうだ?」

「師匠。うん、いい調子ですよ。大女優シルヴィア・イエッカから依頼の指名です。椿姫をやるんだそうで」


 別室でインクのサンプルをチェックしていた師匠が、ゆったりした足取りで部屋に入ってきた。師匠もタンタンも大きいので、狭いこの部屋じゃ圧迫感がある。


「世紀の美女マノン・ララの再来とも言われてますからねー、師匠は羨ましい」

「といっても、お前のほうが劇場に出入りしているんだから、美しい人とは会うだろうに」

「そうですけども。あくまで営業。気に入られてなんぼ」


 わははははと笑ったタンタンは、私より五つ年上の二十一歳。恋人がいるらしいが、結婚はまだ考えていない。

 そんな彼と私は同じ時期に工房で弟子入りしたけれど、タンタンはデザインの才能に早々に見切りをつけた。ならば調色はどうだと勧めたが、彼は性分に合わないと言って営業に回った。

 これがどうやら天職だったらしい。


「マノンなんて十年だけの活躍でしたからね。ララ、お前も名前にあやかれば良かったのに」

「私にはどっちでもいいことだよ。マノン・ララは確かに……綺麗かもしれないけど」

「世代的にポスターしか見てないだろ」


 そう言って師匠が描いたマノンはとびっきりの美人だからと、タンタンは私の前でデレデレと相好を崩した。カッチリと着こなした白いスーツが台無しである。

 タンタンは私の母がマノン・ララとは知らないのだろう。この場で師匠だけがうんうん頷いていた。

 そんな彼女は女性相手の美容サロンを開いている。たまに帰ると、マノンは私の肌に得体の知らない化粧水を塗りつけてくる。うーん、このぬるぬる成分が何かは知りたくないな。

 というか、タンタンはさ。私の名前を知らないんじゃないか。師匠もミレーヌさんも私のことはララって呼ぶから。マリエル・ララなんです、って言ったほうがいいのだろうか。ちょっと考えて、言う機会があれば言おうと思った。だってマノンに会わせろってうるさいと思うんだ。


「じゃあ、日が暮れる前に印刷所に納品してくる」

「今日は早めに夕食にしよう。ララとジルの誕生日だからね」


 師匠の言葉にうなずいて、私はインクを箱に詰めた。ずっしりと重い。印刷所は二つ向こうの通りだ。歩いて十五分。用事はすぐに済んでしまうので、ついでにマノンのアパルトマンに顔を出そう。



「ねえ、師匠。ララのやつですけど」

「うんそうだねぇ、結婚できる歳になっちゃったねぇ、二人とも」

「ですよ。ただしジルは知らないみたいですよ」


 おれは隣室でポスターの作成にかかっているジルに聞こえぬよう、声のボリュームを絞った。ジルは絵をかくのはうまいが、いかんせん常識からズレているところがある。それは目の前の師匠も同じことで。

 出勤したら師匠に子どもができていた朝。おれは「隠し子!?」と思わず叫んでしまった。よく見なくてもジルは師匠にもイレーヌ夫人にも似ていない。だからこそ修羅場の気配を察知した。

 ジルは根暗な子どもで、誰にも心を開こうとしなかったし、かたくなに喋らなかった。それなのにララはジルを凄まじくかわいがった。貴婦人に溺愛されてかわいそうなペットをたまに見かけるが、そんな感じにララはジルを構いたおしていた。それはどんな形であれ、ララの愛情だ。

 それが伝わったのか、ジルは喋るようになり、表情を取り戻し、そして絵画の才能を開花させた。


「師匠はジルに才能があるってわかって拾ったんですか?」

「もちろん。ちょっと試しに落書きしてもらってね、すぐに類まれなる才能を神から預かったのだと知った。もちろん、私には及ばないけど」

「才能がなければどうしたんすか」

「さぁ、どうしただろう。悪いようにはしないだろうけどね」


 五十手前の師匠がにやりと笑う。


「ま、私は才能を見つけるのが得意だから。ララも天才と呼ぶにふさわしい」

「知ってますよ、そんくらい。あいつは色に関して鋭い。寸分たがわず、おれたちでさえ、どうやって練り上げたのか忘れちまった色を、あっさり作りあげる。それも才能ってことでしょ」


 「エリヴィノ・リリ」に弟子入りが決まったとき、おれは同じく弟子入りをする子どもがいると聞いてライバルだなと思った。けれど目の前に現れたのは五つも下の女の子。こっちが心配になるくらい白い肌とやわらかなココアブラウンの髪をしていた。

 おれもララも絵の勉強をしていた。わりといい線をいっていると自画自賛していたところへ、おれたちは悟ったんだ。ララも自分も絵画に関する才能は飛びぬけていたわけじゃない。ジルが描いた絵を一目見て、感じた。同じ子どもでも圧倒される才能の差。

 おれはひたすら感心した。そしてふと、おれは自分が気に入ったやつを、この世の中に売り込んで広めたい。そう思った。

 だって、そのころのジルときたら、ひたすら絵を描きまくって、食べて寝るだけ。喋らない、笑わない、近所のガキにいたずらされても怒らない。ないないづくしだった。

 それから筆を置いて、営業に鞍替えしたのだ。それは十七歳の時だった。

 我ながら良い決断をしたと誇らしい気持ちになるのは、「エリヴィノ・リリ」のポスターが名だたる劇場に並び、広告が百貨店に張り出され、人々がそれらの前で立ち止まって見入っている姿を見かけたときだ。


「君の才能はその素直さかなぁ」

「美しいものは美しい。そう教えられたんで」


 にこりと笑って師匠の教えをそらんじてみせる。

 それにしても……ジルのことを思って眉をわずかに寄せた。あいつ、ララのこと、好きだよなぁ。それがイマイチ伝わっていないような。なんせ二歳年下とはいえ、ララはいまでもジルの保護者気取りだからだ。


「ジルのやつ。あと二年、待つつもりですよ、きっと」

「だろうねぇ。面白いから焦らしてやろうかとミレーヌと話してるところ」


 くすくすと笑う師匠は五十だというのに、しわひとつない張りのある肌をしている。この人もたいがいおかしい。とおれは思う。



 からだがあつい。ぽわっとして、わたがしをあるいているような、きぶん。

 きっとゆめのなかだろう。それにしても、なんておいしいんだ。


「なんておいしいんだ、このワイン! じゃなくてねぇ、飲み過ぎだねぇ」

「翌朝、きっと後悔するわね。ララはあんまりお酒が強くないみたいですから」

「もっとよこしてください。まだまだいけます」


 ひょいっと取り上げられたグラスは師匠の手のなかに。ぶどう色が師匠の口に消えていく。

 今夜は私とジルの誕生日だった。拾われっこのジルは自分の誕生日を覚えていないらしく、私の誕生日にお祝いすることにしている。

 少し早めに始まった夕食はおいしかった。

 ミレーヌさんのミートパイはとっくに腹の中におさまっている。ドライフルーツとナッツがたっぷり入ったパウンドケーキには、とろとろと蜂蜜をかけて食べた。パウンドケーキは甘ったるかったけど、洋酒のきいたドライフルーツのおかげで、大人の味がした。

 それから師匠がワインを開けてくれたのだ。二年前と一緒。ジルが十六歳になって飲酒が解禁されたときも、師匠はワインのボトルを三本、開けてくれた。私にはたっぷりのリンゴジュースを用意して。


「ララのはこれだよ」

「ん、うまい」

「ただの水だけどね」


 ジルに渡されたワインを飲み干す。舌が馬鹿になってるじゃねーか、なんて誰かが言って笑った。タンタンかな、きっとタンタンだ。

 わいわいがやがや、あたまがぽーっとする。目の前にはテーブルクロスとミレーヌさんご自慢のシャンデリア。ワイングラスがきらきら光って、目がちかちかする。


「おしまいに紅茶をいれましょう。どっかの誰かさんは寝ちゃいそうだし」


 紅茶。紅茶は好き。あかくてスーッと透き通っている。レモンをいれると色がほんのり変わる。ワインも好き。真っ暗な瓶に閉じ込められたぶどう色は、空気にふれるたびに色が違うところ。

 でも、わたし、ジルのココアがのみたい。

 いまのきぶんにぴったりな、あまくて、ほんのすこしだけ、しなもんがはいっているココア。


 そこで私はココアの海で泳ぐ夢をみた。

 気が付いたらゆらゆら揺れていて、朧げな視界と密着した体温に抱えられているんだとわかる。こんな大女を抱えるなんて、すごいやつだ。

 窮屈そうに階段をあがって、四階の一番奥。そっと押し開けられた部屋は確かに私の部屋で。カーテンを閉め忘れていたのだろう。部屋は月光で満たされて、その青白さといったら湖の底にいるみたいだった。

 見慣れた部屋が新鮮だ。私はそっとベッドに横たえられて、ていねいに毛布をかけられた。繊細な指が額の髪をそっと払って、反射的に目を閉じてしまう。


「おやすみ、ララ」


 やんわりと額に唇をあてたまま、ジルがつぶやく。いつものあいさつだ。目を開けるのが億劫だったけど、必死になってまぶたをこじ開けた。月光に照らされた美しい人が私を見つめていた。

 ここは月の神殿かもしれない。

 大きくなったジルはとても美しい。そっと腕を伸ばして、至近距離のジルの頭をつかまえた。後頭部に手を回して顔を引き寄せる。

 そしてジルの淡い唇にくちづけた。


「おやすみ、ジル。十八歳おめでとう、だいすきだよ」


 目を丸くするジルに微笑み、私はそうっと意識を手放したのだった。

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