表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

2おはようのキス

「ララ、おきたの? もうちょっと眠ってもいいんだよ」


 肩まで被っているブランケットを引っ張り上げて、目元を隠して唸った。上質のソファに全身を預けながら、微睡みの中でやわらかな声を聞いていた。

 声の主は私が目を覚ましたことにすぐ気がついたようで。ぎしっと椅子から立ちあがる音と、かたい靴音。気配は私が独占しているソファのすぐそばまでやってきて、わずかに空いたスペースに腰をおろした。

 すりすりと頬を親指がこする。乾いた指先はザラついていたけど、いつものことなので気にしない。今は何時だろうか。もうちょっと眠ってもいいってことは、夜なのかな。


「夜明けまでは一時間あるから。ぼくは夜が明けてから眠るよ」

「……なんだ、起きる時間じゃないか……」

「眠るララがかわいくて、もうちょっと見ていたいんだ。だめかな?」


 だめに決まってるだろう。

 ぼやけていた意識が徐々に明確に、はっきりと、色を取り戻す。さっきまで淡い色彩の夢のなかにいたけれど、それらがどんどんとくっきりとした輪郭をおびる。

 もぞもぞと動けば頬をなでていた親指が、むき出しの耳に触れた。するすると形を確かめるように動く。こそばゆい。身をよじっても指はぴったりと離れない。しょうがないなぁ。眩しいのを覚悟でブランケットから顔をあげた。


「おはよう、ジル。徹夜明けでも……なんだ、その顔」

「え? 疲れているように見えるかな」

「まったく。むしろ今日もかっこいいね」


 短く整えた茜色の髪はラフに乱れ、肌はつやつやに光っている。ララとささやく淡い唇は、起きたばかりの私の額に、躊躇なく押しつけられた。やわらかでほんのちょっと湿っている。

 目覚めのキスを抵抗することなく受けいれた私を見おろすその顔は、舞台で活躍する俳優並みに整っていた。すっと通った鼻筋、ちょっと厚いまぶたとけぶるようなまつげは、彼のグリーンの瞳を憂いに染める。細めの眉は彼を中性的に見せ、なぜかは知らんが、上気した頬が儚い色気をかもしだしている。

 ジル・ヴェゼンティーニ。私より二歳年上で、師匠の養子。四年前に突然やってきた子どもは、立派な青年に育った。立派と言っても、ジルは男性平均よりほんの少しだけ低いし、身体つきも少年のように細身。もしかしたら、子どものときに痩せっぽちだったから、その影響かもしれない。

 けれどジルは細面の美しい青年に育ち、周りの青年と比べて細い体格も、計算されたようにぴったりだった。


「残念だけど、起きるんだろう?」

「そうするよ。私の仕事は太陽がなくちゃできないからね」

「ララにぴったりだ」

「お前、私を太陽神あつかいするのはやめたほうがいいぞ」


 無口だった子どもはこの四年の間で、相当なおしゃべりになった。どこに行っても何をしていても、彼は「ララ」と呼んで、私をあらゆる言葉で褒めちぎる。こんな大女をかわいいと思っているらしい。ちょっと心配になる。

 大女。実は私の身長は女性の平均身長を越えている。ジルと私の身長差は小指ほど。ヒールのある靴を履けば、すぐに追い越してしまえるのだ。

 でもね、それだけならまだよかった。

 ジルが少年の身体つきなら、私も少年のような身体をしていた。そう。胸が驚くくらいにない。僅かなふくらみは、シャツを着てしまえばないのと同然だった。お尻もまるくなんてない。

 だからジルと私が並んで歩くと、後ろ姿は兄弟か双子のようだ。それでも私の髪はココアブラウンだし、顔は可も不可もない平均そのもの、だと思う。だって、ジルを見て鏡をのぞけば、誰だってそう思うに違いないもの。


「ララ」


 催促するようにジルが名前を呼ぶ。すりすりと耳をなぞる指がじれったそうにしている。

 とんだ甘えん坊になったもんだ。師匠に子どもの面倒を任された私は、そりゃはりきった。私はどんな親ばかよりも過保護にジルを育てた。それがこの結果である。


「ん、ちょっと顔を寄せて」


 素直にかがんだジルの右頬に手をあてて、一番のお気に入りであるダイヤのほくろにキスをする。この甘ったれは、目覚めのキスとおやすみのキスをしょうもなくねだる。


「ジルは今日で十八歳で成年なのに。恋人、できないぞ」

「どうして? ララのキスが一番好きなのに」

「刷り込みって怖いなぁ」


 子どものころからチュッチュッとジルのほくろにキスをした。偉いねと褒めるとき、泣いたジルをあやすとき、ふとした瞬間に、隙を狙って、嵐のようにキスをした。師匠が「そんなにキスをしたら、ジルのほくろはへこんでしまうんじゃないか」と心配するくらい私はキスをしたのだ。


「さて、起きるから。ちょっとどいてくれ」


 ソファから起き上がってブランケットを適当にたたむ。紅茶でも飲んで仕事に取りかかるとしようか。いや、その前に着替えだな。大柄の私が着ているのは男性用の寝間着だ。ゆったりしていて締めつけ感がないので、大変重宝している。

 見渡した工房はカーテンが閉ざされて外は見えない。けれどジルが作業していただろうデスクのランプだけは、煌々としていて、それ以外は薄暗い。

 ここは師匠であるアウグスティーノ・ヴェゼンティーニの工房。主な仕事は劇場のポスターと広告制作。デザインから調色まで手掛ける、小規模な工房になる。私とジルはこの工房で内弟子として働き、技術と感性を磨いている真っ最中だ。

 ちなみに一階から二階が工房で、三階は師匠の住居、四階には私たちの部屋がある。ほかにも弟子や働いている人はいるけど、ここには住んでいない。彼らは近くに部屋を借りて、そこから通ってきているのだ。


「そうだ、ジル。お誕生日おめでとう」

「ありがとう。ララも十六歳の誕生日、おめでとう」


 お互いの誕生日を祝い、私たちはそれぞれの仕事をするために別れた。ジルはデスクへ、私は着替えるために四階に。


「そっか。もうお酒が飲めるのか」


 この国では十六歳から飲酒をしても良いということになっている。ジルは十八歳なので飲酒は当然として、成年となったので婚姻が認められる。女子は十六歳から婚姻が認められる。随分と昔に決まった法律なので、その理由を聞かれても私はわからない。

 四階にあがって、一番奥の部屋に入る。一応、粗末だけど鍵もついている。そこにあるのは小さなクローゼット、ベッド、そして書き物用のこれまた小さな机。十歳のころから過ごしてきた、私の小さな王国。

 寝間着から作業用のパンツとシャツに着替え、壁につりさげていた薄手のコートを羽織る。袖口を確認して顔をしかめた。さまざまな色が白いコートに滲んでいて、さながら画家のパレット状態だ。


「先月に買い替えたばかりなのに……ま、いっか。どうせ汚れる」


 実は爪の間にもインクが入り込んで、私の指先は人に見せられたもんじゃない。きちんとした場に出るときは、指を隠すための手袋が必要だった。もちろん、私自身はそんな指が嫌いじゃない。

 背中まである地味なココアブラウンの髪をひとつにまとめて、部屋のカーテンを開けた。まだ夜は明けない。けれど空はだいぶ色を取り戻しつつあった。遠くに見える工場の真っ黒な煙が、西に流れている。今日は風が強い。


「さてと。やるか」


 階下に降りて仕事の前に紅茶でも飲もうとすれば、ジルの細い背中が見えた。足音で気づいたのだろう。振り返ったジルの手にはティーカップが二つ。その一つを何の疑いもなく受け取る。


「じゃあよろしくね、ララ。今回は淡い色が多いけれど」

「ジルの得意な色だね。腕がなるよ」


 紅茶はちょうどいい温度で、一気に飲み干した。ジルはこれから眠るらしいから、またダイヤのほくろにキスをしてやる。紅茶の匂いがするねと笑われた。


 それから作業場に降りて窓にかかったすべてのカーテンを開ける。もうしばらくしたら朝日が差し込むだろう。それを待つ間、私は今回の劇場ポスターを眺めた。

 シャルル座で上演される『愛と悲しみ』のポスターだ。新しい題目だけど、巷では注目を浴びている。何故なら主人公を演じる俳優がとびっきりの男前なのだ。彼は無名の新人だったが、舞台に出ればあっという間に貴婦人たちを虜にした。


「確かに美男子だわ」


 ポスターを手掛けたのはジルだ。繊細で淡い色彩を得意とするジルは、流れる曲線を描くのがうまく、彼の手掛けたデザインは優美の一言につきる。彼は男女問わず、女神的な美しさで人物を描き、駆けだしの画家だってのに人気は急上昇中。

 そのジルが手掛けたのだから、ポスターの男も美しいに決まっている。『愛と悲しみ』とだけあって、内容は庶民の男と令嬢の悲恋ものらしい。ブルーを基調とした淡いカラーがなんだか物悲しくもある。

 その色を見ながら、私はぐるぐると頭の中でメモを取っていた。


 うちは小さなデザイン工房で師匠とその友人が立ち上げた。工房の名前は「エリヴィノ・リリ」という。数人で回している小さな工房だけど、「エリヴィノ・リリ」が手掛けた劇場ポスターやビールなどの広告は飛ぶように売れる。

 その中で劇場のポスターを担当しているのがジルと師匠。特に師匠はすごい。大女優や有名俳優からご指名が来るくらいで、劇場の総支配人が挨拶にやってくる。画風は大胆で優雅。特に俳優を描くのがうまく、彼のポスターを街頭に張り出せば、盗難が相次ぐ。

 そんな工房で弟子として働く私は何をしているのかというと……色を作っている。私は師匠やその友人、ジルみたいに天才じゃないから。


「うん、透明感のあるブルーだね」


 オリジナルの絵からそっくりそのまま抜き出したような色を、調整して作り出すのが私の仕事。ポスターは刷らなきゃいけない。そのインクにまでこだわりぬき、既存のインクは使用しない。

 だから「エリヴィノ・リリ」のポスターや広告デザインは安くない。でもそこまでするのだ。だからこそ、価値がある。

 朝日が部屋に差し込んだ。手元のオリジナルを汚さないようにパネルに固定し、私はずらっと並んだインクを手に取った。どの色をベースに混ぜればいいのか。色を見ればするするとレシピが展開されていく。その通りに配合すればいい。

 私はそんな、単純だけれども、美しい世界で生きている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ