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1ララとジルの出会い


 ジル・ヴェゼンティーニと出会った夜のことを、よく覚えている。

 私より二歳年上のジルは、子どものころからやせっぽちで、棒きれみたいだった。子どものときは私の方が大きかった。

 今ではジルもだいぶ成長したけれど、ほんの少しだけ小柄。ジルと私が並ぶとちょっぴりジルの方が高い。そう、私は女性にしては背が高かった。

 私たちが並んだ後ろ姿は、双子か兄弟のようにそっくりだと言う。ジルはそれを聞くとしかめっ面をして「ララと血は繋がっていないんだ」とわざわざ丁寧に説明した。そんなことをしなくても、顔を見ればわかるってのに。ジルは律儀だなぁと笑うと、そういう問題じゃないんだよと返すのがいつものやりとり。

 ちなみにジルと私は同じ屋根の下で暮らしている。もちろん、二人きりではない。ジルは私が弟子入りしている師匠が、突然連れてきた男の子。

 事の起こりは、晴れた夜のことだった。


 *



 藍色のオーガンジーを何十にも重ねた夜空に、ダイヤの星を散りばめたような。四階の小さな自室から見降ろす通りは、練炭のように黒々として、見られていることを知らない恋人たちが愛を囁きながらそぞろに歩く。そんなロマンス説のような、夢見心地の深夜零時過ぎ。

 産業革命で町中に溢れかえったスモッグのせいで、晴れ間などないっていうのに。今日は一生に一度の素晴らしい夜かもしれない。そんな予感がしていた。

 とんとんとん。玄関のひそやかなノック音に気づいたのは、人影がお世話になっているこの屋敷に、ふらふらと寄るのが見えたからだ。

 私は男性用のパジャマの上からガウンを羽織って、暗闇でも馴れた階段を駆け下りる。そして玄関先のわずかな明かりから、通りに立っている人物が師匠だと確認し、内鍵を外した。


「や、ララ。すまないねぇ、こんな遅くに」


 ささやかなライトが照らし出したのは長身の壮年。私が師匠と仰いでいるアウグスティーノ・ヴェゼンティーニだ。師匠と親しい人はティノと呼ぶ。耳慣れない名前で舌を噛みそうになるから。

 その異国情緒あふれる響きでわかるけど、師匠は若いときに隣国からやってきたらしい。そのせいか、それとも生来の気質なのか。師匠はどうにも頭の具合がおかしかった。

 こんな真夜中までほっつき歩き、歌いながらちびちびとお酒を飲む。そしてどこから手に入れたのかわからない異国のお菓子や、珍しい石をポケットに入れて持ち帰る。

 今夜も陽気な夜を過ごしたらしい。私はわざとしかめっ面をしてみせた。

 妻であるミレーヌさんはとっくに就寝している。私はたまたま起きていただけで、師匠は朝まで家から締め出されかねなかったのだ。初夏とはいえ、明け方はまだ冷え込むというのに。


「随分と遅い帰りですね。もう明日が来て今日になっています」

「馬鹿言うんじゃないよ。明日っていうのは、寝ないと来ないのさ。だから私とララの明日はまだやってきていない。そう、この子の未来も」

「この子……?」


 師匠が肩をそらして、顎で示した先。そこには粗末な台車が屋敷前の通りに鎮座していた。暗闇で見えなかったが、こんな夜更けに台車を引きながら帰ってきたらしい。よく町のゴロツキに遭遇しなかったものだ。

 それにしてもみょうちきりんな物でも拾ったのか。

 壊れかけた台車なぞ、持ち帰ってどうするんだ。そう言おうとした矢先、師匠が台車に声をかけた。


「ほうら、出てきなさい。怖くないよ、ララはいい子なんだ」


 師匠の気持ち悪い猫なで声に、ぎぎっと台車が軋んだ。いや、正確にいうと、台車にのっていた何かが身じろぎした。暗がりに目を凝らせば、台車に何かがあるのが見て取れた。

 お、と、身を乗り出したのは、動物だと思ったからで。


「なんですか、その小汚いの。犬? 猫?」


 師匠が台車にのせたボロキレを見てそう言うと、ボロキレは悲しそうな声で呻いた。うん? 猫にしては随分と大きい。では犬か。

 ボロキレに包まったそれを見て、私は声を弾ませた。師匠が犬猫を拾ってきたんだと

疑わず、ボロキレをつまんで中を覗いた。動物は好きだ。特にお利口さんな犬とごはんのときだけすり寄ってくる猫。

 どんな子だろうか。

 好奇心に負けてボロキレを覗き込めば、ぴたりと目が合った。それは痩せてぎょろっと目玉が浮いた子どもだった。つまり人間。

 ひぇ、と情けない声をあげる。とんでもなくびっくりした。なんで人間を台車に乗せてるんだ。


「元いた場所に戻してきなさい、師匠!」

「それは無理だよう、ララ。だって今日から、ジルの戻る場所はこの家になるんだから」

「ジルって」

「彼の名前だよ。ジル・ヴェゼンティーニ」


 ヴェゼンティーニ。それは師匠のファミリーネーム。

 そこで私は悟ってしまった。ぐっと顔をしかめて、師匠と呼んで敬愛している彼を睨み付けた。


「隠し子ですか!」


 怒鳴れば師匠は「はい?」と間抜けた顔をした。歳を食っても師匠は若々しく、せいぜい三十代半ばに見える。いわゆる男前ってやつだが、それがなんだか腹立たしい。その彫りの深い異国的な顔で、女性をたぶらかしてきたんですね! しかも数年前に!


「ミレーヌさんに黙って! 裏切りです、不貞です!!」

「いや、ちょっと、落ち着いて、ララ! あああ~~、階段を駆け上がったら転ぶよ!」


 由々しき事態のため、お休み中であるだろうミレーヌさんの部屋へ走る。途中、階段でつまづいたけれど、しっかりミレーヌさんと師匠の寝室にたどり着いた私は、ミレーヌさんを文字通りたたき起こした。

 そして引き起こされたヴェゼンティーニ家の波乱。それはあっけなく一時間後に収まる。


「よーく聞くんだよ、君たち。ジルは拾ったんだ。それで私の養子にしようと思って」


 だからジル・ヴェゼンティーニ。

 玄関先で誤解が解けて、私たちは応接間に移動した。ミレーヌさんは紅茶を入れて、一口飲んだら落ち着いたようだ。般若のような顔から、いつもの通り慈悲深い聖母のような笑みを浮かべている。

 ちなみに台車で丸まっていた子どもは、ボロキレを身にまとっている。すっぽりと顔を布で覆ってしまっているが、警戒するような目玉が見え隠れした。商談も行う応接間において、彼ほどふさわしくない人物もいなかっただろう。それくらい、ジルはみすぼらしい。


「じゃ、ジルの面倒はララが見るんだよ。どうせ、同じ年ごろでしょ」


 師匠の言葉にジルはびくりと肩をふるわせて、私の様子をおそるおそる伺う。まだ何もしていないのに。

 けれど師匠の家でお世話になっている身として、また弟子として、私は師匠の言葉に快く頷いた。


「構わないよ。よろしく、ジル」


 彼の前に立ってにこりと微笑む。それから手を子どもに差し出した。子どもは後ずさりをする。


「私は怖くなんかないよ? それにラッキーだったね、ジル。私は犬を飼った経験があるんだ」


 後ろで師匠が「やばい、任せる相手を間違えたかも」とミレーヌさんに震えた声で言ったいた。ミレーヌさんも「人と犬を一緒にするなんてこと、本気じゃないでしょう」と返していたけど、私は二人をまるっと無視する。

 手のひらを差し出したまま、辛抱強く待った。じりじりと時間が立って、いい加減に腕が痛くなったころ。ボロキレの隙間からそろりとはい出たのは、痩せてひょろっとした腕。まるでスプラウトみたいだ。

 どうみてもまともな食事をとっていると思えないその肉付き。指も細すぎる。夕食の骨つきチキンのほうがまだ太い。

 子どもは戸惑ったまま、私の指の先に触れた。ちょん、と一瞬だけ。すぐにひっこめて、それからまた待つこと数分。子どもはようやく私の手に手を置いた。それを優しくつかむ。


「これからよろしく。さて、一番はじめのことなんだけど。犬も猫もみーんな決まってる。まずはお風呂!!」

「ララ……おまえ、ちょっと倫理観が死んでいる節があるよねぇ」

「あなたの弟子ですからね」


 二人の会話など、私にとってはどうでも良かった。大事なのはこくんとわずかにボロキレが頷いたことだった。

 真夜中だったが、私は近所迷惑も省みずにお湯を沸かし、ジルを浴室へと押し込んだ。薄汚れた赤さびのような髪は、お湯で濯ぐたびに素晴らしい茜色に変わった。体中にこびりついた泥を落とすのに夢中で、彼の肌は真っ赤になったけれど、なんにも言わない。

 それにしてもこいつ、男だったのか。

 ボロキレをはぎ取って、身体を綺麗にしてやれば、ジルはみすぼらしさなんて一欠片もない。痩せすぎてはいたけど、ジルは子どもながらに美しい顔をしていた。美人というものは、子どものときから眉の形、唇の形や色、あらゆるものが整ってほどこされているのだと感心した。


「ジルって、かわいいの。つけてるんだ」


 緊張した身体をちぢこませ、なーんにも喋らないジルに話しかける。独り言状態だったけれど、まったく気にしない。何故ならジルの夕日のような髪や、猫みたいに光るグリーンの瞳、薄桃色の淡い唇……そういったものより、彼の左目下にある泣きぼくろが何よりも気に入った。

 薄い色のダイヤのマーク。スルーしちゃいそうなくらいに小さいお星様型。

 なにこれ、かわいい。

 思わずジルの痩せた頬に唇を寄せた。犬猫にするように、ちゅっとキスを落とす。


「ひえ」


 初めて聞いたジルの声はちっちゃくてか細くて、動物みたいな鳴き声だった。

 これが12歳だったマリエル・ララと14歳のジル・ヴェゼンティーニの出会いだ。

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