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34.アヴァターラ

 ユンド・トレイクは旧来、マリーデ・トレイクに対して得も言われぬ恐怖を抱いていた。表立って屈従するような真似はしないが「逆らってはいけない相手」だということを本能に刷り込まれていた。

 彼は、ふとした時に考える。果たして自分とマリーデが出会ったきっかけは何であったか。しかし、ユンドが思い起こそうとする度に彼の思考には(もや)がかかる。

 その事実について考えてはいけないし、考える必要もない。

 ユンドが夫でマリーデが妻。それ以上でも以下でもないのだから。



 ユンド・トレイクは自身の身体を苛む超再生に苦悶しながらも戦闘からの離脱に成功していた。敵方であるシルフィの安否を確認する間もなく、無限に増殖していく手足や臓器を処理するために彼が転移魔法で向かった先は第二研究所。

 雪山の麓に建てられた其処(そこ)は第一研究所と打って変わって静寂が包んでいる。この施設はマリーデが管轄しており、ユンドでさえ施設の全容を把握していない。

 研究所の正面玄関に転移したユンドは銀雪が積もる中に巨躯を埋めた。もはや自分の身体をコントロールすることすら出来ず、立ち上がれないユンドは救いを求めて頭を(もた)げる。

 ユンドの視線の先には月明りを受けて煌めく深紅────マリーデ・トレイクの姿が映った。


「あら、おかえりなさい」

「マ、リー、デ……たす、け────」

「……無事に戦闘を終えたようで何よりね。随分と手酷くやられたようだけど────チップが残っていれば問題ないわ」

「無事、だ……と? 何を言って」


 ユンドの言葉は絶たれた。マリーデの背後に控えるそれに意識を奪われたためだ。

 地に伏す彼を見つめる目、目、目。童女の顔、農夫の顔、老婆の顔、青年の顔。ありとあらゆる相貌と双眸がユンドの姿を無感動に眺めていた。


「ま、て、マリーデ、なぜそいつがここにいる……」

「第一研究所から脱出する時に連れてきたのよ。驚くことでもないでしょうに」


 マリーデの言葉は、ユンドが望んだ返答ではなかった。


「アナタがこの子を気にする必要は無い。いい働きだったわよ。【引転移(ア・フィクション)】」


 その魔法が唱えられた瞬間、マリーデの手の内には豆粒ほどの大きさのチップが握られていた。

 彼女が唱えたのは引き寄せ(アポート)の魔法。転移を応用させた魔法の対象はユンドの脳────彼に埋め込まれた魔物化のチップであった。

 そして、そのチップに込められていたものは魔物化の情報だけではない。


「ア────ガ、ア?」

「さようなら、ユンド。ああ、アナタはユンドでは無かったわね」


 瞬間的にチップを抜き取られた「ユンドだったもの」は白目を向いて痙攣を始める。吸血鬼としての能力も失われ、そこには「人間の抜け殻」が転がっていた。


「もう思い出せないと思うけど、お前は生来ユンド・トレイクではないし、私の夫でもない。ただの依り代────母体よ。本当のユンド・トレイクはこっち」


 マリーデは月影にチップを翳す。脳漿に濡れた薄板がヌラリと照り輝いた。

 チップに込められていたものは魔物化の技術と「ユンド・トレイク」の人格。


「今回の【星の大鴉(アストラル・レイヴン)】による急襲は非常に有用だった。マルクから話を聞かされた時はどうなるかと思ったけど、まさか【星】と善戦できるほどの潜在能力を秘めていたなんてね。この力を量産できれば、魔竜を討つには事足りる。次のユンドは……そうね、外界調査に熱心な一流冒険者に仕立て上げましょうか。アナタ、昔はよく冒険者になりたいって言っていたものね」


 マリーデは後ろを振り仰ぎ、静寂を保っていた異形の怪物に指示を出す。


「そこに転がっているゴミを処理しておきなさい、マガト」


 マガトと呼ばれた肉塊は、球状の体躯から数十本の脚を生やし、ユンドの抜け殻まで歩み寄る。


「タベ……ル、コレ、タベル────」


 マガトから浮かび上がった複数の頭が首を伸ばし、死んだ吸血鬼の身体を貪り始めた。その様子を見届けたマリーデは研究所へと戻っていく。


 数分後、跡形もなくなった吸血鬼の代わりに、マガトの表皮に「ユンドだった男」の人相が浮き出す────シルフィを九死に追い込んだ男は肉塊マガトの一部として傀儡の末路を歩むことになった。


 ◆


 ユンドが逃げ去り、シルフィとクロハが離脱した直後のユートラント先進医療研究所。倒壊した建物の中から一匹の鬼が顔を歪めながら姿を現した。


「ここは────どこじゃ」


 彼女の名はサラスヴァティ。十六年前、エスリア国によって捕らえられた吸血鬼族の真祖である。かつて「吸血姫」とまで言わしめた美貌は鳴りを潜め、(ひび)割れた肌と欠け落ちた牙が痛々しい。

 研究所の最奥にはサラスヴァティを封じていた棺があったが、クロハの魔法によって大規模の損害を受けたため半永久冬眠の機能が解かれていた。眠りから覚めた吸血姫は身体を浸す不凍液を血液に変換する魔法を用いて蘇生を果たしたものの、その力は決して十全とは言い難い。


「血を……魔力の籠った血を飲まねば…………」


 肩口までの銀糸を揺らすサラスヴァティは形のいい鼻を鳴らしながら血の匂いを辿る。彼女が嗅ぎ分けた血は四種類。乾いた魔物の血、同胞(はらから)の血、毒々しい神竜の血、そして────


「む、これは……」


 身体が再生しきっていないサラスヴァティは牛の歩みで匂いのもとまで進んでいく。研究所から森に入り、不完全燃焼に焦げた草木を掻き分け、目についたそれは二本の指────人間の小指と薬指にあたるものだった。

 サラスヴァティは震える手でそれらを拾い上げると、そのまま勢いよくしゃぶりついた。指に残っていた血は僅かであったものの、そこに込められた魔力は並の人間数人分にも及ぶ。まさに吸血鬼にとってはこれ以上に無い美酒であり、弱る吸血姫に偉効を奏した。

 十分、ニ十分、血が無くなってもなお口の中で指を転がし続けるサラスヴァティは凄艶な表情でその場に蹲った。


「あぁ、何たる美味。これほど清絶な血を飲んでしまうことが惜しい!」


 吸血姫は見る見るうちに力を吸収し、全盛期を彷彿とさせる姿形を取り戻していた。

 氷花を思わせる白銀の髪。老いを知らぬ瑞々しい肌。長い睫毛に縁どられた深紅の瞳。嫋やかな手足は彫像のよう。

 魔力と生気に満ちた麗人の周囲には冷気が漂い、霜が降り始める。

 口腔から指を引き抜いたサラスヴァティは【命脈解析】で血の主を特定した。


「クフフ、待っておれよシルフィ・エリアル……我が復活に際して、そなたは必ず妾のモノにする────」


 サラスヴァティはシルフィの指を再度口に含むと、かみ砕き、呑み込んだ。


 それから暫く。吸血姫の哄笑が消える頃、周囲一帯は絶対零度に包まれていた。


 その思惑は復讐か、再興か、それとも執着か。復活を遂げた災厄は人知れず活動を開始した。


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