31.決戦Ⅵ
「【星】……いえ、シルフィにこれを渡しておきます」
「これは?」
研究所への突入前、クロハに呼び出されたシルフィは小さな小瓶と空の注射器を受け取る。小瓶の中には赤黒い液体が注がれていた。
シルフィは手慰みに揺らしてみる。
「それは『聖職者の血』という希少品です。生命力を爆発的に活性化させる成分を含んでいます。危険物ですので取り扱いにはくれぐれも注意してください」
「どうしてこれを私に?」
「……予感、でしょうか」
クロハは顎に手を当て憂いを帯びた顔をする。
「【世界】が持ち帰った資料の中に魔物化の研究がありましたが、最も人体との適応度が高い結果を示した魔物は吸血鬼でした。プロトタイプとしてサラ・トレイクという成功例もあります」
「サラはそういうのじゃ……」
「はい、分かっています。ただ、心に留めておいてほしいのです。今回の作戦で最悪の事態を想定したとき、最も厄介なのは吸血鬼族の特性を持つ個体が敵として現れた場合で、彼らの持つ不死性は生半可な攻撃を受け付けません」
特に、とクロハは続けた。
「日の下を歩く吸血鬼ほどになると、銀の弾丸や十字剣などの攻撃を受けても平然としています。唯一の有効打は細胞が再生する前に破壊し尽くすこと。もしも、シルフィと力を拮抗させるような────それこそ、魔竜に匹敵するような傑物が現れた時に、魔力生成の糧として使用してください。ああ、使用する時は少量ですよ。取り込みすぎると体に過負荷がかかります」
「さすがに使うことは無いと思うけど…………まあ、気休め程度に貰っておくよ」
申し訳なさそうな顔をするクロハを差し置いて、シルフィは小瓶と注射器をローブの下に収める。
「それじゃあ、行ってくる」
「ええ、気をつけて」
シルフィはカークが開いたゲートを通って研究所へ赴く。
この時のシルフィはクロハから受け取った「聖職者の血」をお守り程度にしか考えていなかったが────
◆
「はあっ、はあ……」
その変化は如実に表れた。シルフィの丹田付近、魔臓が急激に熱を持つ。魔力の分泌量が増加したことによりシルフィは不気味な高揚感に襲われる。
「聖職者の血」とは、魔法黎明期に力を奮った神竜ディオスという魔竜から僅かに採れた血汐であった。「ひとたび触れれば霊薬と成り、ふたたび触れれば天に召す」と謳われたように、その血が宿す生命エネルギーは莫大である。薬とも毒ともされる神の液は、錬金術の素材として内戦を勃発させた歴史もあるほど。
神秘の霊薬は血流に乗って全身を巡る。シルフィの身体は人間の限界を超えて耐えうるだけの強靭な肉体へと成り替わる。
シルフィは空になった小瓶と注射器をその場に落とす。クロハに言いつけられていた摂取限度の五倍の量を身体に取り込んだ。
(ユンド・トレイクは時を経るにつれ、その戦闘能力を加速度的に上昇させている。吸血鬼の本能か知らないけど、たった数度の攻防で戦い方だって上手くなってきている。今でさえ危ういのに、あと五分も接戦を繰り広げていたら本気で手に負えなくなる。ならば、確実に仕留めるため────私は命を懸ける)
「きさま……なにをした…………」
シルフィの前方、悠然としていたユンドはシルフィの異変に表情を歪めた。
「【命脈解析】が通じなくなった……お前の姿が霞んで見えるぞ────血に何かを混ぜたな?」
「どう……だろうね」
「秘策か何か知らんが、私の再生力を上回ることが出来るとも思えん。勝手に死ぬのは構わんが、せめて私の『証明』の礎になれよッ!」
好機と見たユンドは彼我の距離を縮める。転瞬の肉薄はシルフィの底上げされた動体視力をもってしても霞んで見えるほど。音速を超えた移動は轟音を響かせ、暴風となって周囲の黒煙を巻き上げた。
「【血精】ヴラングラドハイド!」
ユンドの手に嵌められていたナックルは巨大な鎌に生まれ変わる。命を刈り取る三日月型の刃はシルフィの首筋に目掛けて振るわれた。
「三重加速、【加速】・【歩音】・【光走】」
【血精】による凶刃に触れれば、瞬く間に柔肌は切り裂かれるため、シルフィはユンドの刃を躱す選択肢しか取れない。防御は最小限。身体の部位を犠牲にする覚悟が出来た時だけだ。
一振り、二振りとユンドが鎌を振るうたびに渦巻く気流が竜巻と化す。
シルフィはそれらを回避するために地上だけでなく空中までも足場として利用する。身体を苛む痛みに顔を顰めながらも、その動きは精彩を欠いていない。
まさに人外同士の戦い。ここが街中であったならば、すべてが灰燼に帰していたことだろう。
「どうしたシルフィ・エリアル! それが貴様の限界か!」
とうとうユンドの凶刃がシルフィの身体を捉えた。ローブが大きく引き裂かれ、カラスの仮面は吹き飛ばされる。
露わになった少女シルフィの姿にユンドは吠えた。
「仕留めるッ! ヴラングラドハイド!」
「四重加速、【韋駄天】!」
ユンドの猛攻に耐えかねたシルフィは、無理を押し通して己の身体に強化魔法を重ねる。通常であれば筋肉が断裂し、骨が砕けてもおかしくないような負荷であっても「聖職者の血」によって供給される止めどない魔力がシルフィの肉体を限界状態で維持する。
必殺の大鎌はシルフィの翡翠の髪を数本刈り切っただけに終わった。
一瞬だけだが、ユンドに隙が出来る。
「三重攻撃強化、【豪傑の調】・【勇猛の旋律】・【獅子の宴】!」
シルフィの握りしめた拳が悲鳴をあげる。過剰な力は己の身体を滅ぼす反動となる。叩きこむは渾身の右手。内臓を抉り飛ばすつもりで打ち出した神速の一撃は、しかし、ユンドの体表にはばまれた。
「グウゥッ───!」
ユンドは絞り上げるような声を上げ、深い轍を刻みながら遥か後方へと押し飛ばされる。だが、彼は一打を耐えて見せた。
大地を割るほどのエネルギーが込められた必滅の拳すらも耐えうるとなれば、いよいよユンドの耐久は魔竜を凌ぐほど。シルフィの得意とする物理攻撃は意味をなさないものとなっていた。
(フィジカルだけでは適わない領域になった……大丈夫、落ち着いて。こうなるかもしれないという予感はあった。だから、一分……いいえ、三十秒だけ、心のリミッターを外す)
シルフィは戦場の中心で動きを止める。瞑目した少女は表情の一切を落とし、項垂れる。両の腕は力なく垂れ下げられ、布を巻いた左手指の傷跡から鮮血が零れ落ちていた。
(思考を加速させて────)
耳朶を打つ風の音。
肌を焼く熱の感覚。
鼻腔を刺す煤煙の臭い。
味蕾が示す鉄の味。
そして、脅威となる吸血鬼の姿。
それら全て、今この瞬間だけは不要なもの。
五感を捨てて、意識を深く。深く、深く、どこまでも落としていく。
暗い、冥い、闇い海の底へ沈んでいくように。この世界は己だけのもの。その核に、今、触れた。
私は誰だ────アナタはシルフィ・エリアル。しかし、その事実は不要。
私は人間か────アナタは人間。しかし、この瞬間に必要なものは眼前の脅威を跳ね返すだけの精神と肉体のみ。アナタが人間である必要は無い。
そう、私は人間ではない。
だから、私は一度死ぬ。死なないために、此処で死ぬのだ。
人間でないのならば、痛みを顧みない。
この身体に制動など必要ない。
自問自答。自己暗示。
翡翠の少女が目を開けた時、彼女の眼前で一刀が振るわれていた。
「断ち切るッ!」
ユンドによる大鎌の一閃。横合いから迫る死に対して、シルフィは上体を僅かに前へ倒しただけで回避を終える。首の皮を掠るような距離を紅色の刃が走った。
しかし、未だにユンドとの距離は近い。連撃の姿勢を取っていたユンドは二撃目を繰り出す。
鎌を振り切った姿勢から、バネの力を利用して返しの拳。
「【血殴】!」
ユンドの殴打は────シルフィの素手で受け止められていた
さしものユンドも驚きの色を見せる。一瞬の硬直後、掴みを振り払ったユンドは後方へ飛び下がり、警戒を露わにした。
「私の膂力を正面から受け止めただと……いや、なんだ、あの異様な雰囲気は」
ユンドは眼前の少女に注視する。その姿は何の変哲もない、先ほどまでと変わらぬシルフィ・エリアルである筈だった────。
「っ────!?」
ユンドは息を呑む。
相対する少女の身体は何者かに憑りつかれたように、ゆらり、ゆらりと小さく揺れ始める。
次いでユンドの耳朶を叩くのは囀るような笑い声。
シルフィの貌が恍惚に歪められていた。




