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そんな喧噪もどこか遠くの世界のように思える。リョウはただ自分の目の前に引かれた、一本のゴールのリボンのみを見詰めていた。一秒でも早く、あそこに辿り着きたい。否、辿り着いて、みせる。そう思った瞬間、背後に気配が生じた。リョウはそれが見冨であることを直感した。もうここに辿り着いたのか。たしかバトンを受け取ったのは自分よりも数秒、遅かったはずである。
リョウは焦燥した。しかしここで畑岡が賛嘆したフォームを崩しては元も子もない。リョウはただただ力の限りに、走った。腕を振り、脚を上げ、それ以外の動作なんぞ全く今死滅して構わないとばかりに専念した。しかし見冨はもうすぐ後ろに到達している、はずである。負けられない。負ける姿を、ミリアに見せることなどできやしない。今世の不幸の全てを経験したミリアに、これから更なる悲しみを与えるのか、それも自分が原因となって? そんなことは耐えられない。あってはならぬことである。
その時、リョウの視界にミリアが入った。ゴール脇で相変わらず飛び跳ねている。隣でミリアがレーンに飛び出さぬよう、美桜がどうにかこうにか捕まえているのもわかった。
リョウは一心にミリアを見詰めた。あそこに辿り着いてみせる。誰よりも早く。
ミリアは暴れているようにも見える動きで、必死に何やら叫んでいる。「リョウ一番! リョウ一番!」
あんなにもミリアが何かを欲したことはあったであろうか。いつも遠慮がちで我儘一つ言ったためしはない。そのミリアが、今何よりも願っているのが「リョウ一番」なのだ。そう思うとリョウは自分の全ての力に加えて、更なるエネルギーを得た。隣には見冨が走っている。目の前にはゴールのリボン。一歩一歩がスローモーションのようにリョウには思われた。そして最後の瞬間、リョウは誇らしげに、胸を張ってゴールした。
「さあ、今揃ってゴールイン! 結果はこちらからはわかりません。一組か、二組か!」
「リョウ!」ミリアはそう叫んで泣いていた。涙に濡れた顔をゴールしてふらついているリョウの胸に押し付けた。「リョウ!」
「ただ今結果が出ました! 一位は僅差で二組です! 二組が一位!」
歓声が上がった。
「リョウ一番!」何度繰り返したかわからぬ言葉をミリアは涙声で発した。
「凄い!」美桜が手を叩いて叫んだ。周りの二組のクラスメイトたちも、飛び上がって喜んでいる。
「ほぼ同時でしたが、二組アンカー黒崎さんの胸が! 先にリボンを切った模様です! 二組の保護者の皆さん! また、一組、三組の保護者の皆さんもお疲れ様でした!」
「黒崎さーん!」畑岡がグラウンドの端からえっさ、ほいさとでもいうように駆けてくる。「ありがとうございます! ありがとうございます!」
「瑤子ちゃんのお父さん。」ミリアと美桜はにっこりと笑って畑岡を見上げる。
「黒崎さん、凄いじゃあないですか。優勝ですよ、優勝! もう、私はなんとお礼を言ったらいいか……。」
「瑤子ちゃんのパパも頑張ったわよねえ。」ミリアが言う。
「みんなのパパが頑張ったのよね。」美桜も言った。
「ええ、ええ、皆さんのお陰です。本当に。私はこのクラスの代表をやらせて頂いて、こんなに嬉しいことはありませんよ。」畑岡はもう人目を憚らずに泣いていた。その時である。「パパ! パパ!」応援席からポニーテール姿の少女が飛び出してきた。よく見れば、その体型は畑岡に瓜二つであった。
「あ、瑤子ちゃん。」
「パパ! パパ! 大変! 電話鳴ってる! ママの病院から!」
「何。」畑岡は瑤子から差し出された携帯を受け取る。画面にはJ産婦人科の名があった。
慌てて畑岡は電話を掛けた。「も、もしもし。先ほどお電話を頂きました畑岡ですが……。」
ミリアは心配そうにリョウの顔を見上げる。
「何! 今! 今ですか!」畑岡はにわかに叫び出す。「わ、わかりました。今すぐ行きます、はい、それは必ず。……お、おい、瑤子! ママがこれから赤ちゃん産むって。病院に行くぞ!」
「え、今?」
「そうだよ! ほら、担任の先生に挨拶して、レジャーシート片づけたら病院だ! さあ!」
畑岡はそう言って瑤子の手を引いて、今度は応援席の方へと向かって駆け出していく。
その後姿を見守りながら、「瑤子ちゃんち、大変ね。」美桜が呟くように言った。
「でもこれで、瑤子ちゃんも元気になれるな。」リョウはかつて覚えたことのない達成感に、胸の熱くなるのを覚えた。
「リョウ、走ってる時ミリアの応援聞こえた?」
「ああ。」リョウはそう言って微笑む。「お前の声が背中を押してくれたんだよ。」それは強ち嘘ではなかったのである。ミリアの声援がどこからかエネルギーを齎してくれた。そしてライブのような臨場感を生み出し、気持ちを高揚させてくれた。あれがなかったら、もしかすると――?
リョウはミリアの手を引き、途中途中で教員だのクラスの保護者だのから賛辞を浴びながら応援席へと戻った。これからミリアのダンスを見て、卵尽くしの弁当を食べさせ、それからまたミリアの徒競走と玉入れを見るのだ。運動会はまだ始まったばかりであった。




