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「リョウ、大丈夫かなあ。」ミリアは美桜と手をしっかと握りしめ合いながらゴール付近から心配そうにリョウの様子をうかがっていた。
「大丈夫だよ。だってお兄ちゃん20キロも走ったことあるんでしょ? そんなに普通の人走れないもん。絶対一等賞だよ。」
隣にいた里緒奈がすかさず声高らかに言った。「長距離と短距離は全然違うの。」
「え。」
「うちのパパは昔、短距離でインターハイ行ったんだから。よそのお父さんとは全然違うの。」
「美桜ちゃん、いんたーはいって何?」ミリアがぼそりと呟く。
「インターハイも知らないの? インターハイっていうのは本当に足が速い人がいく大会なの! 普通の人は絶対絶対出られないやつ! パパはそこに行ってるの! オリンピックぐらい凄いの!」里緒奈は地団太踏みながら言った。
「オリンピックぐらい凄いの……。」ミリアは唖然として里緒奈を見詰めた。
「そう! だから去年もパパはアンカーで、しかもビリでバトン貰ったのに、全員抜かして一番よ。誰にも負けないんだから。」
ミリアは鼻の奥がつんと痛みだすのを覚えた。せっかくリョウが来てくれたのに。リョウが一等賞を取るところを見たかった。校長先生たちが座っているあそこにあるメダルを、「ミリア、綺麗だろ。」と言ってくれるのを夢見ていた。
「パパ一番! パパ一番!」ミリアを黙らせたことに優越感を覚えた里緒奈は、そう大声で叫び出した。「パパ一番! パパ一番!」
グラウンドの向こうにいる父親がそれに気づいて、里緒奈に大きく手を振る。
ミリアは唇を噛み締め、そして「リョウ一番! リョウ一番!」と叫んだ。
一瞬里緒奈は不機嫌そうな顔をしたが、すぐさま声が重なるのも気にせず「パパ一番!」を始める。
美桜もミリアに加勢して「リョウ一番!」を始めた。
グラウンドの向こうではリョウが不審げに二人の方を見ている。
「リョウ一番! リョウ一番!」ミリアはますます飛び跳ねながら絶叫した。
面白がって近くにはミリアのクラスメイトたちが集ってくる。そうして次々に「リョウ一番!」を叫び出した。
無論里緒奈のクラスメイトたちも集まり、「パパ一番」を始める。
グラウンドはにわかに「パパ一番」と「リョウ一番」の歓声が渦巻き始めた。
「なんでガキどもに呼び捨てされなきゃあなんねえんだ。」リョウはぼそりと呟いた。
遠くに見えるミリアは、地団太を踏むように飛び跳ねながら、盛んに絶叫している。
「まあ、せっかくお子さんもあんなに応援してくれている訳ですから、がっかりさせない程度には走って下さいね。」
その見冨の言葉に、リョウも一緒になってミリアと地団太踏んでやりたい気持ちになった。それになんとか堪え、精神集中とじっと目を閉じていると不思議とリョウの胸中にはライブの時の高揚感が蘇って来た。
――リョウ! リョウ!
開演を待ち切れない客が自分の名を絶叫する。それはやがて大きな渦となり、楽屋の自分を奮い立たせていく。あいつらを誰よりも喜ばせてやりたい、そう切に苦しい程に希う。そしてSEが流れ出し、自分は戦場へと赴いていくのだ。
リョウははっとなって目を見開いた。
――ここは、小学校の運動会。しかし自分の活躍を心待ちにする人がこれだけいる。何より大切なミリアが、そう全身で叫び、訴えているではないか。これは、ライブだ。客層とプレイと、場所の変わった、ライブだ。
「お子さんの熱意溢れる応援も始まりました。それではそろそろ第一走者の準備が整ったようです。スタートです!」
アナウンスが終わった瞬間である。ピストルの音が鳴り響いたのは。
リョウも見冨もすかさず第一走者を見た。セパレートであるため正確な順位はわからなかったが、カーブを曲がる時にわずかに一組と二組半沢の距離が縮まっているように、見えた。
さすがバスケ部部長だ。リョウはごくり、と生唾を飲み込んだ。
半沢は懸命に手足を動かし、一気に走り切る。しかしその前にいるのは、――畑岡である。畑岡は少しでも自分の距離を少なくしようと、半沢との距離がまだ遠いにもかかわらず、手だけ後ろにやって勢いよく走りだした。勢いよく――? たしかにそれは畑岡にとっては全力疾走だったのである。しかしバトンを持ったその瞬間からみるみる一組との差が開くばかりか、外側を走っているはずの三組にさえ追い抜かれてしまう。
「ああー! 畑岡さん! 頑張れ!」リョウは知らず大声で叫んでいた。「奥さんの苦しみはこんなもんじゃあねえだろ!」
それが耳に入ったのかどうなのか、畑岡は睨み付けるような厳しい顔つきとなり「ちくしょー!」と叫びながらスピードを上げた。しかし最下位は最下位である。畑岡からバトンを受け取ることになっている瀬崎は畑岡を思いやってか、ほとんど定位置から動くことなくバトンを受け取った。
一組が一番を走っている。そして瀬崎の働きでどうにか二位と三位との距離はなくなる所までやってきた。
「一番で貰えれば、大丈夫だな。」わざと聞こえるような大きさで見冨は言った。
「行け! 行け! 鴻巣さん! あんたはまだ三十路んなったばっかだって言ってたじゃねえか! 体力あんだろ! 行け! とにかく行け!」リョウも知らぬうちに熱くなっている。
「では次、アンカーの皆さんお並び下さい。」
リョウは両頬をひっぱたきながらレーンに出た。
その時である。一位を走っていた一組の走者が転んだのは。
「何!」見冨の慌てた声が響く。
そこを二組、三組が追い抜いていく。
「よっしゃー! 行け行け!」リョウは飛び上がって叫んだ。
しかし転んだ走者もすぐに体勢を整え、一層スピードを上げて走り込んでくる。
「幸田さん! こっちだ、こっち!」リョウは必死に泣き出しそうな形相で走ってくる幸田に向かって大きく手を振った。その隣には三組、少し遅れて例の一組である。
リョウは手を後方に差し伸べ、きっとゴールを睨んだ。どうか、どうか、ミリアのため、二組のため、畑岡のため、畑岡の娘と母親のため――。リョウはバトンの感触を得るや否や、一気に走り出した。息も吸わで、前傾姿勢になって全力で走り出す。
「リョウ一番! リョウ一番!」
「パパ一番! パパ一番!」




