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リョウの胸中に少々意地悪な考えが頭をもたげてきた。「あの、畑岡さん。」
「何ですか。」
「どうして、運動会のリレーの結果なんかにそこまでこだわるんですか。」
畑岡の顔がみるみる真顔に戻っていく。
「否、何か皆さん楽しむために来ている方ばかりじゃないですか。そんな優勝なんか、誰もこだわっていないでしょう。」
畑岡は黙して下を向いた。リョウは大人げなかったかな、と少々困惑する。
「実はですね……。」畑岡はぼそりぼそりと呟き始めた。リョウは喧噪の中でその言葉を聞き逃さぬよう、自ずと腰を屈める体勢となった。
「うちの家内が今妊娠中なんですが、切迫早産で一か月ばかり入院をしとるんです。それで瑤子の面倒は私が見ることになっているんですが、お恥ずかしいことながら、何分家事は今まで全て家内任せで、このたった一月でアイロンでワイシャツは焦がすわ、茶碗は何個も割るは、料理もカレーとシチューぐらいしかろくに作れず、今日の体操着のゼッケン付けも私の田舎の母のもとに郵送してやって貰ったような経緯もございまして、それで瑤子に呆れられている始末なんでございます。」
「はあ……。」
「それに加え、家内も絶対安静なもので、瑤子も家内に会えないでいるものですから元気がなくて……。それで、リレーで優勝なんぞすれば喜んでくれるんじゃないかと、そう、思った次第なのでございます……。」
リョウは目を瞬かせた。
「でも、私自身走るのはもう、小学生の時から筋金入りで不得手で。……それでもリレーでしたら他の方々のお力を借りることができる。私はそれで情報収集に努め、皆様方にご支援を賜った次第なのでございます。」
畑岡はほとんど泣いているのかとさえ訝る声で呟き続けた。
「でもその情報収集の結果、一組の見冨里緒奈ちゃんのお父さんが、高校時代インターハイ出場をしているという噂がございまして。実際昨年は、見冨さんのいたチームが優勝をしているんですよ。」
インターハイ出場者はやはり凡人とは全くレベルが違うのだろうと、リョウは素直に思う。
「でもそこを何とか、皆さんたちのお力で。」
「皆さんって、畑岡さんも走るんじゃあないですか。」
畑岡は真っ赤な顔をしてリョウを見上げた。「私は走るのはダメなんです……。これでも運動会のお知らせが来てから一か月、ダイエットしましたとも。お酒は一滴も飲まず、夜寝る前には走り込みもしました。でも、でも……。」何と畑岡の目からは涙が伝い落ちる。さすがにリョウは戦いた。「な、泣かないで下さいよ、こんなグラウンドの真ん中で……。」
「ダイエットの結果はベルトの穴が一つ縮まっただけですよ……。皆さんのようなカモシカのような脚には到底なり得ませんでした。」
それはハーフパンツから覗いた、すね毛に覆われた大根脚を見れば一目瞭然なのである。
「……畑岡さん、わかりましたよ。」リョウはどうしてこんな自分よりも年上の中年を慰めなければならないのかわからないが、そう言わずにはいられなかった。「うちだって母親はいねえし、俺もミリアには留守番させっぱなしで可哀そうだなって思うことも多いし、ここ来たのだって、ちょっとでもミリアが喜んでくれんならと思って来た訳ですから、境遇は似たようなもんです。頑張って優勝して、子供たち喜ばせましょう。」
畑岡は涙目を盛んに瞬かせ、リョウを見上げた。「黒崎さん……。」感極まって目元を拭う。「ありがとうございます、ありがとうございます。」畑岡はリョウの手をしかと握りしめ、何度も上下に振った。「あ、……それでですね、インターハイ出場の見冨さんは黒崎さんと同じアンカーですから。ほら、あそこ。」
畑岡が指した方向には、一人目立って引き締まった肉体を丹念にストレッチしている男の姿があった。
「マジか……。」
「応援しておりますよ。黒崎さん、あなたの方が若いし、イケメンです。大丈夫です。」
リョウは畑岡を励ましてやったことに少々の後悔の念を覚えた。所詮は人任せなんじゃあないか。そんな疑念がむくむくと膨れ上がってきたのである。
「では、次アンカーの方こちらにお並び下さい。」
言われてリョウは立ち上がる。
「はい、一組が一番内側、二組が真ん中、三組が一番外側になります。」
隣には鋭い眼差しをした見冨がコースを眺めていた。
「ああ、見冨さんのお父さん。今年も出場なさるんですね。頑張って下さいね。」コース担当の教師が言った。
「まあ。バトンを受け取った時の順位もあるでしょうが軽く流して……。」
そんな見冨の言葉を聞き、リョウは安堵した。
「まあ、さすがに日頃運動もなさらぬような方々と走って一番じゃなきゃあ、恥ずかしいってもんですよ。さすがに高校時代と練習量は比較にはなりませんが、インターハイに出た時はですねえ、そりゃあ血の滲むような努力をしたもんです。」
リョウは眉根を寄せた。
「まあ、皆さんはお怪我だけなさらぬよう。肉離れなんぞ起こしちゃあかっこ悪いですからな。」
リョウは見冨を極力睨まぬよう心掛けながら見た。
「あなたは二組ですね。随分お若いようですが、何か運動はなさってるんですか?」
「バンドマンなんで、ライブでバテないよう体力作り程度ですね。」
「あっはははは。バンドですか。いやあお若い方は時間もあっていいですねえ。」
何をどう勘違いしたのだか、自分の音楽活動を暇潰し程度に思われたことにリョウは明らかな憤怒を抱く。
「私はまあ、インターハイ出場経験もありますし、レベルの高い戦いにも何度も挑んでおります。やはりそこらのお父様方とは意識が違いますからね。今回は他の方の頑張り次第もありますが、記録では誰にも負けませんよ。」
リョウは何も返さなかった。




