妻 オデットから見た結婚生活
オデット・モンテリオは手に持った書類を静かに見つめていた。
ようやく、ようやく集まった自分の宝物。
自分を守るため、これからの自分を作るために、必死に集めたものだ。
オデットの結婚生活は悲惨なものだった。
家同士の繋がりのために嫁いで来たが、彼女は歓迎されていなかった。
家格が下の妻を夫であるレオナールは恥じていたのか、辛辣な言葉を投げかけられるばかり。
使用人達もそれに習い、彼女を敬うことはしなかった。必要最低限の対応だけで、レオナールの態度が悪化するにつれて陰口や嘲笑をする者達まで現われた。
自分なりにこの状況を改善しようと、オデットは頑張った。
侯爵夫人としての仕事をこなしつつ、レオナールとの信頼を築こうと話しかけるが、返ってくるのは嫌味ばかり。
「無理して侯爵夫人として振る舞わなくて良い。お前の育ちでは無理だろう」
「使用人が言うことを聞かない?家格を考えれば仕方が無いのではないか?」
「もっと2人で話す時間を?私の教養に合わせる事が出来るのか?」
せめて笑顔を絶やさないようにしていたものの、夜に1人でベッドの中で涙を流す日々だった。
徐々にオデットは病んでいった。
貴族として訓練された表情でレオナールの言葉を受け止めていたものの、心はきしみ、やがて耳鳴りまでするようになった。
いっそ生家に帰ろうと思ったが、タイミングが悪く、今度は自然災害がシルフェルト家を襲った。
異常気象による局地的な竜巻が発生し、農村地帯に一部被害が出たのだ。
被害は大きくはないものの、元々領土が小さくモンテリオ家に支援をしたばかりで備蓄が減っていた。領民達をまかなうことは出来たが、シルフェルト家は財産を少し切り崩すことになった。
レオナールはモンテリオ家として支援を申し出たが、シルフェルト家は辞退をした。
暫くすれば持ち直すことが出来る範囲だったし、家格が上の家に嫁いだ娘が肩身の狭い思いをしないようという配慮もあった。
そのこともあり、オデットは離縁を言い出すことが出来なくなった。
少なくとも、自分の都合では。
貴族社会で、妻から離縁を言い出すのはよっぽどのことだ。離縁に成功したとしても、生家を含めて後ろ指を指されることもある。
今のタイミングでシルフェルト家を巻き込みたくはなかった。
ここで生きていくしか無い、と逃げ道が無くなったことは、さらにオデットが追い詰められることになった。
耳鳴りが止まず、不眠にもなった。
悪くなった顔色は化粧で隠し、痩せた体はボリュームのあるドレスで整える。
けれど、限界は自分自身でも気がつかないうちに迎えていたらしい。
ある日、レオナールの声が聞こえなくなった。
彼が口を開いて、何かを話しているが、オデットの耳はそれを拾わない。
他の使用人の声は聞こえる。
外の小鳥の囀りも、風にたなびくカーテンの音も聞こえる。
ただ、レオナールの声だけが聞こえなかった。
機械的に笑顔を浮かべていたオデットの異変にはレオナールや使用人は気がつくことが無かった。
この頃には口数が少なくなっていたので、返事をしないことも変だと思われなかった。
オデットは侯爵家から1人でひっそりと抜け出して、街の医者に駆け込んだ。
自分の身分を隠し、1人の声だけが聞こえない症状を淡々と告げた。
様々な検査をしたところ、耳や鼓膜自体に異常は無かった。
医者は残る可能性として静かに告げた。
「おそらく、精神的なものから来る聴力の低下だと思われます」
オデットはその診断結果をすんなりと受け入れた。
自分でもその可能性を感じていたからだ。
医者は、十分な休養とストレス源から距離を取ることを助言した。
けれど、オデットは侯爵夫人。そう簡単にレオナールと距離を取ることは出来ない。
失意の中で侯爵家に戻ると、待っていたようにレオナールがいた。
彼が何かを話しているが、オデットには聞こえない。……けれど、何を言っているのかは手に取るように分かった。
今まで何回も、何回も、何回も、言われてきた嫌味の数々。
口の動きで分かるようになっていた。
そして、別のことにも気がついた。
声が届かなければ、嫌味にも耐えられることを。
声の情報量は多い。男性の威圧的な低い声、不機嫌そうな声色、苛立った時の大きな声……それが無いだけでオデットの不安やストレスは軽減されたのだ。
幸い、口の動きで何を言っているかわかる。今まで言われてきた言葉や表情から容易に推測が出来たので、コミュニケーションに支障は無かった。
それから、穏やかな日々が続いた。
けれど、今の状況は最悪な手前であることもオデットは理解していた。
このままレオナールと共に暮らしていたら、おそらく自分はもっと壊れていくだろう。
ならば、その前に行動しなければ。
妻からの離縁は正当なものだと主張して、後ろ指を刺されないようにする。
オデットは静かに動き出した。
レオナールの言動を見ていた者の証言を集め、病院の診断を正式にもらった。
社交の場で他家の夫人達と交流を深めて、相談に乗ってもらう体で自分の状況を話した。
徐々に足場を固め、レオナールの過失として離縁をしてもらい、慰謝料をもらうために尽力した。
そのお金があれば、シルフェルトの家を持ち直すことが出来るだろう。余ったお金で、自分一人なら領地の田舎で生きていけるかも知れない。
もう貴族としての生活に未練は無かった。ただ、静かに暮らしたかった。
嫌味を言われず、耳鳴りもしない生活。
そんな、当たり前なことがオデットの夢だった。
証拠が出そろった日、レオナールに呼ばれた。
その日は結婚記念日だった。離縁をするには、キリが良い日かもしれない。
部屋に行くと、頭痛が悪化するような花の香りに身を包まれた。
そこにレオナールが立っていて、オデットに何か言う。
「お前のことを『 』」
オデットは一瞬固まった。最後に言った言葉が分からなかったからだ。
初めて目にする唇の動きだった。おそらく、今までレオナールから聞いたことが無い言葉なのだろう。
けれど、もうそれが何かを知る必要は感じなかった。
新しい嫌味の言葉はもういらないのだから。
微笑む彼に、オデットは最後の笑顔を向けた。




