554話 万象貫通
ルーイン氏族解放連合軍六万は総崩れとなった。押し寄せる地獄を前にしてなす術もなく圧し潰され、味方すら殺して我先にと逃げていく。その様子は空からよく見えた。
「これがゲヘナの鋲の完全開放ですか。邪心を持つ人には与えられませんね」
ゲヘナの鋲は地獄の鍵。不浄大地を封印し、地獄へ縫い留めた鋲だ。顕現した地獄からは無尽蔵の不死属が現れ、その不死属も滅びれば地獄へ還り新しい不死属を生み出す。邪な心を持つ人物が扱えば、容易く世界すら制するだろう。
「このままタマハミも地獄に封印できればいいんですけどね」
獄炎や地獄の不死属は一定時間の経過で地獄に戻るように設計されている。それはゲヘナの鋲の安全装置であり、もう一つの機能も意味している。それは地獄への封印である。獄炎に囚われた物質は、そのまま地獄へと葬り去ることができる。救いのない苦しみが死ぬまで与えられ、死後の魂にすら救済はない。プラハ帝国においても地獄送りは最も重い刑罰とされているほどだ。
タマハミは不死属の波に呑まれ、黒い炎によって包まれている。イシュヴァルが地獄を閉じれば、このまま封印することも叶うだろう。如何に不死の怪物とはいえ、魂の活動を抑制した状態で地獄へと放り出されればいずれ死に絶えるはずだ。
「敵連合軍もあの様子ですし、もう充分なのですよ」
そろそろセフィラに連絡して地獄を再封印させよう。そう考えたところで異変が起こる。タマハミたちに動きがあったのだ。実際にはタマハミは不死属の群れに飲み込まれているので直視はできず、タマハミたちに絡みついていた黒い紐のようなものの動きを見ていた。
操り人形の糸のように天まで伸びていたその紐が倍ほどに増えていた。そしてアイリスがこれを認識した次の瞬間、一斉に不死属たちが吹き飛んでタマハミが飛び出してきたのである。
「時間加速! 《雷威槍》!」
加速時空において天候を操り、風の第十三階梯魔術の改変禁呪、《雷威槍》を発動する。本来は雷雲を発生させる過程に時間が必要な大規模魔術であったが、アイリスはそれを時間操作でスキップした。あっという間に空は暗くなり、一瞬の光が天地を結ぶ。
その柱は六つ。
すべてのタマハミに一つずつ直撃した。
雷撃は一撃でタマハミを打ち砕くが、それはタマハミの命を一つ削ったに過ぎない。瞬時に再生し、何事もなかったかのように暴れ始める。
「《聖印》はまだ外されていないはずなのです。動けないはずなのにどうして?」
更に別の一角でも不死属たちが吹き飛んだ。獄炎が散らされ、不死属たちは粉々に砕けてしまっている。ほぼ同じ場所で不死属の波に穴が生じた。そこでは毒々しい色の沼が出現しており、そこに飲み込まれた不死属が消えていた。
「あぁもう! 仕方ないですね……封魔連合の神器使いですか? また面倒なのですよ」
『ママ。タマハミが動いているよ』
「大丈夫ですよ。すぐに片付けるのです」
『お願いね。気持ち悪いから私やだよ』
「はいはい」
実を言えばセフィラが最も楽にタマハミを処理できるのだが、本人が嫌がっているので仕方がない。アイリスは集中し、地獄の奔流に抗うタマハミたちへと狙いを定める。
防御不可能、回避不可能の大魔術が同時に六つ発動した。
「《無間虚式》」
小さく呟かれたその術は、簡単に言えば時間停止による世界の破壊である。ごく小さな領域に完全時間停止を発動し、極端な時空の歪みを発生させる。三次元空間に発生した負荷が限界に達すると、ゴム紐が千切れるようにして空間が引き千切れてしまう。自然法則としてはこの負荷を残し続けるより、空間を潰して破棄したほうが良いとみなしてしまうのだ。
その結果、世界の穴ともいうべきものが発生する。
命のストックなど関係ない。全てを引きずり込み、世界の穴という莫大な負債を返済しきるまで周囲のエネルギーを食らい続ける。
「――そのはずなんですけどね」
アイリスは目を疑った。
《無間虚式》が生み出した世界の穴は、周囲の空気や地面を食らい塞がりつつある。地獄の不死属たちは獄炎魔法の効果でこの世に縛り付けられ動かない。しかし同じようにタマハミも決して穴には吸い込まれず、これまでと同じように暴れまわっていたのだ。
(怪しいのは黒い紐ですよね。封魔連合がタマハミを操っていて、しかもあの黒い紐の能力……シュウさんの考えの裏付けが取れました。たぶん普通の魔術では倒せませんね)
完全にお手上げか、といえばそうでもない。
こういった状況に対する手段も持ち合わせている。
今もタマハミは不死属の波をかき分けて前進を続けており、このままではプラハ帝国軍の元まで辿り着いてしまうことだろう。
「最終手段、なのですよ」
アイリスの両腕に黒い術式が浮き出た。それは蠢きながら一つの形を成し、完成する。同時に彼女は転移によってタマハミの一体の上空に現れた。
即座に術を放つため両腕を突き出すが、その際にごっそりと魔力が減る。アイリスを以てしても相当な魔力消費だ。そこから放たれたのは黒い光線であった。
「《万象貫通》!」
かなりの至近距離で放たれたこの光線は、タマハミを貫通してすぐに消失してしまう。灰色の巨体に穴が開き、黒い紐も引き千切れる。そのままタマハミはピクリとも動かなくなり、地獄へと呑まれていった。
アイリスは効果を実感するとすぐに転移で別のタマハミのもとへと跳び、同じく《万象貫通》で殺害していく。おそらく何万、あるいはそれ以上の魂を捕食しているタマハミを一度に殺しきっていた。そして三体目のタマハミも同じように始末したところで、アイリスは一度上空へと戻った。
「魔力消耗が大きいですね。流石は冥域魔術で最も死魔法に近い術なのですよ」
大きく息を吐き、身体を休めた。
冥域魔術、《万象貫通》は死魔力を打ち出すというものだ。消耗する魔力量は絶大であり、また射程も短い。しかし当たれば確実な死をもたらす凶悪な効果を備えている。アイリスの魔力を以てしても三発が限度で、四発目を撃つには少し足りない。それ以上は魔力が回復するまで休息が必要だ。
もっと魔力を使えば射程も伸ばせるが、それに応じて必要魔力は増えていく。
射程を短く絞り、転移魔術と併用する方式がアイリスの中での正解であった。
「次ですね。急がないと」
魔力が回復したアイリスは再び転移でタマハミへと近づき、《万象貫通》を放つ。始末にはほとんど時間がかからなかった、
そしてタマハミさえ始末してしまえば、あとは地獄で押し流すのみ。
もはや連合側に抗う手段は残されていない。
「旧世代の後始末もできましたし、私は帰りますね」
大きく減った魔力を回復させ、アイリスは妖精郷へと戻っていった。
◆◆◆
この世に地獄を解き放った張本人たるイシュヴァルはというと、自らの所業に恐れを抱いていた。その力は知っていたはずだった。だが耳で聞くのと、目で見るのとでは全く違うと思い知った。地獄とは、想像をはるかに超える恐ろしいものだった。
「封印する」
イシュヴァルは槍を小さく捻る。
すると少しずつ黒い炎は消えていき、引きずられるようにして不死属たちも消えていった。地獄は元の空間に封印されたのだ。
少しずつ地獄の炎は消えていき、やがてすべての命が消えた荒野だけが残った。
連合兵の血が大地を染め上げ、肉片が草木の代わりとなる。本物の地獄は消えたが、後にはこの世の地獄が残っていた。
「気持ちの良いものではない……いや、正直に言えば吐き気すら催すな」
「それでいいよイシュヴァルは。その方が人間らしい」
「我々は神の如き力を持つべきではない。それが理解できる。初代様の警告もな」
「ローランはゲヘナの鋲を安易に使うべきじゃないって言ってたしね」
六万もの大軍勢だった連合軍はすっかり瓦解している。
どれほどの人間が死んだのか、それは冥界の住人にしか分からないことだ。魂の受け皿たる煉獄では精霊たちが精力的に働いていることだろう。
すっかり荒れ果ててしまったこの戦場において、生き残っている連合兵はほんの僅かである。マーレ軍とガリュアーン軍、そしてルーイン氏族連邦軍の一部のみだった。
「残りも撤退してくれるといいが……」
そんなイシュヴァルの願いは、これ以上の虐殺を望まないという意味であった。今後、プラハ帝国に牙を剥くことがないようにと考えていた。
使い方を誤れば容易く国を滅亡せしめる威力に、恐れ慄いてくれと願っていた。
だが、その思いは届かない。
もう二度と歯向かう気力がなくなるようにと解放した地獄が、今回の場合は逆効果となってしまった。
「二人、来るよ」
「ああ、見えた」
プラハ帝国軍の前に異質な武具を身に纏う二人の人物が現れた。一人は薄紫の鎧に包まれ、その背から八つの腕のようなものが伸びている。それぞれの腕の先端部は小さな弓矢となっており、こちらを狙っている。もう一人は長柄のフレイルを手にしていた。そのフレイルは一見普通だが、先端部から釣り下がる錘は青白く光り輝き、それを見たセフィラが驚きを露にする。
「イシュヴァル。右の人の武器の先端にある錘……魂だよ」
「魂だと? そんなものがなぜ?」
「分からない。でもあの人の魂が武器に宿っているみたい。普通は生きていられるはずないのに」
「気を付けろ、ということだな?」
「うん。あの武器には当たらない方がいいと思う」
「どうにか話し合いできればよいがな」
「無理だと思うよ」
まさにその通り。話し合いなど不可能であった。
何の前触れもなく、言葉もなく、まずは八つの弓腕を生やした男が矢を放ったのである。その先にいたイシュヴァルへと当たる前に木々が生えて盾となり矢を受け止める。ところがその木々は瞬時に腐敗し、枯れてしまった。
(毒の類か)
そう察してクリフォト術式を使い、不死属たちを呼び出していく。ゲヘナの鋲を解放した場合と比較すれば些細なものだが、召喚した不死属たちは一級品ばかりだった。崩屍腐鬼という腐肉の巨体がイシュヴァル達を守る盾となり、死霊主と呼ばれる統率個体によって低位から中位で構成された不死属軍団を指揮させる。
たった一人でも軍団を作り出せるという黒魔術の利点を生かし、数の力で押し返そうとしたのだ。
危険な毒とて届かなければ意味はない、と。
「我が魂によって敵を打ち砕け。瞞秤!」
だが叩きつけられたフレイルは空気を切り裂き、容易く不死属を破壊する。獄炎の加護もない不死属ではあったが、それでも簡単な相手ではないはずだ。しかし何の抵抗もなく肉は裂け、骨は砕け、魔力となって散っている。一切の防御力が意味をなしていないように見えた。
何が起こっているのか、すぐにセフィラが見抜いてくれる。
「多分、魂の質量で殴ってる。だから魂よりエネルギーが小さいものでは抵抗なく壊されちゃうね。まるで秤だよ。自分の魂と攻撃対象を天秤に乗せて、負けた方が砕かれる。そんな魔術だね」
「なるほど。対応法はあるか?」
「魂より大きなエネルギーで防御すれば、逆のことが起こるよ」
「つまり私にはどうしようもないということだな。少なくとも正面から戦えば」
男はフレイルを振り回しつつ進撃し続けている。
当たれば即死の驚異的な攻撃だとイシュヴァルも理解している。
だが逆に言えば、たったそれだけのことだ。攻撃範囲は小さく、間合いも決まっている。理不尽めいた射程で数キロを破壊し尽くす禁呪級魔術の方がよほど酷い代物だ。これが決闘ならばいざ知らず、戦争なのだから手段を狭める必要はない。
したがってイシュヴァルはこのように命じた。
「火の《召霊》による一斉攻撃!」
プラハ帝国軍は決してお飾りではない。ただ皇帝イシュヴァルが安全に地獄を解放するため付き添っているわけでもない。勿論、それも重要な役目だが、やはり軍隊としての正しい役回りというものは存在している。
命令に従ったのはイシュヴァルの声が聴こえた兵士たちで、精々が数十人程度。
だが人を殺すには充分であった。
『《召霊》!』
声を揃えて発動したのは精霊秘術セフィロト術式、《召霊》。その効果とは、妖精郷の精霊たちと一時的な契約を結び、力を行使してもらうというもの。
既に妖精郷の統治は豊穣の女神セフィラへと引き渡され、新たな樹界魔法の系譜を生み出しつつある。セフィラの樹界魔力より生まれた精霊たちを行使する力が《召霊》という術式であった。
今回の場合、イシュヴァルが命じたのは火の力。
火に関連する魔術に長けた精霊たちが召喚され、その力を貸してくれる。数十人が一斉召喚した精霊による火炎攻撃は面による制圧を押し付け、その熱量はイシュヴァルたち術者すらも目を細めるほどであった。まして直撃を受けた瞞秤の神器使いはひとたまりもない。
後には焼け焦げた人型の何かと、黄金に輝く吊り天秤だけが残されていた。
「ガリュアーン公!」
呪詛矢を放つもう一人の神器使いが叫ぶ。
イシュヴァルには何の意味か理解できなかったが、何となく名前を呼んでいるのだろうとだけ分かった。なぜならば黒焦げになった仲間のもとに駆け寄ったからだ。そして手で触れ、崩れた炭の塊に絶叫する。恐怖か、絶望か、彼は焼け残った黄金の天秤だけを手に取って逃走する。背中から伸びる八つの腕を器用に扱って逃走していった。
「イシュヴァル!」
「いや、追わなくていい。殺しはもう充分だ」
「でも……」
「人の世は複雑だ。ただ敵を滅ぼしつくすまで戦うだけじゃないさ。話し合い、仲直りする方法だってある」
「……そう、かもね」
「本来、これは内戦なのだ。これで封魔連合とやらも引いてくれるといいが……」
ルーイン氏族連邦の独立宣言から始まった対プラハ帝国戦線は、この一戦を境として鎮静化に向かっていく。翌月、シュリット神聖王国、封魔連合王国はプラハ帝国に対する講和を申し込むこととなった。




