551話 ヴァルナヘル奪還戦⑨
周囲からすればネオンが不気味な球体を割ったように見えたことだろう。だが、実際に剣を振り下ろしたネオンだけは違った。
(勝手に割れた……ッ!)
聖王剣はほんの少しだけ球体の表面に食い込んでいた。
しかしネオンの手には一切の衝撃が伝わらず、まるで綿のようであった。
「下がってください!」
ネオンにはそう警告するので精一杯であった。
流石に訓練されているだけあって、グリム含め術師たちは反射で命令に従う。ネオンも下がろうとしたが、食い込んだ剣が離れない。食い込みは僅かにもかかわらず、まるで接着されているかのように離れない。
どうにか引き抜こうと四苦八苦しているうちに、球体は変容し始めた。
亀裂は頂点から渦を描くようにして広がり、一つの規則的な模様となる。それはまるで蕾だった。表面が捲れはじめたことでより確信が強くなる。
「聖守様!」
未だ剣が抜けないネオンに術師たちも慌てる。すぐに戻ってきてネオンと共に聖王剣を抜こうとしたが、その瞬間に蕾は開花した。
剣は離れ、後ろへと重心を移動させていたネオンたちはそのまま倒れてしまう。同時に何とも言い難い気持ち悪さと、吐き気を感じた。他の術師たちも同様で、彼らの中には胃の中身を吐いてしまった者までいる。身体の内側から無数の触手で撫でられているような、奇妙で気味の悪い感覚だった。
「kal e icwie papdkneo kejadoe死oekod」
耳を塞ぎたくなるような声であった。
そして恐ろしい姿であった。
この両方を耳と目で感じたネオンたちは間違いなく『死』を考えた。どこまでも深く、どこまでも濃い。そんな死の予感があった。
「ば、ばけもの」
術師の誰かがそう口にした。
ネオンは右耳でそれを聞いて、ほぼ同時に何かが潰れる音に変わる。恐ろしい姿をした化け物が、術師の頭部を握り潰していたのだ。
(いつの間に移動を……)
全く移動に気が付かなかった。
それで反射的に化け物が元居た場所を見遣ると、そこにも同じ化け物がいる。
「分身……いえ、幻影ですか」
目の前には確かにまだ化け物がいる。恐ろしいほどの死の気配を放ち続けている。だが少しずつ解けるように消えていた。
視覚と精神へと干渉する高度な広域幻覚の異能だ。
だから意図的に気配を落とした化け物の接近に気づけず、仲間が殺された。ネオンはそのように理解した。
「退避してください!」
どこへ、どんな陣形で。
そんな言葉を排除したただの警告だった。術師たちは訓練通りの動きすらも忘れてしまい、ただ自分たちの命を守るため各々の判断で好きなように逃げる。おそらくはネオンの警告がなくとも逃げてしまったことだろう。
化け物は人に近い形態だ。
頭部は一つ、腕は二つ、脚も二つ。ただ背中から七色の光が放射され、極光のように色彩を放っている。翼のようにも見えるし、翅のようにも見えた。肌は一切見えないように黒い鎧のような装甲が全身を覆っており、顔も仮面のようなものが嵌っている。しかし体形や髪の長さから女性が元になっているのだろうと推察はできた。
「kaie pdle火zwke xie」
極光を放つ化け物が気味の悪い声を出すと、周囲は炎に包まれた。それも目を開けられないほどの業火だ。息をすれば喉が焼け、目を開けば熱で潰れる。
ネオンは絞り出せる魔力を使い、必死で熱波を抑え込んだ。他の術師たちも各々の聖石を使って抵抗するが、彼らの多くは耐えきれず、焼け焦げてしまう。
「lizli he酸pq galq erilcow zze毒」
炎は搔き消され、毒々しい雨が降り始める。それは地面すらも溶かし、鼻が曲がりそうな異臭を放っていた。炎への対策として水の膜を張っていた術師が毒と酸に侵され、倒れる。
「odo闇rp xlapwkdi kw lxek zoawk光y xkapwk soe wdl pzkwe ty」
化け物の背中から黒と白の光が放射され、それらは一度空に打ち上げられた後、ネオンたちに向かって降り注ぐ。破壊の雨がこれまでどうにか耐えていた術師たちを息絶えさせた。
一連の猛攻を耐えきったのはネオンとグリム、そして術師がもう一人だけ。そのもう一人さえも化け物が腕を振るった瞬間、身体が上下に分かれて即死した。
咄嗟にネオンはグリムの前に立ち、《聖捌》の光で防御する。
「グリム! 逃げてください! せめてあなただけでも!」
「しかしそれではッ!」
「誰か一人でも生き残らなければ情報を伝えられません! 撤退をするためにあなたが殿では力不足です!」
化け物は背中から放射される極光の翅から電撃を生み出し、ネオンへと向けた。それらの出力は凄まじく、《聖捌》の光をあっという間に削り切った。確かに無条件で魔力現象を打ち消す《聖捌》は大したものだが、結局はそれ以上の力で押し込まれてしまえば意味がない。聖なる光、あるいは反魔力に対する最大の答えがこれだった。
「早く……グリム!」
呼びかけられてもグリムは動かない。
雷撃は止まらず、弱まる様子もない。
ネオンを守る光の壁はもうほとんどなく、長くは持たない。
「akdiek cpal adkka kjuek 電eid」
化け物は金切り声を上げた。
雷は一層強く轟音を立て、空気を引き裂いて放射される。ネオンもグリムも死を予感した。目を閉じ、次の瞬間に来るであろう激しい痛みに備えた。
だがその瞬間、全ての音が消える。
そして一切の痛みもない。
(もしかして痛みもなく死んでしまったの……?)
ネオンがそう考えてしまったのも仕方がないことだろう。勿論、それは正解ではなかった。彼女は目を開き、答え合わせをする。
化け物は変わらずそこにいて、極光の翅から雷撃を放ち続けている。しかしネオンの前にルークが割込み、暴風によって防いでいたのだ。多重の真空断層を形成する暴風によって音すらも断ち切り、雷撃を一切寄せ付けない。
「あなたッ! 倒れていたはずッ!」
「もう回復した!」
ルークはそう叫んで暴風を放ち続けているが、この短時間で回復したはずがない。嵐唱との同化で第三の眼さえ開眼すれば魔力は回復するが、体力までは戻らないはずだ。元家族や知り合いの魔族と戦い精神的にも傷ついているはず。
事実、ルークは少しずつ押し込まれ始めていた。ネオンはすぐに《聖捌》を解除してルークの背中を支える。ほぼ同時にスルザーラも駆けつけ、少し遅れてグリムも同様にし始めた。
「ぐ、お、ああああああああああああああ!」
「どうか止まってください!」
「底力を見せろ小僧!」
「頼むぞ神器使い!」
化け物の放つ雷撃と、ルークが放つ暴風。
これらは再び拮抗し始めるが、ほんの一瞬で形勢は傾き始める。やはり化け物は化け物だった。人間ではあり得ぬ魔力出力で雷を放ち、問答無用でヴァルナヘルごと破壊していく。
「嵐唱! なんとかしろ!」
『力は無制限ではない。何を差し出す? 何を捧げる?』
「何を捧げられるんだよ!」
「いったい何を叫んでいるんですか! 集中してください!」
苛立ち気味にルークが叫び、それをネオンが窘める。
神器との会話は他の人間までは聞こえない。この中ではスルザーラだけがルークと嵐唱の会話を察していた。
(私が無理を押して、大きな代償を払って到達できる同化の極致にこの小僧は容易く届く。ならばそれ以上を捧げればどれほどの……)
ルークを支えるため放り出した劔撃へと目を向けているうちに、状況は変わった。ルークの両腕が変容し始めたのだ。皮膚は指先から黒ずみ、ボロボロと崩れていく。それはまるで栄養素を失っているかのようだった。
本来ならば激しい痛みがあるのだろう。
しかしこの極限状態の興奮故か、ルークはただ目の前に向かって力を振るい続けた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
より一層、暴風は威力を増した。そればかりか閃光すらも発生し、雷撃を打ち消し始めたのだ。何が起こっているのか、誰も分からなかった。嵐唱の生み出す陽電子の雷はあらゆる物質と対消滅し、光として爆散させる。
風も雷も光となり、一瞬の間に消えていく。
後には極光の翅を失い、全身の装甲がボロボロとなった怪物がいた。
「sowsなle zowk dueぜke でwosleすs wwskiaかwosl」
装甲すらも体の一部ということだろう。既に再生が始まっている。
だがその前に、皆はその下を確認した。全身を覆う黒い装甲と仮面によって隠されていた化け物の容姿が明らかとなったのである。
そしてネオン、スルザーラ、そしてグリムは驚愕する。声にこそ出さないが、その驚きは表情にはっきりと出ていた。倒れかけたルークに気づいてネオンは支え、その耳元である言葉を口にする。
「リィア」
誰だ、とルークは口にしようとした。
だが掠れた声しか出ない。そんなルークにネオンは治癒の魔術をかけつつ、呟き続けた。
「そんな。どうして……なんて酷い」
「聖守様、気を確かに」
「ごめんなさいスルザーラ。でもこんなことって……確かにこれは当事者にしか理解できません。私もあなたを責めることができませんねルーク」
もしかすると初めて名を呼ばれたかもしれない。
ルークは思わず目を見開いた。そして察した。少し回復したことで、ルークもまた口を開く。
「知り合い、なのか?」
「彼女の顔はリィアのものです。聖石寮の最高峰、九聖の第二席リィア。彼女は私にとって部下であり、大切な友人でした。間違いありません。ヴァルナヘルで帝国を迎え撃ったのもの彼女で、そこから連絡が途絶えていましたから」
ネオンの声は震えていた。
おそらく言葉通り深い関係だったのだろうと、声色から察することができる。何よりルークは深く共感することができた。これは大きな覚悟が必要なことだ。
その中でグリムは比較的冷静に、状況の分析を行っていた。
「見てください聖守様。リィア殿……だった魔族の胸元です。あの輝きは大聖石に違いありません」
ネオンとスルザーラはすぐに同じ場所へと注目した。黒い仮面の下に隠れた貌に衝撃を受け、二人は気付くのが遅れてしまった。確かにリィアだった魔族の胸に嵌っているのは大聖石である。九聖となった者に与えられる、この世にたったの九つしかない証だ。
この魔族が奇声を発しつつ放っていた多彩な能力は、この大聖石の力を使っている。間違いない。ネオンたちはそう確信した。
「どうしますか聖守様」
「引きます。私たちに勝ち目はありません。少なくとも今は」
「逃がしてくれるでしょうか?」
「誰かが犠牲になって足止めをするしかないでしょう。勿論、私がやります」
「いけません!」
すぐにスルザーラは力強く拒否した。
「あなたはシュリット神聖王国に必要な御方です。私が時間を稼ぎます」
「スルザーラ殿とて劔撃を確実に持ち帰る必要があります。私が……」
「スルザーラでもグリムでも時間稼ぎにすらなりません。私が……私の残る全てを《聖捌》に注ぎ込めば」
そうは語るがネオンとて限界。絞り出せる魔力はほとんど残っていない。《聖捌》の光を出力したところで、極光の翅を持つ魔族は紙のように貫いてくるだろう。
つまるところ、誰が残ったところで時間稼ぎすらできないのだ。
(く、そ……嵐唱……)
『既に両腕は我に捧げられ、我のものとなった。次は何を捧げる? 両目か? 両脚か? それとも心臓すらも捧げるか?』
ルークの両腕はネオンの治療を受けても元に戻る様子がない。腕全体に規則的な亀裂が走っており、鱗模様にも見える。また触れると肌というより、金属のような質感であった。もはや自分の知る形ではない。文字通り、捧げられてしまったのだとルークも理解していた。
『我は構わん。お前は力の器だ。我に捧げよ。全てを捧げたとき、我はお前となり、お前は我となる』
その言葉はどこか恐ろしい。このまま身売りし続ければ、その分だけ力が手に入るのだろう。しかし反動を躊躇っている場合ではない。
「嵐唱。俺は――」
覚悟を決めたその時、突然化け物へと何かが叩きつけられる。
その激しさのあまり土煙が舞い上がり、ルークたちは思わず目を閉じた。
土煙の向こう側ではそれから何度も激しい衝撃の音が鳴って、その度に塵が押し寄せる。理解できないことが起こっていても、今は待つしかなかった。
「oxkwi kziw akdiel ad!? ysk炎o dpep ew毒eedop jeukao lai epa!」
特徴的な絶叫と同時に、土煙が赤い霧に塗り潰された。更には何かが潰れる音や、液体の音など、戦闘を想像させる音が続く。
「aaaaaaaaaaaaa! dkaoe死i kwoi kao ke!」
一際重い音が響き、霧の奥がさらに赤く染まった気がした。
それからは一切の音が消え去り、少しずつ赤い霧も晴れ始める。何が起こっているのか、ルークたちには一切理解できなかった。ただ結果だけが彼らの目の前に現れる。
まず現れたのはカーミラであった。
両目を覆う布には大量の血液が付着し、頬を伝って顎から滴っている。右手では鞭のような奇妙な剣を握り、赤い刃を地面に引きずっていた。そして霧が晴れていくに従って、剣が何かを貫いていることにも気が付いた。
(あれ、は……あの化け物魔族。倒したのか。カーミラが、一人で……)
化け物の背からは極光の翅も消失しており、全身を覆う黒い装甲も破壊され尽くしている。腕や足は引き千切られ、腹には穴が開き、胸元が剣で貫かれていた。
カーミラはその剣、蛮骨を引き抜く。
脊椎の一つ一つに生成された瘴血の刃が、削るようにして極光の翅の魔族を引き裂き、真っ二つにしてしまう。流れ出た大量の血液は生き物のように蠢き、カーミラの身体へと吸い込まれていった。




