第9話 城へ
アストリットの嫌がらせは度々あったが、別段ルネに影響はなかった。子供じみた嫌がらせなどで屈するような性格ではない。それよりも3ヶ月が経って、まだ80万リールほどしか稼いでいない事実の方が、ルネの気持ちを沈ませた。
(給与を上げてくれなんて言ったところで雀の涙だろうしなぁ……)
神殿での会議を終えて、清書をし終わったルネは顔を曇らせる。
この調子では、絶対に1年で返済などできない。
(なんの手立てもないのに勢いだけで受けたのは、やっぱり無謀だったかなぁ……)
あの時は腹も立っていたし、ただラウルに言われるがままに頷くなんてしたくなかった。
「はぁ……」
「随分大きな溜め息だな」
思わず大きな溜め息が出ると、背後から声が掛かった。驚いて振り返った先には、エミールが立っていた。
「殿下!」
「どうした? 何かあったのか?」
「い、いえ、そんなことは……。あれ、今日は会議もないのに、どうしてこちらに?」
ルネは慌てて立ち上がりエミールに近付く。
「今日は会議じゃない。ルネに用があって来たんだ」
「私に?」
そう言うと、エミールは手に持っていた書状を差し出した。
「王命だ。一緒に城に来てほしい」
「え!?」
エミールの言葉に驚いたルネは、慌てて書状を開く。そこには確かに国王の署名と押印があり、城への登城命令が書かれていた。
「ど、どういうことですか?」
「ルネに頼みたいことがあるんだ。すぐに行けるか?」
「え、ええ。清書はもう終わりましたから。ちょ、ちょっと待っていて下さい。官長に提出してきます!」
ルネはそう言うと、机の上の議事録を持って部屋を出た。
神殿での仕事はこれで終わりなので、官長に挨拶をすると部屋に戻る。
「お待たせ致しました」
「うん。行こうか」
「は、はい!」
ルネは少し戸惑いながらも返事をすると、エミールの後を追って神殿を出た。
神殿から城までは歩いて15分も掛からないとは思うが、それでも王子であるエミールが従者も付けず、一人で城下を歩いているのが少し意外だった。
「いつもお一人なのですか?」
「ああ、おかしいか?」
「お一人なんて、危険ではありませんか?」
隣を歩くのはさすがにおこがましいかと、少し後ろを歩いているルネに、エミールは首を巡らせて答える。
「これでも騎士だしな。誰かに守ってもらう必要はないさ。それより伯爵夫人がお供も付けずに城下をうろついている方が珍しいと思うんだけど」
「じゃあ、お互い様ですね」
ルネが悪びれずにそう言うと、エミールは少し驚いた顔をした後、吹き出した。
「ルネとしゃべっていると飽きないな」
楽しげに笑うエミールの顔を見上げて、ルネも笑う。
貴族の男性なんて誰も彼も気位ばかり高くて、会話なんて全然楽しくないと思っていた。だがエミールとは不思議に自然体で話せて、楽しい気持ちにさせる。
「殿下、今日はもしかして、前に言っていたお仕事ですか?」
「うん。仕事の説明の前に、ちょっと話を聞いてくれ」
「はい」
エミールはそう言うと、足を遅らせ隣に並ぶ。
「ルネは150年前、この国に魔法があったのを知っているか?」
「魔法!?」
突然突拍子もない話が出てきて、ルネは思わず声を上げる。
「そう。この国には魔法があった。魔力のある者は魔法を学び、魔物と戦っていた」
「物語としては知っていますが、本当のことなんですか?」
「うん。魔法は戦いだけじゃなく、生活においても便利なものとして使用されていた。でも150年前、魔法は消えてしまった」
「消えた? どうしてですか?」
「魔法は精霊たちの力を借りて使えるものなんだけど、その精霊たちを従えている精霊王が死んでしまったんだ」
「精霊王……」
ルネはなんだかおとぎ話を聞いているような気がして、これが現実の話とは思えなかった。
だがエミールは真剣な目で話を続ける。
「精霊王が死んだ途端、魔法使いたちは魔法を使えなくなった」
「どうしてですか?」
「呪文が変わってしまったからだ」
「呪文が変わる?」
「魔法の呪文はその精霊王に準じている。新しい精霊王が生まれれば、魔法もまた新しく生まれ変わる」
エミールの言っている意味がまったく分からず、ルネは首を捻るばかりだった。そうこうしている内に城に到着すると、城内に入った。そのまま煌びやかな廊下を進む。
「……もしかして、殿下も魔力のある方なんですか?」
なんとなくの思い付きで訊ねると、エミールは笑って頷く。
「うん。素養はある。騎士の中でも隊長クラスは皆魔力がある者なんだ。150年前に存在した魔法学院はすでにないんだが、神殿内に残された教書で勉強はしている」
「すごい……」
「何もすごくないよ。ただ勉強したというだけだから。いくら呪文を唱えても、風の一つも吹かせやしないんだ。今のところはね」
「今のところは?」
ルネが首を傾げると、エミールが地下へ降りる階段の前で足を止めた。
兵士が二人立っているが、エミールはそのまま階段を降りていく。ルネも慌ててその後を追うと、下はどんどん暗くなっていった。
「殿下……、ここは?」
「足元が暗いから気を付けて」
「は、はい……」
城の中はどこも華やかに装飾されているが、この階段は剥き出しの石でできていて、壁紙も貼られていない。
長い階段を降りていくと、徐々に空気はひんやりとしてくる。ルネは少し怖くなってきて、降りる足が遅くなってきてしまう。ポツリポツリと壁にあるランタンのぼんやりとした灯りだけが頼りで、少し前を歩いているエミールの姿も、影に紛れてしまっていてよく見えない。
「で、殿下……」
気弱な声でついエミールを呼んでしまうと、エミールは振り返って無言で手を差し出してくれる。
子供のようで少し恥ずかしかったが、その手を掴むとゆっくりと階段を降りた。
そうして3階分以上は階段を降りた頃、やっと終わりが見えてきた。階段の終わりに古い石造りの扉が行く手を阻んでいる。その前まで来ると、エミールは足を止めた。
「ここは王族の者しか入れない、秘密の場所だ」
「え……?」
エミールは静かな声で呟くように言うと、扉に大きな鍵を差し込む。ガチャンと重い音が響くと、扉を押し開けた。
扉の隙間から徐々に光が漏れて、ルネの胸がドキドキしてくる。
(中に何があるっていうの……?)
ゆっくりと開く扉から差し込む光に目を細める。
そうして光の中から浮かび上がったのは、巨大な洞窟の中で光を放つ、広い花畑だった。




