第33話 新しい生活
城下町の3区は商業地区で中心には商人ギルドがあり、たくさんの商店が並んでいる。朝から夜遅くまでたくさんの人が働く、とても活気のある地区だ。
エフラー伯爵の所有する土地は、大通りから路地に入り少し歩いたところにある。ルネとコレットは荷物を抱えてその家の前に立つと、2階建ての家を見上げた。
「うーん、ぼろぼろね」
「住めますでしょうか……」
「とりあえず入ってみましょう」
コレットは不安げな顔で頷くと、ドアの鍵を開ける。室内に入ったルネは、埃っぽい空気に顔を顰めた。
狭い玄関には壊れた家具が倒れたままになっている。階段もぼろぼろで、床板を数枚直さなければ2階には上がれないだろう。
「……雨漏りはしていないようですね」
「そうね。あっちの部屋に行ってみましょうか」
ルネは荷物を床に置くと、玄関のすぐ隣のドアを開ける。中は居間のようでそこそこ広い空間には、小さいながらも暖炉があった。
コレットは窓に寄ると、カーテンを開け、錆びついた窓をどうにか開ける。爽やかな風が入り込んできて、少しだけじめついた空気が遠のくと二人は顔を見合わせた。
「手直しは大変だろうけど、どうにか住めそうね」
「お掃除、頑張ります」
「私もやるわ。二人でやればすぐ終わるでしょ」
笑ってそう言うと、コレットはソファセットに掛かった布を取り払っていく。
「旦那様は戻ってこいと言われておりましたが、やはりここに住まわれるのですね」
「うん……」
エフラー伯爵との離婚を父に報告しに行った時、怒られはしたもののすぐに許された。それはひとえに勲章をもらったからで、父はこれでもっと地位の高い男性と再婚が望めるかもしれないと喜んだ。
ルネはしばらくは結婚する気は無いと訴えたが、父はまったく聞く耳持たなかった。予想していたとはいえ、やはりここに居場所はないのだと、ルネは実家を後にした。
「この家があれば、私の稼ぎで十分暮らしていける。コレットにはまた苦労かけてしまうけど」
「何をおっしゃいます! 私はお嬢様が行くところなら、どこへでもご一緒します! 二人暮らしなんてなんだか楽しそうですしね」
茶目っ気たっぷりにウインクしてみせるコレットに、ルネは笑顔を返す。
「優秀なあなたが一緒なら、とっても頼もしいわ。離婚届もあなたがいたからすぐに出せたんだもの。そういえば聞いてなかったけど、どうやって伯爵のサインを書いたの? 伯爵の直筆な訳ないし……」
「あれは執事が書いたものです」
「執事が?」
「ええ。伯爵は常に代筆を執事にさせていたので、そっくりな字が書けるんです」
「でも、どうやって? お願いしたからって、そう簡単に書いてもらえるものじゃないでしょ?」
「それはもちろん、私の美貌を使って」
そう言うと、コレットはポケットから手紙を取り出した。裏に書かれた宛名には、エフラー伯爵邸の執事の名前が書かれている。
「あら、まぁ……。でもいつの間に?」
「伯爵邸に入ってすぐですわ。まぁ、私はまったく興味ありませんけれど」
「あなたも罪作りねぇ」
「ちょっとした人生のスパイスですわ。とはいえ執事の働きだけではありませんよ。伯爵邸の使用人たちは、皆お嬢様に同情的でしたから」
「そうだったのね……」
伯爵とアストリットからは使用人のような扱いを受けていたが、確かに使用人たちは最初から最後まで自分に失礼な態度は取っていなかった。
それを思い出して、ルネは穏やかに微笑む。
「さぁ、お話はこの辺で終わりにして、さっそくお掃除を始めましょう」
「そうね。夜までに寝床だけでも確保しないと、二人とも床で寝ることになっちゃうものね」
ルネの言葉にコレットがクスクスと笑いだすと、ルネも段々と面白くなってきて、しまいには二人で声を上げて笑ったのだった。
◇◇◇
次の日、新しい家から城に出勤したルネは城に入ると、衛兵に頭を下げられて驚いた。今までは完全に素通りだったのだが、今日は兵士どころか、通り過ぎる貴族にまで頭を下げられた。
ルネはいちいち頭を下げ返してしたが、勲章の効果とはいえちょっと面倒だなと思いながら廊下を歩いていると、なぜかそこにラウルがいた。
「ルネ!!」
「な、なんでここに……」
驚いて足を止めたルネのそばにラウルが走り寄る。
「ルネ! 戻ってきてくれ!!」
「は!?」
ラウルはルネの手を強引に取り引き寄せる。ルネはぞっとして手を引くが、力が強くて振り払えない。
「アストリットは屋敷から追い出した。もう邪魔者はいない」
「何を言っているの?」
「今なら全部許してやるから、戻ってこい」
「許すって……、私たちはもう離婚したのよ? 馬鹿なこと言わないで!」
気味の悪いうすら笑いを浮かべるラウルにルネがきっぱりと言うと、その表情が怒りに変わった。
「ふざけるな! お前が勝手に離婚届を出しただけだろうが! 執事をどう懐柔したか知らないが、あんなものは無効だ!!」
「無効ではない!」
突然、背後から声が上がってルネが驚いて振り向くと、そこには険しい表情のエミールが立っていた。
ゆっくりと近付いてくると、ルネの手を掴むラウルの手を振り払う。
ルネはそこで初めて気付いたが、貴族や騎士たちが足を止めてこちらの様子を窺っている。
「エフラー伯爵! ルネに付きまとうのはやめろ!」
「で、殿下……、いや、これは……、ちょっとした夫婦の行き違いでして……」
しどろもどろで言い訳をするラウルを、エミールは睨み付ける。
「伯爵、お前は妻であったルネに多額の借金を肩代わりさせたらしいな」
「な、なぜそれを!? ち、違います!! それは、その……」
「言い訳は結構だ。お前のことは調べさせてもらった。ルネの肩代わりした1千万リール以上に、借金が膨れ上がっているようではないか」
「え、ええ!? そんな……」
エミールの言葉は寝耳に水だったらしく、ラウルは本気で驚いている。
「仕事においてもいくつか不正を働いているな?」
「ば、馬鹿な……、誰がそんなことを……」
いつの間にか結構な人数がこちらの様子を見ていて、エミールの言葉にざわめきが起こる。やっとその視線に気付いたラウルは、周囲を見回し顔を歪めた。
「お前にはまだまだ叩けば埃が出そうだな。衛兵!!」
エミールの声に兵士が走り出てくると、ラウルの両腕を掴んで捻り上げる。
「ま、待って下さい! 何かの間違いです!! こ、こんな……」
「連れて行け!!」
「はっ!」
兵士に連れて行かれるラウルを呆然と見送ったルネは、その姿が見えなくなると、エミールに顔を向けた。
「エミール様……」
「大丈夫だったか?」
「はい……。それより、不正って……」
「よくある話だが、身分を使って色々と口利きしていたようだ」
小悪党とは思っていたが、やはりラウルはそういう人間だったのだ。だが公の場でこんな醜態を晒したのだ。これで再起不能になるだろう。
ルネは大きく息を吐いて肩を落とした。
「伯爵のことはもう忘れた方がいい」
「そうですね……」
「さ、行こう」
穏やかに微笑んでエミールが促すと、ルネもやっと笑みを返して頷いた。
二人で精霊の間に入ると、いつもと変わらず自由気ままに精霊たちが飛び回っている。その様子に安堵しながら歩き、精霊王のいる島に向かう。
島に渡ろうとすると、ルネは水の中に飛び石が置かれているのに気付いた。
「これ……、エミール様が?」
「ここに来る度、足を濡らすのもどうかと思ってね」
そう言うと、エミールは身軽に飛び石を渡る。そうして島まで行くと振り返り、手をこちらに差し出した。
ルネはスカートを持ち上げると、ぴょんぴょんと跳ねるように飛び石を渡る。最後に島に向かって飛ぶと、エミールがしっかり腕を掴んで引き寄せてくれる。
その胸に飛び込むような格好になって、少し焦ったルネは、慌てて体を離した。
「ご、ごめんなさい。えと……、ありがとうございます」
ルネが戸惑いを隠すように口早に感謝を述べると、エミールは物言いたげな顔をしながらも、無言で手を下ろした。
「あ、おはよう」
ルネがその場にしゃがんで精霊王に顔を向ける。精霊王は大きな花の上にちょこんと座ってルネを見上げる。
その愛くるしい姿にルネは微笑んだ。
「エミール様、精霊王は何か食べたりしないんでしょうか?」
「うーん、精霊だし、人間の食べ物は必要ないんじゃないか?」
「そっか……。じゃあ人間の赤ちゃんのようなお世話は必要ないんですね?」
「そうだな。何かあれば、そばにいる精霊たちが世話をするだろうしな」
エミールの言葉に納得したルネは、そっと手を差し出し、小さな頭を撫でる。精霊王は嬉しそうに笑うと、短い手を揺らした。
「ルネ」
名前を呼ばれ顔を向けると、隣に膝を突いたエミールは真面目な表情をしている。
「なんです?」
「その……、離婚、本当にしたんだな」
「はい。おかげ様で」
「そうか……」
「エミール様のお口添えがあったから、教会もすんなり受領してくれたんです。本当に感謝しております」
明るい声でルネは言うが、エミールの表情は変わらない。
「実家には帰らないと言っていたが」
「はい。やっぱり父には私の考えは受け入れてもらえませんでした。でも3区の家はもう私の物ですから、気ままに一人で暮らしていきます」
「……危なくないか? 女性の一人暮らしなんて」
「コレットもいるし、全然平気です。それに私が普通の女の子たちなんかよりよっぽど強いって、エミール様は知っているでしょ?」
笑ってそう言った時だった。突然エミールが手を伸ばしたと思ったら、抱き締められた。
「エ、エミール様!?」
あまりのことに驚きルネは声を裏返らせて呼び掛けるが、エミールはギュッと力を込めて離してくれそうにない。
「ルネが誰より強いって知ってる……。でも、俺に守らせてくれないか?」
「え……?」
「君を守りたい」
エミールの低い声に、ルネの胸が早鐘を打つ。嬉しくて恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだ。
「ルネが好きだ。……ルネは? 俺のこと、どう思ってる?」
「わ、私は……」
エミールは腕の力を緩め、顔を覗き込んでくる。あまりの近さに耳まで真っ赤になると、エミールはふっと嬉しそうに笑った。
「顔が真っ赤だな」
「エ、エミール様が突然そんなことを言うから……」
「離婚したなら、もう遠慮する必要はないだろ?」
楽しげにそう言われて、ルネは何と答えていいか分からず口ごもる。
エミールはルネの両手を取ると、そのまま額にキスをした。
「好きだよ、ルネ。君は?」
もう一度聞かれて、ルネはあまりの嬉しさに涙が溢れてくる。
「……私も、好きです」
そう言った途端、エミールは唇にキスしてきた。ルネは慌てて目を閉じる。
そうしてルネは幸せを噛み締めると、エミールの背に腕を回し、ギュッと抱き締め返した。
――それから数週間後。
すっかり片付いた部屋の中で出掛ける準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
ルネが明るい声で「はーい」と声を上げてドアを開けると、そこにはエミールが笑顔で立っていた。
「おはよう、ルネ」
「おはようございます、エミール様」
「迎えに来たよ」
ルネは笑顔で頷くと、背後でコレットが慌てた様子で走り寄る。
「お嬢様! お帽子を!」
「ありがとう、コレット。じゃあ、行ってくるわね!」
「行ってらっしゃいませ!」
ルネはコレットに手を振り家を出る。そうして隣を歩くエミールが手を差し出すので、その手をギュッと握り締めると走り出した。
「お、おい! ルネ!」
「さぁ! お仕事ですよ! エミール様!!」
笑顔でそう言ったルネは、エミールと共に賑やかな大通りを駆け抜けていった。
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