第32話 離婚
叙勲式が終わり部屋でゆっくりしていると、ほどなくしてエミールが訪れた。
「少し、話せるか?」
「もちろんです、どうぞお入り下さい。コレット、お茶を用意してくれる?」
「はい、お嬢様」
コレットが頭を下げて部屋を出て行くと、ルネはエミールと二人でソファに腰を下ろした。
「叙勲、おめでとう」
「ありがとうございます、エミール様」
ルネが笑顔で返事をすると、エミールはソファの横に置いていた大きなバッグをテーブルの上に置いた。
「約束のものを渡そうと思ってね」
そう言ってバッグを開けると、中には札束が入っている。さすがにこんなにたくさんの札束を見たことがなく、ルネは目を見張った。
「報酬の1千万リールだ」
「確かに、受領致しました」
ルネはにこりと笑い、バッグごとお金を受け取る。勲章も嬉しかったが、やはり1千万リールを手に入れたことの方が喜びはひとしおだった。
「なぁ、ルネ」
「はい」
「こんなことを聞くのはどうかと思うが、……その1千万リールは何に使うんだ?」
エミールは聞きづらそうに言ってきて、ルネは少しだけ考えてから口を開いた。
「……離婚の手切れ金です」
「……え?」
ルネの言葉にエミールは小さな声を出したまま固まっている。その目を見つめて、ルネは困ったような笑みを浮かべる。
「エミール様にはご説明します」
ごまかすことはいくらでもできたが、ルネは真実を話したいと思った。結婚からの経緯をすべて話すと、エミールは眉間に深い皺を寄せた。
「なんて酷い話だ。結婚相手に借金を背負わせるなんて……」
「まぁ、聞いたことはありませんよね」
「伯爵ともあろう者が、信じられない……」
本気で怒っている表情のエミールを見て、ルネはそれだけで慰められた気持ちになった。これまでずっとコレットと二人だけで戦ってきた。それを分かってくれて、本当に嬉しい。
「でもそれももう終わりです。この1千万リールを渡せば、すっぱり別れられますから」
「だけど、それじゃあルネにばかり不利じゃないか?」
「そうですか?」
「だってエフラー伯爵には恋人がいるんだろ? 借金は無くなり恋人もいて、何も損していないじゃないか。離婚だって、きっとルネを悪く言うに決まっている」
「それはまぁ、そうですけど……」
確かに離婚して悪く言われるのは女性の方が多い。社交界でも身の置き所を無くしている者や、悪い噂に耐え切れず引きこもってしまう者もいる。それに、その後の再婚も上手くいかないことが多い。
それに比べ爵位のある男性は、離婚したとしてもその地位からか、それほど時間を空けず再婚したりする。
「……離婚したら、実家に帰るのか?」
「いいえ。父は伯爵との離婚を決して許してはくれないでしょうし、伯爵からもらう家を直して暮らそうと思っています」
「一人でか!?」
「ええ」
さすがに驚いたのか、エミールが声を上げる。だがルネはまったく曇りのない笑顔を浮かべ頷いた。
「今は私、まったく不安はないんです。城で働いてよく分かりました。やっぱり私は働くのが好き。毎日とっても充実していたんです。これまではある程度の年齢になったら、結婚して子供を産んでって当たり前に思っていました。でもこんな生き方をしてもいいんだって、今は自信を持って言えます」
「ルネ……」
「ラウル様は酷い人ですけど、実は少し感謝しているんです」
「感謝?」
「だって、借金を背負うことがなければ、こんな未来はなかったんですもの。エミール様に出会って、これほど責任のある仕事をやらせてもらえて、勲章まで……。こんな嬉しいことはありません」
素直な気持ちをエミールに向けると、エミールはじっとルネを見つめた後、ふっと笑った。
「ルネらしいな」
「お褒めの言葉と受け取っておきますね」
「……結婚はもうこりごりか?」
「そうですね。私には仕事がありますし、しばらくはもういいかな……。でもいつか、私のことを認めてくれる特別な人が現れたら、結婚するかもしれませんね」
「そうか……」
少しだけホッとしたような顔をしたエミールに、ルネは少しだけ胸がドキドキした。けれど、それ以上聞くこともできず、その後はコレットの入れてくれた美味しいお茶を飲んで、穏やかな時間を過ごした。
◇◇◇
久しぶりに伯爵家に戻ったルネは、テーブルの上にどさりとバッグを置いた。
「ルネ、今回は素晴らしい働きだった。お前のおかげで私の株も相当上がった」
「あなたのためにやった訳ではありませんから」
ラウルの言葉をぴしゃりと跳ね除けると、ルネはバッグを開いた。ラウルとアストリットはバッグの中身を見て目を見開く。
「こ、これは……」
「ここに1千万リールあります」
「ほ、本当に?」
「お疑いなら、どうぞ数えてみて下さい」
ルネがそう言うと、ラウルが慌てて札束を数えた。隣に座るアストリットも固唾を飲んで見つめる。
そうして全部を数え終わると、ラウルは札束をバッグに戻した。
「……確かに、1千万リールある」
「ラウル! これで私たち結婚できるわね!!」
アストリットが歓喜の声を上げるが、ラウルの表情は硬いままだ。
「最初にお約束した通り、これをもってあなたとの結婚は解消させて頂きます」
「待て!」
「何か?」
「お前は国にとってかけがえのない存在になった。お前が妻でいれば、私はこれからどんどん出世できる。……だから離婚はしない」
「はあ!?」
声を上げたのはアストリットだった。立ち上がってラウルを睨み付ける。
「ば、馬鹿なこと言わないで! 私と結婚するんでしょ!?」
「うるさい!!」
「ラウル! どうしちゃったっていうのよ!?」
「黙れ、アストリット! お前はただ我が家の財産を食い潰すだけではないか! 今まで目を瞑ってやっていたが、もう我慢できん!」
「そ、そんな!!」
ルネを放って二人は口ケンカを始めてしまう。ルネは仕方なくその様子を見つめる。
「ルネは借金を返し、王家にも伝手を作ったんだぞ!? お前にそれができるのか!?」
「わ、私だって、シャーリー様と仲良くなったじゃない!」
「あの女は失脚した! もう王太子妃になることはない!」
ラウルの言葉にアストリットは言葉を失った。シャーリーが王太子妃の内定を取り下げられたことは、すでに貴族たちの間に広まってしまっている。
すでに城からも去り、実家に引きこもっているという。
「で、でも……、私たち、愛し合っているじゃない……。ルネなんて、愛していないでしょう?」
アストリットが声を震わせてラウルの腕を掴む。けれどラウルはその手を払い除けた。
そうして冷酷な目でアストリットを見つめる。
「私が欲しいのは、私の地位を上げる者だ。ルネはまさに私の理想の妻だ。そう簡単に手放すものか」
ラウルの言葉に、アストリットの目にみるみる涙が浮かんだ。
「そんな……、酷い……、酷いわ……っ……」
アストリットは声を上げて泣きだすと、そのまま部屋を走り去ってしまう。
それを見送ったラウルを見て、ルネはやっと口を開いた。
「追い掛けなくていいの?」
「放っておけ。喚くだけしか能のない娘だ」
あれだけ毎日仲睦まじい様子を見せていたのに、ラウルはあっけなくアストリットを切り捨てた。
(本当に酷い男……)
アストリットに同情などしないけれど、こんなにも女性のことをもののように考えているラウルが許せない。
「私はアストリットより価値がありますか?」
「もちろんだ。どの女よりも価値がある。ただ働くだけしか能がない売れ残りだと思っていたが、お前は金の卵だった」
「それで褒めてるつもりなの?」
ルネは馬鹿にしたように鼻で笑うと、ラウルを見下ろす。
「私が有益だと分かった途端、手放すのが惜しくなって約束を反故にするのね」
「約束などお前が勝手に言い出したことだろう?」
「ですが、あなたはあの時、確かに約束しましたよ」
「うるさい! 私はお前の夫だぞ!? 妻は夫の命令に従っていればいいんだ!!」
声を荒げて立ち上がるラウルに、ルネは冷たい視線を向ける。
そうしてふっと笑うと腰に手を当てた。
「あなたのために働くなんてまっぴらよ」
「なんだと!?」
「私は私のためにだけ働く。それに私はもう、あなたの言うことを聞く必要はないのよ」
「……どういう意味だ?」
怪訝な表情のラウルに、ルネはポケットから紙を取り出しテーブルに投げ捨てた。
「どうせそう言うと思って、もう離婚届は提出しておいたわ」
「な、なんだと!?」
ルネの言葉にラウルが泡を食った様子で紙を拾い上げる。食い入るように紙面を見つめると、ガバッと顔を上げた。
「こ、こんなものは偽物だ!!」
「あら、よく見て。ちゃんと教会の受領印が押されているでしょう? 正式な離婚証明書よ。本物の離婚届を確認したいなら、教会へどうぞ」
「そ、そんな……」
愕然として、ラウルはどさりとソファに腰を落とす。
「ど、どうやってこんな……」
「私は有能ですからね。こういうこともできてしまうんですよ。さて、これで離婚は成立しました。あ、あと、3区の土地と家の権利もすでに私に移っていますから、あしからず」
「お、お前……」
真っ青な顔のラウルに向かい、ルネは優雅に腰を落とす。
「短い間でしたが、お世話になりました。では、ごきげんよう」
「ま、待て! 待ってくれ!」
情けない顔で慌てて引き留めるラウルに向かい、にっこりと笑顔で言ったルネは、そうして颯爽と伯爵家を去ったのだった。




