第29話 目覚めの言葉は
ルネがノートを広げペンを動かしていると、青い髪の精霊がノートの上にちょこんと座った。その可愛らしい仕草に笑みを浮かべながら、今度は魔法書を広げパラパラとページをめくる。
「えーと……、ディシア・ディルディア・シャル・リンネ……、世界を満たす水の調べ、か……」
昨日、水の中で聞こえた言葉は、ただ水を跳ねさせるだけの作用しかないのだろう。だからエミールは『水の精霊の遊びのようなもの』と言ったのだ。
でもあの時、自分は初めて精霊語を使って、魔法らしきものを使うことができた。それがルネにとってはとても嬉しいことだった。
「さて、またあなたたちの言葉を聞かなくちゃね」
魔法書を閉じると、ルネはノートの上に座る精霊の鼻先をつんっと指先で触れた。
それからルネはコツを掴んだのか、その後1ヶ月の間に5つの呪文を聞き出すことに成功した。魔法書も読み込み、単語が頭に入った状態で精霊の声を聞くと、かなりはっきりと何を言っているか分かるようになった。
そんな時、珍しく国王から呼び出しを受けた。
「失礼致します」
一人で国王の執務室に行くのは初めてで、少し緊張しながら部屋に入ると、国王は書棚の前で本を広げていた。
「陛下、ごきげん麗しゅう存じます」
「ああ、エフラー夫人。こちらへ」
少し距離を取って挨拶をすると、国王が手招きする。そばまで行くと、国王の手にある本が魔法に関する文献であることが分かった。
「仕事は順調のようだな」
「はい。やっとこの頃コツのようなものが掴めまして」
「それはいい。エミールも魔物との戦闘が、徐々に楽になっていると言っていた」
国王の言葉にルネは微笑む。エミールを手助けできているのが、一番嬉しい。こうして国王に認められていること以上に。
「そこでそろそろ精霊王の目覚めを優先させてもらいたい」
「精霊王、ですか……」
「精霊王さえ目覚めれば、城下町を中心にかなりの範囲から魔物を排除できるはずなのだ」
「そうなのですか?」
「ああ。古い文献には、精霊王の存在自体が国の守りであると書かれている」
精霊王にそんな力があるとは思わなかった。もしそうならばエミールも危険な目に合う回数が減るだろう。
「分かりました。ではそちらを優先してやっていきたいと思います」
「よろしく頼む」
国王の執務室から退出したルネは、また精霊の間に戻ると、久しぶりに奥にある小さな泉の方へ向かった。
以前はエミールに抱き抱えられて島に渡ったが、今回はスカートをまくってそのまま水に入った。膝より少し上まで水はあるが、流れがないので容易く渡ると島に上がる。
目の前にある大きな水晶に近付き中を覗き込むと、目を閉じた美しい人をじっと見つめる。
「精霊王を目覚めさせる言葉、か……」
ルネは呟き水晶から目を離すと、周囲に咲く花に視線を移した。そこには真っ白の精霊たちがルネを見上げている。けれど不思議なことにその子たちはまったくおしゃべりをしていない。口を開かず、ただルネを見つめるだけだ。
「あなたたちがそうじゃないの?」
他の精霊たちとは明らかに違いがある。元気に飛び回ることもないし、表情も子供のようにくるくる変わることもない。ただ静かにそこにいるだけだ。
精霊王を見守るようにいる精霊たちだから、きっと精霊王を目覚めさせる言葉を話しているのかと思っていた。
「なぜ黙っているの?」
精霊に顔を近付けて訊ねてみるが、返事はない。
ルネはまた壁にぶつかった気がして、小さく溜め息を吐いた。
(聞く以前に、話してもらう方法を考えなくちゃ……)
その場に腰を下ろして腕を組んだルネは、しばらくどうするか考え込んだが、そんなにすぐ良い案が思い浮かぶはずもなかった。
「エミール様に相談してみるか……」
精霊のことならやはりエミールに聞くのが一番だと立ち上がったルネは、遠くで石の扉が開く音に顔を向けた。
遠目だったがすぐにエミールだと分かって笑みを浮かべたが、その額に包帯があるのが見えてルネは目を見開いた。
「エミール様!」
慌ててざぶざぶと水に入り、そのまま花畑を走る。近付いたエミールは首にも包帯があって、ルネが顔を顰めると、苦笑を返した。
「お怪我を!?」
「情けないことにね。まだまだ鍛錬が足りないようだ」
肩を竦めてそう言うエミールに、ルネはつい手を伸ばしてしまう。けれど途中でハッと気付き、手を戻した。
「……大丈夫なのですか?」
「ああ、大したことない。それより父上に呼ばれたと聞いたけど、何か言われたのか?」
「あ、はい……。精霊王を目覚めさせることを優先してほしいと言われました」
「そうか。魔物の数を根本的に減らす方がいいに決まっているが……」
「エミール様、そのことでご相談があったんです」
ルネがそう言うと、エミールと再び精霊王のそばに向かった。
「私、この子たちが精霊王を目覚めさせる言葉を、知っているんじゃないかと思っているんです」
白い精霊たちを見つめてそう言うと、エミールは頷く。
「うん。それはたぶん合っている。けれど……」
「はい。この子たちは何もしゃべっていません。エミール様はこの子たちのこと、何か知りませんか?」
「うーん……、遥か昔、同じように精霊王が代替わりしたことはある。けれど詳しいことは書かれていないんだ」
「そうなのですか……」
エミールが何も知らないとなると、後はルネがどうにかするしかない。
「役に立たなくてすまない」
「いいえ。これは私の仕事ですもの、私がなんとかします。それよりエミール様はお部屋でお休み下さい。お身体を大事になさって下さい」
「俺のことを心配してくれているのか?」
じっと見つめて言ってくるエミールに、胸がドキンと跳ねる。真っ直ぐに見つめる目を逸らすことができない。
「エミール様……、私……」
「ルネ……」
エミールの手が伸びてきてルネの頬に触れる。胸の鼓動が耳のそばで鳴っているようにドキドキとうるさい。
ゆっくりと顔が近付き、ルネが自然に目を閉じた瞬間、突然扉を叩くドンドンという音が洞窟に響いた。
「殿下! 魔物です!! 城の上空に魔物が!!」
兵士の声にハッと目を開けたルネは、エミールの険しい顔を見て思わず腕を掴んだ。
「いけません! 怪我をしているのに!!」
「行かなくては」
「でも!!」
心配で手を離すことができずにいると、エミールは優しい笑みを浮かべてルネの手を握った。
「大丈夫だ。俺にはルネが教えてくれた魔法がある」
「エミール様……」
「ルネを守るためにも、行かなくては」
決意のこもった眼差しを向けられ、ルネはエミールの手を両手でギュッと握り返す。
「必ずご無事で!」
「ああ。行ってくる」
エミールは笑顔で頷くと、石の扉に向かう。その背中を見送りながら、ルネはただエミールの無事を祈るしかなかった。
扉が閉じられまだ落ち着かない気持ちを持て余していたルネの耳に、ふいに見知らぬ声が聞こえてきた。
足元から聞こえてくる声に視線を下ろすと、白い精霊たちが口を開いている。
「え!?」
ルネは驚き、慌てて膝を突く。
白い精霊たちは、さきほどまでの沈黙が嘘のように、何かを話している。
「なんで突然……」
何がきっかけで話しだしたのかよく分からなかったが、とにかく聞いてみようとルネは耳を傾ける。
(えーと……、アウラ……、ディルディア……)
知っている言葉もある。けれど全部は分からず、魔法書を取りに行こうとすると、また扉が叩かれる音が聞こえた。
「エフラー夫人! 外に出て下さい!」
兵士の声に慌てて扉を開けると、血相を変えた兵士が声を上げる。
「魔物が城に侵入するかもしれません! 女性たちは城外に避難を!」
「え!?」
「城外って、どこに!?」
「城下町の教会へと誘導しております。エフラー夫人もどうかそちらへ!」
兵士の言葉を聞いて、それほど危険な状態なのかと驚いた。兵士に促されて精霊の間を出たルネは階段を上がり廊下に出ると、見たことがないほど慌てた様子の貴族やメイドたちが通り過ぎた。
「エフラー夫人! こちらです!」
兵士は城の出口へと体を向ける。だがルネはくるっと向きを変えると、城の中庭へ出る方へと走り出した。
背後で呼び止める兵士の声を振り切って走ると、中庭に出る扉を開けた。
上空から奇怪な鳴き声が聞こえルネが空を見上げると、そこには黒い羽を大きく広げた鳥のような魔物が、数えきれないほど飛んでいた。




