第11話 困難な仕事
国からの大きな仕事が入ったルネは、他の仕事をどうしようかと思っていたが、エミールが手回ししたらしく、次の日には城での仕事のみをすることで話がついていた。
とにかくやってみないことには始まらないと、ルネは朝から城に出向き地下に向かった。階段の前に立つ兵士に声を掛けると、「すでに殿下が下におりますので、そのまま地下へお降り下さい」と言われ、慌てて下へ向かう。
重い石の扉を押し開けると、確かに中にエミールが立っていた。
「殿下」
「ああ、ルネ。おはよう」
「おはようございます」
小走りで近付くと、エミールの周囲にたくさんの精霊たちが集まっているのに気付いた。
「わあ、いっぱいいますね。懐いているみたい」
「そうだといいんだが……。ルネ、これを渡しておく」
そう言ってエミールがルネに数冊の本を手渡す。それを受け取ったルネは、表紙に書かれた文字に驚いた。
「魔法書?」
「うん。精霊語が分かった方が、聞き取りやすいと思ってね」
「それはまぁ、そうですけど……」
パラパラとページを捲ってみるが、見たこともない文字の羅列にルネは顔を顰める。
「これ……、すぐに覚えられるようなものでもないと思うんですが……」
「分かってる。だからルネには純粋に音だけを正確に聞き取ってもらいたいんだ」
「音だけ……」
本の中に書かれた発音を見て、それが自分の使う大陸語とはまったく違うものだと分かる。
これを一朝一夕に聞き取るのは、至難の業だろう。
「分かりました。とにかくやってみます」
「頼む。俺もできるだけ手伝うので、やれるだけやってみてくれ」
「はい」
ルネは胸に本を抱き締め返事をすると、エミールはなぜか少し微笑み、小さく頷いた。
「俺は他で仕事があるから行くけど、大丈夫か?」
「はい」
その返事にエミールはもう一度頷くと、石の扉の方へ歩きだす。ルネがその背中を見送っていると、少し離れた場所でぴたりと足を止め振り返った。
「ルネ」
「はい?」
「名前、エミールって呼んでいいから」
「あ、はい……」
何となく流れで返事をしてしまったルネだったが、エミールが少し足を速めて石の扉から出て行くと、なぜか顔が熱くなってきた。
(な、なんで私、顔が赤くなっているのよ……)
顔に熱が集まっているのが分かる。頬に手を当てて視線をうろつかせると、閉じられた石の扉を見つめる。
(別に普通よね……)
舞踏会でエミールを追いかけ回していた女性たちも、エミールを『エミール様』と呼んでいた。それを考えれば、自分がそう呼んだところで、特別なことは何もないだろう。
「気軽な方なのよね、きっと……」
きっと堅苦しいことが嫌いな性格なのだと自分を納得させると、ルネは心を落ち着かせるために深呼吸をした。
「さぁ、やるわよ」
ルネはそう呟くと、真剣な眼差しを花畑へ向けた。
とりあえずその場に座り、本を膝に置く。言葉が分からなくても、聞き取れるかもしれない可能性もあるからと、ゆっくりと目を閉じる。
ざわめきは常に聞こえている。その中に特徴的な声がないかを探る。いつもなら声の高低や質の違いなどで、かなり聞き分けることができるのだが、あまりにも小さい声で上手く聞き分けることができない。
(だめだわ……。声が小さ過ぎる……)
かなりの時間、耳を澄ませてみたが、聞き分けられる声はない。
一度目を開けると、一番近くに咲く花を見下ろす。そこにはピンクの髪の精霊がいて、ルネを見上げている。ルネは腰を折って地面に手を付くと、その精霊に耳を近付ける。
確かに精霊の口は動いている。
(何か言っているのは分かるんだけど……)
いくら耳を近付けても、口をじっと見つめても、何を言っているのか分からない。
「小声なのにうるさいってどういうことかしら」
もしかして自分が見ているよりも、もっとずっとこの場所には精霊がいるのかもしれない。
「とにかく耳が慣れるまで頑張るしかないか……」
まだ始めたばかりで悩んでも仕方ないと、ルネはまた姿勢を正すと目を閉じた。
こうしてルネの奮闘が始まった。毎日城に通い、耳を澄ませる。ただそれだけをして、5日を過ぎる頃になると、段々と耳が慣れてきた。
ルネはノートを取り出し、とにかく聞こえる音を書き出していく。同じような言葉を言っている気がするが、とにかく声が多すぎる。
神経を集中して、特徴のある声を探すが、すぐに他の声に掻き消えてしまい、どうにも上手くいかない。
それから二週間が経ち、分厚いノートは埋め尽くされたが、何の成果もなく時間だけが過ぎていた。
(まずいわ……。全然進展してない……)
夕方になり城を後にしたルネは、暗い表情で家に向かう。
この二週間、色々と試行錯誤してみたが、結局精霊の言葉は一つも聞き取れていない。
(このまま同じことを続けても無意味だわ……)
すでに思い付くことはすべてやってみた。ということは考え方が最初から間違っていることになる。
仕事を始めた頃、速記を考えついた時のことを思い出す。あの頃も、どうにか書記の仕事を効率よくやるやり方を試行錯誤した。その結果、今の速記術を考え付いたのだ。
(結果を出さないと、このままじゃクビになっちゃうわ……)
ずっとざわめきの中にいて、耳の疲労はかなり酷くなっている。常に頭痛がして、集中力が落ちているのは確かだ。
ルネは家に戻ったらこの体調の悪さをどうにかしなくてはと、足を速めた。
「お帰りなさいませ、奥様」
「ただいま……」
玄関ホールに入ると、使用人の男性が出迎えてくれる。とりあえず一度部屋に戻って休憩しようと歩きだそうとすると、そこにラウルが姿を現した。
「……ただいま戻りました」
「随分遅い帰りだな。商人ギルドで働いていないと聞いたが、まさかクビになったのか?」
「……ちゃんと働いていますよ」
「おかしな仕事をするんじゃないぞ。仕事を許可しているとはいえ、私の妻だということを忘れるなよ」
蔑むような視線を向けて釘を刺すラウルに、ルネは大きく溜め息を吐く。
「許可って……、あなたが作った借金を返済するために働いているんじゃないの。何言ってるのよ……」
疲労が酷くいつもの強気な言葉が出てこない。それでも文句を言うと、ラウルは余計に顔を険しくした。
「お前は本当に口が減らない女だな。形だけとはいえお前は私の妻なんだぞ。私に歯向かうような口を利くな」
ルネはその言葉にげんなりとすると、もはや返事をするのも億劫で無言で歩きだすと自室に向かった。
ドアを開けると、コレットが笑顔を向けてくれる。その顔にホッと息を吐いた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、コレット」
「お嬢様、顔色があまりよろしくありませんが、大丈夫ですか?」
「うん、ちょっと頭が痛いだけ」
「まぁ……」
部屋に入りベッドに座ると、コレットがそっと額に手を当てる。
「お熱はありませんわね。お薬をご用意しますか?」
「うーん……、そうだな。ちょっと静かなところでじっとしていたいかも」
「静かなところ……」
この部屋の前の廊下は、使用人が通る度に足音がする。急いでいる時は、バタバタと走ったりもして、常に落ち着かない空気なのだ。
夜はさすがに静かになるが、それでも深夜かなり遅くならないと全員は寝ないので、本当に静かになるのは数時間もない。
「あ、では、温室に行ってみてはどうですか?」
「温室?」
「このお屋敷には中庭にガラスの温室があるんです。バラが咲いていてとても綺麗ですし、この時間でしたらもうアストリット様たちが立ち寄ることはないと思います」
「なるほど……」
コレットの提案に笑みを浮かべると、ルネはゆっくりと立ち上がる。
「1時間くらい行ってこようかな」
「お供致します」
「ううん、一人で大丈夫よ。まだ仕事があるでしょ?」
コレットはテーブルの上に帳簿の写しを広げている。たぶん伯爵家のお金の流れを確認してくれているんだろう。借金返済のためには重要な仕事だ。それを邪魔しちゃいけないと、ルネは首を振った。
「夕飯までには戻るから」
「分かりました」
ルネはそう言うと、部屋を出て温室に向かった。屋敷の中をあまりうろついたことがなかったので、温室があることなど知らなかったが、やはり大きなお屋敷だけあってそんなものもあるのかと感心してしまう。
中庭に行くと確かにガラスの温室があった。中に入ってみると、色とりどりのバラが咲いていて、甘い匂いに満ちている。
「素敵……」
温室の奥にはお茶でもするのか、ガーデンテーブルとイスが置かれている。そのイスに座ると、ルネは大きく息を吐いた。
なんの音もしない空間に、とても安堵する。
(音がないってこんなに安らぐのね……)
これならば耳を休めることができると、テーブルに突っ伏すと目を閉じる。そうしていると徐々に眠気が落ちてきて、ルネはうたた寝をしてしまった。
どれくらい眠ってしまったのか、突然、バシャンと音がして冷たい水の感触に飛び起きた。
「な、なに!?」
上から水が降ってきたのか、上半身がびしょびしょに濡れている。
何が起こったのか分からず慌てて周囲を見渡すと、背後にアストリットが立っていた。その手に水差しを持っていて、顔はこれまでで一番意地悪く笑っている。
「アストリット! 何するのよ!?」
「あらぁ、バラだと思ったら、あなただったの。動かないから間違えてしまったわ」
クスクスと笑うアストリットの顔を睨み付けて、ルネは溜め息を吐いた。
「あなた、毎回よくそんなに色々思い付くものね」
「何のことかさっぱり分からないわ」
「お嬢様!!」
アストリットが白々しい顔をして肩を竦めると、そこにコレットが走り込んできた。
「大丈夫ですか!?」
「コレット、大丈夫よ。濡れただけだから」
「こんな……、酷いです! どうしてお嬢様にこんな仕打ちをするんですか!?」
コレットがアストリットの方を見て怒鳴ると、みるみるうちにアストリットの顔が怒りに歪んだ。
「使用人風情が、私に向かって何て口を……!!」
わなわなと震えてそう言うと、アストリットは突然温室を出て行く。そうしてあろうことかドアに鍵を掛けてしまった。
「ちょ、ちょっと!!」
「あなたたちは本当に目上に対する口の利き方がなっていないわ! 二人でそこで反省しなさい!!」
ルネが慌ててドアに走り寄ったが遅かった。アストリットは目を吊り上げてそう言うと、踵を返し屋敷に戻ってしまった。




