EX.楽園(フェリクス視点)
最終話です。
ここまでお付き合いくださった皆さま、本当にありがとうございます^^
東屋の方角から、明るい気配が漂ってきていた。軽やかな女性の話し声が、ささやかな秋風に乗って漂ってきている。
晩秋から初冬へと移ろうとしている、ある日の午後。城で最も日当たりの良い区画にある落葉樹が、まさに紅葉の見頃を迎えている。
明日のお茶は、それを見ながらに致しませんか? と遠慮深く私を見上げたのは、美しい私の婚約者だった。もちろん否やはないが、彼女の体に障らないかは気になった。
「構いませんが、そろそろ風は冷たくなっております。お体に悪いのではありませんか? ローゼ殿下」
「大丈夫です、暖かくしますから。ずっと部屋にいるので、外に出られるのが嬉しいのです。それに、フェリクス様と、美しい紅葉を見たいのですもの」
側に控えるシシーリア様に目をやると、シシーリア様はニコッと笑って頷く。本当に大丈夫なようだ。それならば、何も問題はない。
では、楽しみにしておりますよ、と答えると、ローゼ殿下は、ぱっと表情を輝かせた。こんな些細なこと、一つ一つを、本当に嬉しそうにする方だ、と思う。
その一番大きな理由が、自分だと知っているだけに、何とも面映ゆいものがある。ローゼ殿下のキラキラした翠色の瞳は、いつも、こう語りかけてくるのだ。
貴方のことが好きです。
貴方の側にいることができて、嬉しいです、と。
幸いなことに、翌日は風が少なく、日差しの暖かな日になった。ひなたに座っていると、ぽかぽかして気持ちいい。薄い白雲のたなびく青空が、紅葉を爽やかに彩っている。
目的地の東屋に、遠目だがローゼ殿下の姿が確認できた。傍らの侍女に、何かを伝えている。その優しく穏やかな横顔は、ハッとするほど魅力的だ。
緩やかに背中で波うつ、絹糸のような薔薇色の髪。色白のしっとりとした肌。うっとりと大きな瞳に、長い睫毛。スッと通った鼻筋。桜色の唇。
ローゼ殿下は美しい王女だ。そして何よりも、その善良で素直な雰囲気が可愛らしい、とつい最近まで、私は思っていた。
しかし今は、ローゼ殿下の印象は、より深みを増して、私を捕らえている。素直なのはもちろん変わらないが、同時に芯が強く、凛として、何より哀しい方だ、と。
私にそれを知らしめたのは、『月に拐われる夜』の翌朝、私に婚約破棄を告げたローゼ殿下だった。
「フェリクス様。婚約破棄いたしましょう」
ローゼ殿下の凛然とした宣言は、あの時私を確かに驚愕させた。
しかし、その心の動きは、恐らくその場にいた誰にも、悟られていないことだろう。私は自分の感情を抑制して、簡単に読み取られないようにする癖がついている。その仮面は、私が重大な局面だと感じる程に厚くなる傾向があり、この時はまさに、それだった。
ローゼ殿下の鮮やかな微笑みが、私を最大限に警戒させていた。ローゼ殿下の瞳が、微笑む前に一瞬潤んだのを、私は見逃していなかったのだ。これから先は、一手間違えれば取り返しのつかないことになる、その予感があった。
「私は、考えたのです。いくらフェリクス様を好きでも、フェリクス様を伴侶にするのは、やはり問題が多すぎるわ、と。そして、いざフェリクス様との婚約が決まったと思うと、急に寂しくなったのです。グラムとは、お別れなのね、と。私のフェリクス様への恋心は、いつかグラムと結婚するのだという前提に立った、遊び心だったのですわ。だから私、やっぱりグラムと結婚します」
私は正直に言うと、その言葉を一瞬は信じたのかもしれない。ローゼ殿下は、私よりも11才も年下の王女だ。自分がグラム様より彼女に相応しい、などという自負は持ち合わせていない。
しかし、それはあくまで、一瞬でしかなかった。ローゼ殿下の足が震えていることに気がついたからだ。そして、グラム様とシシーリア様が唖然としていることにも。
その鮮やかな微笑みの裏で、ローゼ殿下は一人で必死に何かを考え、この場面を作り出しているらしい。それは何故だ?
「私、自分から昨夜、ここに夜這いに来ました。グラムは私を受け入れてくれました。はしたなくてごめんなさい、フェリクス様。でも私はこんな女なのです。だからフェリクス様とのお話は、無かったことにしてください」
「夜這い?!」
シシーリア様が叫んだ。グラム様も目をむいている。これは確定だ。このシナリオは、全てローゼ殿下の創作だ。しかも、下打ち合わせもしていないようだ。
「安心してください。お父様には、私から言います。私がどうしてもグラムがいいのだと言えば、お父様は頷いてくださるでしょう。振り回してごめんなさい。どうかフェリクス様も、ご自分の愛する方をお探しになって、伴侶にお迎えください」
ローゼ殿下は、ニッコリと笑ったが、それは顔だけだった。
ローゼ殿下の足はまだ、細かく震えていた。必死すぎて、気がついていないのかもしれない。
ローゼ殿下の表情は、確かに笑みをたたえていたが、その瞳は悲痛な光を宿していた。
一体、何があったのだろうか。
グラム様と何かを囁きあっているローゼ殿下を観察しながら、私は考えた。こんな突飛な作り話をしてまで、私ではなく、グラム様と結婚すると、殿下は言う。それはつまり、父王である陛下の采配にも逆らい、次期王に私ではなく、グラム様を推すということだ。
王位に拘りはないため、それ自体は別に構わない。だが、ローゼ殿下の思い詰めた様子が気がかりだった。何の理由もなしに、このようなことを言い出すような方ではない。昨日幸せそうに、私に愛を語ってくれたのだから尚更だ。
そして、この事態を引き起こしたヒントは、先程ローゼ殿下に指先が触れた時の、見逃せない違和感にあるように思えた。
ローゼ殿下は、冷えていた。生身とは思えないほどに。
……生身とは思えないほどに?
嫌な予感がした。じっとりと背中に冷や汗が浮いた。
『月に拐われる夜』に、行方不明となった殿下。
カーテンの開いていた窓。
誰も連れていなかった侵入者。
10年前に月に拐われておりながら、今さら精霊として姿を現したシシーリア様。
それは何故かと問えば、言いにくそうに口ごもって。
夜着姿のままで、グラム様の部屋を訪れていた殿下。
床に広がる人智を越えた亀裂。
シシーリア様の光る鎌。
そして、扉を開けた直後に見た、ローゼ殿下の憎しみに染まった目線──。
たどり着いた推論に目眩がした。
これは、確認しないわけにはいかない。
全ての鍵は。ローゼ殿下の身に、本当に変事が生じているのかどうかにある。
グラム様と何事かを相談し終え、振り向いたローゼ殿下は、警戒心を露にしていた。
この顔は知っている。つい最近、予算審議の折りに、交渉先の各部門長がよく浮かべていた顔だ。私がどう出るかと様子をうかがう顔。相手のペースに飲み込まれまいと気を張っている顔。
ローゼ殿下が警戒しているならば、私はその壁を破らねばならない。
そのためには奇襲が有効だ。
私は敢えて無言で歩み寄ると、ローゼ殿下の手を取り、引き寄せた。ふんわりと抱き締めると、晩秋の夜風のような冷たさが、嫌でも確認できた。……私は瞑目した。
ローゼ殿下はすぐに我に返り、私は殿下を放したが、その僅かな間で十分だった。
……ああ。ローゼ殿下。
貴女は既に、月に拐われてしまったのですね。
そして恐らくは、シシーリア様の手助けにより、辛うじてこの場に留まっているのだ。
ローゼ殿下の憎しみに染まった眼差しを思い出す。心優しい方だ。滅多なことで、負の感情を表に出す方ではない。そして元より、自分の不注意で、月に拐われるような方でもない。
──ローゼ殿下を月に拐わせたのは、グラム様か。
そもそも、ローゼ殿下をただ消して得をするのは、グラム様のみ。間違いないだろう。
私の心を、津波のような怒りが襲った。
この素直で愛らしい王女を殺したのか……!
しかも、今のローゼ殿下からは、先程の強い憎しみは感じられない。そして、確かに言った。グラム様と結婚すると。
ローゼ殿下が死んだからには、私を王位に就けることを含め、ローゼ殿下を介した王位継承の道は消えた。
しかし、有力だった王女が不慮の死を遂げたのだ。国政は荒れるだろう。それは理解できる。
だから、ローゼ殿下は、スムーズな次期王位継承を後押しするために。自分の感情には蓋をしたのか。
もちろん、悔しかったろう。
悲しかったろう。
失ったのは、たった一つの自分の命だ。
しかし、その全てを無かったことにして、国のために、グラム様と結婚すると──。
──愛しています。フェリクス様が私を支えてくださると仰るならば。私も貴方を支えます。必ず。……幸せになりましょうね──
私の心が、怒りで荒れ狂った。駄目だ。感情を制御できない。
「ローゼ殿下。貴女を害した相手を、私に見過ごせと仰るのですか?」
私は、私の表情を隠す仮面が、ひび割れるのを感じた。自分が明確な敵意を宿して、グラム様を睨み据えているのを理解していた。
そして、それで良いと思った。
決して許しはしない。殿下を殺した男を。
「誰にも害されてはいません。私は今もここに、こうして立っているではありませんか」
「誤魔化しは不要です。殿下に何の変事もないならば、こんなに体が冷えきっているはずもなく、また、私との婚約を破棄する必要もない」
「婚約を破棄するのは、私が心変わりしたからです!」
ローゼ殿下のその言葉は、嘘だと分かっていても、快くはなかった。
心変わりだなどと。そんなにも、自分の言葉に傷ついた瞳をしているのに。
殿下は、恐らく本当は泣き叫びたいのだ。私にすがり付いて、泣きたいのを堪えているのだ。
何が、身命を賭して、お支えします、だ。
私は過去の自分をせせら笑った。
何が未来の宰相だ。次期国王だ。聞いて呆れる。
むざむざローゼ殿下の命を奪われたことは勿論。
支えることなど、できてはいない。
その証拠に、殿下は今も、命を落としてさえも国を憂い、一人で全てを背負おうとして、嘘をついているではないか。
だが、だからこそ。
このまま、全てを殿下に託してなるものか。
「ローゼ殿下。私は、自惚れやなのですよ。昨日のローゼ殿下のお言葉が、遊び心から生まれたものだなどと、断じて信じることはできません。そこにいるグラム様とシシーリア様が、予想外の話の流れに、目を白黒させているのを見れば尚更です。私は貴女を、身命を賭してお支えすると誓いました。その誓いとは、今ここで、貴女の嘘に騙されたふりをし、貴女を一人、行かせることではないのです」
殿下。
もう、嘘をつく必要はありません。
貴女が何を仰っても。
私は貴女を一人にするつもりはありません。決して。
ましてや、貴女を害した男に預けるなど、虫酸が走る。
「フェリクス様のお気持ちはありがたく思いますが。私は、嘘などついてはおりません。私は無事ですし、グラムに心変わりをしたのです。グラムを王位に就けたいと願っているのです。私の願いに沿うことが、私を支えることになるとは考えないのですか?」
平坦な返答の下で、ローゼ殿下の感情が揺らめいたのが分かった。
もう少しだ。もう一歩で、殿下の嘘を突き崩すことができる。
私は拳を握りしめた。別にやる気がみなぎった訳ではない。
ローゼ殿下を抱き締めるために、伸ばしそうになる腕を、留める努力が必要だったのだ。
この健気な王女を、腕の中に閉じ込めて、もういいのです、と囁いてさしあげたかった。
「木偶のように、ただ盲従することが、殿下のためになるとは思いませぬゆえ。……ローゼ殿下は、泣いておられる。私に婚約破棄を告げられた時から、ずっと。そのお心から、悲鳴が聴こえるのです。なぜそこまでして、グラム様を庇おうとなさるのですか」
ローゼ殿下の相眸から、涙が溢れた。私は論戦に勝利したことを知った。苦い勝利だった。次のローゼ殿下の懇願は、悲鳴のようだったからだ。
「そこまでお分かりなら、お分かりでしょう。フェリクス様、私は、月に拐われて死んだのです。だからシシーリアは、私を来世に送るために、姿を現したのです。そして、私とグラムの両方が欠けたら、本当に国が荒れてしまいます。私はそれを防ぎたいのです! お願いします、フェリクス様! 力を貸してください!」
ローゼ殿下の叫びを最後に、部屋には沈黙が満ちた。
私は仰向いて表情を隠した。自分の仮面が既にひび割れており、役に立たないことは分かっていたからだ。
自らの死を、棚の上にあげてまで、国の未来を憂う強さ。
自らを殺した男の、王位に就く道筋さえも、思いやる優しさ。
命も愛も、自らの全てをかけて、国の安寧を得ようとする高潔さ。
ローゼ殿下が、これほどまでに、強い方だとは思わなかった。
ローゼ殿下が、これほどまでに、優しい方だとは思わなかった。
ローゼ殿下が、これほどまでに、高潔な方だとは思わなかった。
ローゼ殿下の何もかもが、愛おしく、そして何よりも哀しい。
──私は、この素晴らしい方を失ったのだ。
──これから長い時間をかけて、いつか愛を囁いていただけるよう頑張ります。覚悟していてくださいね、フェリクス様──
──その『長い時間』は、もうない。
次に発した私の声は、圧し殺しても隠しきれない感情のうねりで震えていた。
「そうして、やはりローゼ殿下は、貴女を害した相手を見逃せと仰るのですね。何食わぬ顔で、王位に就くのを見過ごせと」
ローゼ殿下は、寂しく微笑んだ。私は、この美しく透き通った笑顔を、一生忘れないだろうと思った。
「私の命の有無など、国民の安寧の前では、些末事です。フェリクス様」
その時、第三の声が、私たちの会話に割って入った。
「俺は、見逃してくれとは言わない。セオドア公」
許しがたい男が、口を挟んでいた。
「だが、俺は公的には、ローゼを殺したことを認めるつもりはない。俺がローゼを死に追いやったという、物的な証拠はないぞ。月に拐われるとは、そういうことだ。状況証拠だけで、俺を追い込めると思うほど、楽天的ではないだろう? それに、無理にそれを強行したところで、ローゼが生き返る訳でもない。……俺は、自分がやったことの重さは、理解しているつもりだ。その罪は、今後の行動で贖わさせてはくれないか」
小賢しい言い方だ、と思った。だが、相手の主張を全て喋らせることも重要だ。
「どのように?」
「全て抱えて、王位に就く。王位の義務と責任を、今後の俺の全てを賭けて果たすことで、贖いにかえよう。もし俺の行動が、贖いに値しないと判断したその時は、遠慮なく引きずり下ろしにきてくれて構わない」
やはりそれか、と私は得心した。
この男には、まだ引き換えにできる実績がない。王弟派の旗頭ではあるが、政務的には未経験の若者だ。未来を担保に、手形を切るしかないのだ。
しかし、甘い。
状況証拠しかない?
それをしたところで、ローゼ殿下が生き返るわけでもない?
例えそうだとしても、譲れないことがある。
確かに政治においては、時に清濁合わせ飲むことが求められる。今回もそれだと、この男は考えているのかもしれない。
しかし、それも時と場合によるのだ。
今は、そのような王者の判断が求められる、差し迫った時ではなかった。
この男は、王者の判断を発揮するべき時を、見誤ったのだ。
だから尚更、許せないのだ。
死ぬ必要のなかった、ローゼ殿下を殺したこの男を、このままのさばらせるつもりはない。決して。
例え、その事で国政が荒れたとしても。
失われた、ローゼ殿下の命にかけて。
しかし、この時、瞋恚に染まった私を引き留めたのは、そのローゼ殿下だった。
ローゼ殿下は、祈るように両手を組み合わせて、私を見つめていた。その表情は、綺麗だった。自分の恨みや憎しみなどは、欠片も浮かんでいなかった。
ローゼ殿下を殺した男と、戦うことは簡単だ。
しかし、それをすれば、ローゼ殿下は胸を痛めるだろう。
王国の行く末を憂い、あのような嘘までつく殿下なのだ。
──ローゼ殿下を、これ以上煩わせる訳にはいかない。
その想いは、目の前の男への憎悪を駆逐して余りあった。
月に拐われた殿下が、まだこうして、この場に留まっているのは、たとえようもない僥倖だ。これが未来永劫続くなど考えられない。その限られた奇跡の時間を、悲しんだり、憂いたりすることに、費やさせるわけにはいかない。
ローゼ殿下には、残された時間を、ひたすらに穏やかに。何の憂いもなく、幸せに過ごしてもらわねばならない。
それこそが、今一番優先されるべきことだ。
──お願いします、フェリクス様! 力を貸してください!──
私は、グラム様に視線を向けた。グラム様は、その意味も分からないままに、正面から私の視線を受け止めた。
いいでしょう。
先ほどの提案、受け入れましょう。
だが、耳触りの良い言葉で、切り抜けたつもりかもしれないが、私は忘れない。
ローゼ殿下のために、胸のうちに奥深く沈め、表には出さない。しかし常に貴方に、その贖いを問うことをやめはしない。
例え何年後、何十年後になろうとも、貴方が贖いを忘れたと判断したその時は。
その喉笛を食い破ってやる。今度こそ、私の身命を賭して。
必ず。
私は、1つ息をつくことで、心を切り替えた。
「シナリオの若干の変更を要求します。今のままでは、見逃すことは致しません」
「どのようにだ?」
貴方が必要のない王者の判断を振りかざしたことを、この言葉で証明して差し上げます。
「先ほどの婚約破棄の主眼は、私との結婚を回避することではなく、ローゼ殿下の王位継承問題からの離脱と、グラム様の王位継承を確実にするための布石でしょう。それならば、グラム様とローゼ殿下が、婚約する必要はありません。私が陛下に、ローゼ殿下の降嫁を願います」
ローゼ殿下も、グラム様も、意表を突かれてポカンとしたのが分かった。
私は、グラム様がその言葉を飲み込むにつれ、徐々に顔を青ざめさせていくのを、ただ見ていた。
気がついたのだ。
この降嫁という札を使えば、ローゼ殿下を殺す必要など、欠片もなかったのだということに。
貴方が独りよがりに全てを決める前に、腹を割って相談してくれていたら。
たったそれだけで、全てが変わっていたのですよ。
「ローゼ殿下が王族籍を抜け、セオドア公爵家に降嫁することになれば、自動的に王位継承権はグラム様に移ります。先ほどの、ローゼ殿下がグラム様に心変わりをしたという言い訳は、いかにも苦しい。恐らく陛下には通用致しませんでしょう。それに何より、ローゼ殿下を害した方に、殿下を委ねることなど、断じて致しかねます。ローゼ殿下は、私が貰います。……ローゼ殿下、宜しいですか?」
私は、ローゼ殿下に手を差し伸べたが、ローゼ殿下の途方に暮れた顔に出迎えられてしまった。
ローゼ殿下は、まだ予想外の展開に呆然としていた。安心させるように、微笑んでみる。
殿下。もう、嘘をつかなくてもいいのです。
これからは、ローゼ殿下のために、可能な限りの時間を使おう。
ローゼ殿下の望むことは、できるだけ叶えるのだ。いや、遠慮深い方だから、先回りしてどんどん甘やかす方がいいかもしれない。
ローゼ殿下が、穏やかに幸せに。何の憂いもなく、最期の日々を過ごせるように。全力を尽くそう。
愛おしくて哀しい貴女が、幸せに過ごせる楽園を。作り上げ、今度こそ守ってみせる。
喜びの予感に、徐々に顔を煌めかせていく殿下は、例えようもなく綺麗だった。私との婚約を継続できることが嬉しいのだと、その様子を見ただけで分かった。
私は、ローゼ殿下が私の手を取ることを、待ちきれなかった。
私は、動かないローゼ殿下の手を握り、力強く引き寄せると。心を込めて抱き締めたのだった。
歩み寄る私の姿に気がついて、ローゼ殿下が東屋から手を振ってきた。
確かに暖かそうな服装をしている。宝飾品は控えめだ。柔らかなベージュ色のドレス。白いレースと、深緑とワインレッドの刺繍が、胸元や裾を彩っている。木の葉と木の実が、優美に絡まりあう意匠は、何とも美しい。そして深い茶色のショール。薔薇色の髪と、緑色の瞳とあいまって、紅葉の妖精のように思えた。
しかも、あのショールの茶色。とても見慣れた色をしている。私の髪の色だ。
私は、柄にもなく照れて、口許を押さえた。ローゼ殿下の攻撃は、本当に多彩だ。
「フェリクス様! お疲れさまです」
ローゼ殿下の満面の笑みは、輝くようだった。ローゼ殿下は元から美しい方だが、やはり笑顔が一番だ、と思う。
私は我知らず、見惚れていたのだろう。ローゼ殿下に先制攻撃をくらってしまった。
「フェリクス様、今日のその服装、とても素敵です。薄青のシャツが、黒色の上着に映えて。上着は織り模様が入っているのですね。暖かな印象になって、これからの季節にピッタリですね」
しまった、出遅れた。何ということだ。
「ローゼ殿下も、そのドレス、とてもよくお似合いですよ。紅葉の妖精のようです」
私の言葉に、ローゼ殿下は頬に両手をあてて恥らった。誉められて嬉しい、と全身で表現している。
ああ、どうして、この方は、こんなにも。
ニコニコと幸せそうなローゼ殿下に、私は全面降伏した。
大好きですと、常に全身で訴えてくる存在に、心を揺らさずにいることなど不可能だ。
際限なく甘やかしたい、というのはこういう気持ちかと、私はローゼ殿下と過ごす日々で再確認している。
席について、しばらく他愛のない話をした後、ローゼ殿下は慎ましく、1つの小箱を差し出してきた。
「いつも、私に心を砕いてくださる御礼に」
と仰るので、遠慮なく受け取る。中に入っていたのは、美しい翠色の宝石が嵌まった、カフスボタン。キラキラと煌めくそれは、ローゼ殿下の瞳の色だと、すぐに分かった。
「フェリクス様に、身に付けていただけるものを、贈りたかったのです。使っていただけますか……?」
「勿論です。大切に致します」
私がそう返すと、ローゼ殿下の瞳が切なく翳った。
「私が、いなくなっても、持っていていただけますか……? 使ってくださいとは、言いませんから」
ああ、また哀しい遠慮をしている。
私は、身に付けていたカフスボタンを外した。かわりに、さっそく頂いたものをつける。質の良い宝石なのだろう。今日の薄青のシャツに、それはあつらえたように、よく似合った。
ローゼ殿下の気持ちは、手に取るようによく分かった。
ローゼ殿下は、自分がいなくなっても、忘れられたくないと。私に、よすがとなるものを残したいと、考えたのだろう。
しかし一方で、消えてしまう自分が、私の中に居座ろうとするのが申し訳なく思えて。私を縛りたくもなくて。このような言い回しになったのだと思われる。
そもそも、贈り物にカフスボタンを選んだことからして、ローゼ殿下のおずおずとした躊躇いが、よく分かる。他にも、いくらでも選択肢はあるからだ。例えば、指輪。例えば、ピアス。例えば、バングル。
しかし、そういった人目に触れるものではなく、袖に隠れるカフスボタンを選んだ殿下。
私がローゼ殿下を、際限なく甘やかしたくなるのは、まさにこういう時である。
私は、身に付けたカフスボタンに、軽いキスを落とした。ローゼ殿下が、ぽっと頬を赤らめた。
「手放すことも、宝物箱の奥深くにしまいこむことも、決して致しません。いつまでも、大切に使わせていただきます」
ローゼ殿下の瞳に、涙が滲む。嬉し涙だと分かってはいたが、どうせなら幸せな顔が見たかった。私は、かねてから考えていた計画を、口にすることに決めた。
「ローゼ殿下。近いうちに、ご一緒に城下町へおりてみませんか? こっそりと、お忍びで」
ローゼ殿下の表情が輝いた。
「まあ、お忍びで? 嬉しいです。1度公務ではなく、外出してみたかったのです。あ、でも……」
困ったように振り返ったのは、側に控えているシシーリア様。私は、シシーリア様に力を込めて訴えた。
「もちろん、ローゼ殿下の体調には最大限配慮します。ですが、殿下が、ずっと部屋に閉じこもっておられるのは、正直に言うと私には勿体なく思えるのです。せっかくの奇跡の時間を、殿下には楽しく過ごしていただきたい」
シシーリア様は、少し躊躇った。しかし、結局幾つかの条件をつけて、外出許可を出す。やはりローゼ殿下の禁欲的な暮らしぶりに、思うところはあったのだろう。
「ローゼ殿下。初めてのデートですね。楽しみですね」
いたずらっぽく片目を閉じてみせると、ローゼ殿下は微笑ましいくらいドギマギしている。赤い顔をして、胸元に手を当てて。幸せそうに笑ってくれた。
「はい!」
私もローゼ殿下に、何か贈ろう。
何がいいだろうか。指輪だろうか。ネックレスだろうか。ピアスだろうか。髪留めや小物でもいい。
いや、1つに絞る必要もないのだから、1つ1つ、それらを全てプレゼントすればいいか。
私が選んで渡してもいいが、どうせなら一緒に選ぶのがいい。ローゼ殿下の幸せな思い出を、1つずつ増やすことができるだろう。
私に贈られたものを身につける殿下は、きっと美しく輝く筈だ。
町では、どこへお連れしようか。
たった1度で終わらせるつもりはないから、欲張る必要はない。詰め込みすぎて、ローゼ殿下を疲れさせては、本末転倒だ。
町を散策して。
宝飾店や雑貨屋をのぞき。
ゆったりと何処かでお茶をしよう。
そうして、ローゼ殿下との、幸せな思い出を。1つずつ、積み重ねていこう。
ローゼ殿下とのお茶の最後には、私は必ず殿下を抱き締める。
両手を広げて促すと、ローゼ殿下は恥じらいながら、私に体を預けてくる。
うっとりと目を閉じる殿下は、確かに幸せそうで。
柔らかで、温かな殿下を感じると、私も安心する。
殿下は、まだ、ここにいる。
私の腕の中に。
「ローゼ殿下。貴女を愛しています。少しでも長く、共に過ごしましょう」
私がそう、心を込めて囁くのも定番だ。殿下は何度聞いても幸せそうに笑う。嬉しそうに、私の胸に頬を寄せて。
「私もフェリクス様を愛しています。どうか少しでも長く、お側にいさせてください」
と返すのだ。
ローゼ殿下と私の結婚式は春だ。王族の結婚式とあっては、どれだけ急いでも、季節を挟むことは避けられなかった。
これから氷が張り雪が舞い落ちる冬を抜け、木々が芽吹き花々が咲き乱れる頃、ローゼ殿下は私の妻になる。
私も祈っていることがある。
どうか、その日まで、殿下の奇跡の時間が続きますように、と。
ローゼ殿下は、本当に私と結婚することなど考えていないだろう。消えてしまう自分が、今こうして婚約者となっていることさえ、申し訳なく思っている節がある。
瞳が語っているのだ。
ごめんなさい、フェリクス様。
私が消えるまででいいんです。
それほど長い時間は、かかりませんから。
どうか、それまでは、貴方の側に。と。
しかし、私は既に心を決めている。
ローゼ殿下が、私の妻だ。
私は知ってしまったのだ。
哀しいと思うたびに溢れかえる、この人が愛しいと叫ぶ想いを。
その愛しさがどうしようもなく、心を満たし押し潰す苦しさを。
この人を幸せにしたいと、切ないほどに恋うる強さを。
そして、その人に心から愛され、受け入れられることの心地よさを。
それを手放すことは、私も考えられないのだ。
ローゼ殿下のために、作ろうと思った楽園は、既に私の楽園でもあった。
だから、私も祈る。
どうか、私たちの楽園が、少しでも長く続きますように、と。
私は腕の中のローゼ殿下を、より一層力を込めて抱き締めるのだった。
お読みいただき、本当にありがとうございました^^
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心の支えとして、ここまで書き進めることができました。ありがとうございました!




