やっとこの日が来たのですね
「おいフレイヤ、また赤字じゃないか。お前の管理が甘いせいだぞ」
夫のジェラルドは、月次決算書と私を交互に見ながら言った。
言い返したかった。
私が夫に変わって、このフィッツリー貿易会社の経営を回すようになってから、むしろ利益は増えているのだと。
赤字の原因は私でなく……。
「全く、この前は僕がせっかく商談に出向いて仕事を取ってきてやったと言うのに」
ジェラルドはわざとらしく息を吐いた。
「ジェラルド様すごいです!」
ジェラルドに腕を絡ませる、やけにけばけばしい女。彼女はジェラルドの妾でも何でもない。街の酒場で働いていた平民だ。名はキャサリンと言う。
彼女はある意味ジェラルドよりも厄介な存在である。
そもそも、事業が赤字なのはジェラルドが勝手に会社の金を持ち出しているからだが、持ち出すようになったのは、彼がキャサリンと公然と付き合い始めてからだった。
金を使わせるだけでなく、彼女は使用人への当たりが強くて嫌われている。しかも私をに対してあからさまに見下した態度を取ってくる。
ジェラルドは鋭く私を睨んだ。
「それにお前、この前は通関手続きを間違えただろう。全く、面倒事を増やしやがって」
確かにミスをしたことはある。けれど、つい半年前からやり始めたばかりの経営という仕事。今までやったことのない未知の分野を、ミスせずにやれという方が無理だ。
それにミス以上に利益は出している。
ため息をつきたいのはこちらだった。
「何故そんな暗い顔をしている。そんなのだから客から舐められるし利益が上がらないんだ」
ジェラルドは再び私を非難した。忙しすぎる。私にはやることが多すぎるのだ。表情を作る余裕も無いほどに。
「少なくとも、赤字の主な原因は、あなたがお金を持ち出すからよ」
私は我慢出来なくなって指摘した。その瞬間を待っていたかのように、私の左手の薬指が痛み出した。指輪を付けた手だった。
徐々に激しさを増すその痛みは、やがて全身に広がっていく。
「うっ」
私は痛みに耐えきれず膝を付いてしまった。
「僕に口答えする気か?」
ジェラルドは私を冷たい目で見下ろしていた。
この指輪さえ無ければ……。
私は頭の端で、嫁いでからの記憶を思い起こしていた。
*****
私には前世、日本人だった時の記憶がある。
記憶を思い出したのは、私がこのフィッツリー侯爵家に嫁いだ9年前、ジェラルドに指輪をはめられる時のことだった。
ジェラルドがその指輪をリングケースから取り出した瞬間、強烈な既視感に襲われた。そして、ここが前世でプレイしたことのある乙女ゲームの世界であり、その指輪が「隷属の指輪」というチートアイテムであることに気付いたのだった。
隷属の指輪とは、相手を思い通りに動かすことの出来る禁断のアイテムだ。どうしても攻略対象を攻略できないゲーム初心者や、手っ取り早くストーリーを埋めたいコンプ勢のためのものだった。
あまり他のゲームで見ない類のアイテムだったので、指輪のことはよく覚えていた。まさか、それを自分に使われることになるとは、思ってもみなかったのだけれど。
私は血の気が引いた。彼がどういうつもりでこの指輪を私にはめたのか分からない。けれど相手の同意も無しに、結婚相手にはめようとする人間がまともなわけがないのだ。
外そうとしても外すことが出来なかった。ゲームの中ではプレイヤーが使用することを前提に作られていたので、外し方など設定されていないのだろう。
私は心底暗い気持ちになったのだが、結婚してしばらくはまともな生活が送れた。ジェラルドはわがままだったが、その時はまだ許容範囲と呼べるものだった。指輪を使われることも無かった。
そして息子を授かったことも幸いだった。初めての子供はとても可愛くて、暗い気持ちを吹き飛ばしてくれるようだった。
それに、ジェラルドが私に横暴な態度を取ると、義父のパーシーさんが注意してくれた。彼はジェラルドとは真逆の、民から慕われる良い領主だった。
それだけではなく頭の切れる経営者でもあり、代々続いていた貿易の仕事をより大きくしたのも彼だった。
フィッツリー侯爵家は領地経営の他、居留型の交易商を営んでいた。フィッツリー貿易会社という会社名である。
仕事の内容は主に、外国へ買い付けに行く行商人に指示を与えたり、船の手配、値段の交渉などだ。
また、言い方が少しアレだが、何か貿易上のトラブルが起きた時の「ケツ持ち」も会社の仕事だった。パーシーさんはそれに加え、保険商も始めた。
荷主に「積み荷に対して保険を掛けないか」と持ち掛け、金を得る。そしてもし船が沈んだりするようなことがあれば、約束の保険金を支払うという、現代でもお馴染みの仕組みだ。
話は逸れたが、こんな非の打ち所がなさそうなパーシーさんにも、唯一の欠点がある。息子の教育に失敗したことだ。これは常々彼が自分で嘆いていたことだった。
パーシーさんにとって、ジェラルドは40歳を過ぎてから出来た子供であり、尚且つ一人息子だった。しかも妻はジェラルドを生んですぐ亡くなったため、非常に甘やかして育ててしまったのだという。
ジェラルドは元々そんなに頭は悪くなかったそうだ。勉強も出来たのだが、調子に乗って遊び惚けていた結果、どんどん同級生に追い抜かれ、ついにはやる気を無くし、学ぶことを放棄した。
そのため今の彼はどう考えても、領主として、経営者としてやっていけるだけの知識も知恵も持ち合わせていないのだった。
「もっとしっかり躾けをすれば良かった」
と頭を抱えたパーシーさんを見たのは一度や二度ではない。
ジェラルドが大きくなってからは、一人前の経営者に育てるため厳しく言うことも増えたのだが、時すでに遅し。彼の人格はもう形成された後だった。
そして……。
そのパーシーさんも、今は病床に伏している。もう彼の暴走を止める者は誰も居ないのだ。
厳しい父親が病床に伏して、ジェラルドは悲しむどころか好き放題を始めた。
そうなると私の生活も激変した。
先ず、何と言っても会社経営だ。
それまでのことは殆どパーシーさんが取り仕切っていた。当然のことながら、後を継ぐのははジェラルドだったのだが、彼は商談の際も、相手に横柄な態度で接したり、全く知識を入れないまま向かったりと、古くからの商売相手を怒らせてしまった。
それでも最初は「お父様は急なことだったから」と許されることもあったが、二度三度と積み重なれば流石に擁護もされなくなる。
彼が相手を怒らせた際、謝罪をするのは私の仕事だった。何とか怒りを収めてくれる人もいれば、それでも怒りが収まらないらしく、関係を切られることも多発した。
そして怒りを収めた人たちからは「次からは奥様が来てください。あのボンボンのバカじゃ話にならん」と言われた。そうなると徐々に私が代わりに商談を、ひいては経営を行うようになる。
経営を行うとなれば、様々なことを知っていなければならない。
外国と取引していたフィッツリー家では、毎日変化する売買レートや、他国の情勢にも詳しくなければならないのは勿論、法律、言語、会計に保険など、膨大な量の知識を入れ込む必要があった。
私も以前から少しは勉強していたのだが、まさか自分が矢面に立って商売をすることになるとは思わなかったので、甘かったと言うしかない。
私が頼れるのはパーシーさんしか居なかった。教えを乞うと、彼は快く教えてくれた。
前世の日本でもこんな先生は見たことが無いと思うくらい、教え方は丁寧だった。
まるで自分が蓄積してきた全ての商売ノウハウを、私に叩き込もうとしているように感じた。本来、彼はこれを息子にしたかったに違いない。
パーシーさんは厳しかったけれど、それが私には有難かった。商売の世界では甘えなど一切通用しないからだ。
経営の問題だけではない。いや、経営は経営なのだが、領地の経営の話だ。
領主であるからには徴収した税の管理や、荘園の視察、各種の決裁なども行わなければならない。ただ幸いななことに、こちらに関しては先代から務めている優秀な執務官たちが居て、彼らが殆どの雑務を代行してくれた。
とはいえ最終的な判断は私が行う必要があった。形上はただ判を押すだけだが、数万人の命を決定しているのだと考えると、今まで感じたことの無いプレッシャーを感じるものだった。
パーシーさんの看病問題もあった。ジェラルドがフィッツリー家を仕切るようになってから、経費削減とか何とか言って、使用人の数が絞られてしまっていた。
残った使用人たちは忙しく立ち働き、割に合わないと辞める者も多発。余計に人が減るという負のスパイラルに陥っていた。
それはパーシーさんの看病……というより介護に関してもそうで、私は使用人たちの負担を少しでも軽減するため、彼と勉強している間は、私が彼をケアすることにしていた。
それに息子のこともある。息子のエドワードの子育てに関しては、珍しくジェラルドも協力してくれることもあったのだが、彼に任せてはまともな人間に育つか怪しい。やはり私がメインで行うしかなかった。
私は忙しい中必死に勉強した。けれど最初から上手くいく筈もなく、何度も失敗した。従業員に資金を持ち逃げされたこともあったし、他国の税制を誤って覚えていたせいで、顔面蒼白になるような額の罰金を科されたこともあった。
ジェラルドは私がミスをするたび、それを詰った。
「お前はそんなことも出来ないのか!」と怒るけれど、彼は殆ど会社の一番奥で踏ん反り返っているだけで、やっている実務といえば簡単な決裁書類にハンコを押しているくらいだった。
そして彼は前述した通り、勝手に会社の金を持ちだして使うこともあった。それを指摘すると「僕の会社の金だ。自分で使って何が悪い?」と開き直った。
勿論、こんなところ逃げようと思ったのは一度や二度ではない。けれど、それは出来なかった。
理由の一つは、あの隷属の指輪の存在だ。逃げようとすれば激しい痛みに襲われる。それでも逃げようとするならば、恐らく身体が耐え切れず死ぬことになるだろう。
そのためジェラルドの指示通り、働くしかなかった。これでは夫の遊ぶ金を作っているようなもので、本当にやるせなかった。
そして何より、逃げられない理由は息子の存在だった。
あんな夫でも子供は可愛いらしく「もし出て行くのならエドワードは置いて行ってもらう。あの子は僕の跡取りなのだからな」と頑なだった。
ジェラルドに涙を見せるのは悔しかったから、陰で泣いた。何度一人で泣いたか分からない。
一度、泣いている場面を息子のエドワードに見られたことがあった。彼は心配そうに私の傍に来て「お母さま、大丈夫?」とハンカチを差し出してくれた。
この子のためにも、負けるわけにはいかないと思った。
息子の他にも私の心を晴らしてくれるものもあった。
ここは乙女ゲームの世界だけれど、どうやら世界観の作り込みが雑だったか、それとも意図的だったのかは分からないが、現代日本の代物が幾つも登場する。
その一つが「アイドル」の存在だった。
中性~近世ヨーロッパの世界がベースになっている筈なのに、ここでは平然とアイドルが活動していた。
その中でも私が心を惹かれたのは「クラウンヴェイル」という男性アイドルグループで、推しはセンターのサイラスという青年だった。
サイラスは身長が高く、神の造形物のような完璧な顔立ちをしていた。歌声もダンスも、加えてファンサービスも全てが最高だった。何度か忙しい時間をぬって握手会に行ったことがあるのだが、彼の笑顔を見ていると癒された。
そして大歓声を浴びて踊る彼を見て、美しいと思うのと同時に、羨ましいという気持ちも湧いてきた。
何故だろうと記憶を必死に辿ってみると、どうやら前世での私の夢と関係していたらしい。
私も、大きくなったら大勢の人たちに見守られながら、舞台に立つ仕事をしたいと思っていたのだ。
一度、国王陛下主催のパーティーで、短い時間だが、余興に呼ばれていたサイラスと会話をすることが出来たことがある。
サイラスは私の顔を見ると「握手会に来て下さった方ですよね」と笑顔で握手してくれた。覚えてくれていたことは驚きでもあり、嬉しくもあった。
そして話の中で、彼が好きなスポーツと私の好きなスポーツが同じであることが分かり、嬉しくて少々話し込んでしまった。
「フレイヤ婦人のような芯の強い女性が好きです」と彼は最後に言った。それに関しては立場上の社交辞令だろうけれど。
そして、私の意識は現在に戻っていく。
******
ようやく、指輪による痛みが治まってきた。しかしジェラルドの叱責はまだ続いていた。毎度毎度、よくこうも偉そうに説教が出来るなと感心さえする。
その時扉が開いた。入ってきたのはまだ5歳のエドワードだ。彼はしっかりした足取りで私と夫の間に割って入ると、両手を広げ、首を左右にゆっくり振った。
「お父さま、お母さまをいじめないで」
彼は震える声で言った。
泣きたかった。まだ小さい彼に、こんな心配を掛けさせてしまて、本当に悔しかった。
エドワードを見たジェラルドは先ほどまでの鬼の形相はどこへやら。怖いくらい優しい顔になると、息子の頭を撫でた。
私は気付いていた。笑顔のジェラルドとは対照的に、キャサリンの方は息子に凍えるような冷たい視線を投げている。彼女は恐らく子供が嫌いだ。もし私が居なくなったりしたら、エドワードがあの女にどんな仕打ちをうけるか分からない。
「エドワード、お前は優しいな。父さまに似たんだね。でも良いか? 優しいだけじゃ領主は務まらない。お母さまはちょっとミスをしちゃったからね、会社に迷惑を掛けたんだ。それを躾けるのも領主の仕事なんだよ」
ジェラルドは息子を抱っこして部屋の外まで連れて行き、戻ってくると再び私に厳しい視線を向けた。
「エドワードに免じて今日はこのくらいにしておいてやる。あ、そうだ。僕とキャサリンはこれから海外旅行に行ってくる」
「旅行?」
「シュヴァリエ王国の王都に別荘を買ったんだ。暫くはそこで過ごそうと思ってね」
私は開いた口が塞がらなかった。シュヴァリエ王国の王都モンヴェイユと言えば、大陸随一の規模の大きな都市だ。そこに別荘を買ったとなると、とんでもない出費だったに違いない。しかもそこで暮らすなら、また膨大な金が掛かる。
「じゃあ僕たちが居ない間もしっかり経営しておけよ」
私は部屋を出て行く彼らの背中を見守ることしか出来なかった。暗澹たる気持ちが押し寄せて来ていた。
******
商談から家に帰る途中だった。以前は馬車を使っていたけれど、今は経費を削減するために徒歩で移動しているのだ。
ジェラルドが居なくなって一か月が経っていた。
多少は気が楽になったけれど忙しさは変わらない。朝も夜もせわしなく立ち働いていた私は、その時限界を迎えていたのかもしれない。
石畳に変な角度で足を置いてしまい、よろめいて人とぶつかってしまった。
よほどバランスを崩していたらしく、その人物は尻もちをつき、私は覆いかぶさるようになってしまった。
「も、申し訳ありません!」
私は慌ててその人の手を引っ張り、起こしながら言った。助け起こして驚いた。かなり背の高い人物だったのだ。
目深くハットをかぶり、黒いコートを着ていた。そして彼はじっと私を見つめた。私は内心冷や冷やした。
もし彼が怒っていたらどうしよう。また、質の悪い人だったら金をゆすられるかも知れないとも思った。
そのハットの男は一歩私に近づく。そして私の手を握り、言った。
「君には才能がある。俺と一緒に来てくれないか」
「え、嫌です」
私は即座に断った。
こんな怪しさ満点の誘いを受けるほど馬鹿ではない。だいたい才能とは何の才能なのか。こんな出会って短時間で分かるわけがない。
すると、彼はハットを取った。彼の整った顔の、全体像が露になる。私はその顔を見て、思わず「あっ」と声に出してしまった。
その顔を、私は知っていたからだ。
「俺は君をスカウトしたいんだ」
※※※※※※※
ジェラルドが父親の訃報を聞いたのは、シュヴァリエ王国で暮らし始めて一年半が経過しようとしていた頃だった。
しかし国外のことであり、直ぐに帰る事は出来なかった。
ジェラルドは父親の死を悲しんだが、それよりも遺産のことを楽しみにしていた。彼は一人息子で母親も既に他界していたので、遺産は全て彼のものになるはずだったからだ。
早速準備を整え家に帰ると、迎えてくれたのは使用人だけだった。息子のエドワードと妻フレイヤの姿は無かった。どこかに出掛けているのだろうと彼は考えた。
「旦那様、弁護士のダニエル・シルヴァ様をお呼びしました」
執事の一人が声を掛けて来た。
「弁護士? どういうことだ」
執事の顔には困惑の色が浮かんでいる。
「それが……、旦那様が戻ったら指定の弁護士を呼ぶようにと、奥様から申しつけられておりまして」
ジェラルドが貴賓室に向かうと、無表情な初老の男が頭を下げて来た。
「初めまして。弁護士のダニエル・シルヴァと申します」
「弁護士が何の用かな」
「お父様の遺産の件を伝えに参りました」
ジェラルドは口元を歪めた。それなら話が手っ取り早くて助かる。フレイヤも最初に弁護士を呼ぶとは、たまには気が利くではないか、と彼は思っていた。この時までは。
「ではパーシー・フィッツリー侯爵の遺言を読み上げます。」
弁護士は無感情な声で書類を読み上げ始めた。
「『私は、下記の者に対し、私の有する全ての財産を相続させることを遺言する。
私の全ての遺産(不動産、預貯金、動産、その他一切の財産)は、フレイヤ・フィッツリーに譲る。
上記遺言の内容を円滑に実行するため、弁護士ダニエル・シルヴァを遺言執行者とする。以上」
得意げな表情を浮かべていたジェラルドの表情が一気に落ちた。彼の頭の中は真っ白になっていた。
「は?」
「『私は、下記の者に対し、私の有する全ての財産を相続させることを遺言する。
私の全ての遺産(不動産、預貯金、動産、その他一切の財産)は、フレイヤ・フィッツリーに譲る。
上記遺言の内容を円滑に実行するため、弁護士ダニエル・シルヴァを遺言執行者とする。以上」
聞こえていないと思ったのか、弁護士はもう一度遺言書を奏上した。
「そうじゃない! 何でフレイヤが父さんの遺産を全部相続しているんだ! 父さんの息子は僕だぞ! こんなの何かの間違いだ!」
喚き散らすジェラルドにも弁護士は全く動じる様子が無い。
「間違いではありません。書類に関しては内容の改ざんや偽装魔法の形跡を慎重に確認した上で、正式な書類として見なされました。またパーシー侯爵が催眠魔法や魅了魔法に掛かっていなかったことも確認しております。追加で費用を払って頂けるのならば、我が国の弁護士協会が発行している証明書をお送りすることも出来ますが」
弁護士の喋りはまるで機械のようだった。
「み、認めない! こんな遺書認めないぞ!」
「あ、そうそう。奥様から伝言を預かっております」
その言葉でジェラルドはフレイヤへの怒りが沸き上がって来た。あいつだ。絶対あいつが何か細工をしたに違いない。
「明日の18時に、オーレリオン・ホールに来てくれとのことです」
※※※※※※※※※
オーレリオン・ホールは元々、オペラなどが披露される場所だった。円形で、客席は階段状になっており、360度どこからでもステージを見下ろすことが出来た。
使用人から夫が帰って来たと連絡があったのは昨日の午前中だった。この日のために、私は準備を重ねてきた。と言っても、このステージには毎日のように上がっているわけだけれど。
しんと静まり返ったホールの暗いステージ。
「お前があの遺書を偽装したんだろう!」
ジェラルドの声が、遠くから私に向かって投げられた。見ると観客席の入口からジェラルドがこちらを睨んでいる。
夫は猛然と突き進んだ。慌てて後からキャサリンも付いて来ている。
「家のことを放って一年以上も旅行に行っておいて、妻にかける一言目がそれ?」
私は呆れ過ぎてちょっと笑ってしまった。ステージに上がってきて、ジェラルドは何だか怪訝そうな目を私に向けている。
あの頃の疲れ切った表情の私とは、少し違っているからかもしれない。少なくとも今は生気が満ちていることを自分でも感じる。
「私は遺書の偽装などしていないわ。それは弁護士の方から聞いたはずでしょう?」
「あの弁護士に有利な遺書を書くようお前が金を積んだんだろう。そうでなければ父さんが僕に何の遺産も残さないなんてこと、あるはずがない!」
私は首を振った。
「あのお方は何よりフィッツリー家の未来を憂いておられたわ。それに、ちゃんと最後まであなたのことも考えていた。だからこそ、私に遺産を託して下さったの」
私はパーシーさんの介護をしながら、全ての経営のノウハウを叩き込まれた。叩き込まれただけでなく、実践してきた。けれどジェラルドは他の女と遊んでいるだけで会社の金を使うばかり。ジェラルドに遺産を渡せば、全て食いつぶしてしまうことは、誰の目にも明らかだった。
それに、パーシーさんが倒れてこんな大変な時期に長期間家を離れるなど、無責任にも程がある行動をジェラルドは続けた。
流石にパーシーさんもジェラルドに愛想が尽きかけていた。それでも最後のチャンスをやることにした。彼は私にこう言って頭を下げた。
「もしジェラルドがあの訳の分からない女と別れ、フレイヤ嬢に心から謝罪をし、一から死に物狂いで経営を学ぶのならば、その時は夫婦二人で一緒に頑張ってやって欲しい」と。
「ふざけるな! 遺産は全て僕のものだ!」
ジェラルドは怒鳴った。
話聞いてた?
いや、ここで素直に話を聞くような男ならば、最初からこんなことにはなっていないのだ。そう思うと何だか妙に納得してしまった。
その時、彼の手の中で、風が渦巻き始めた。風魔法だと直感する。彼は学生の頃、勉強はおろそかにしていたが、魔法の習得には熱心だったようで、その成果もあって彼はかなりの使い手だ。
「……何をする気?」
ジェラルドはニヤニヤしながら近づいてくる。
「父さんから譲った遺産を全て僕に譲ると、一筆したためて貰おうか」
私はきつく彼を睨みつけた。
「嫌よ。脅しには屈しないわ」
「そうか、それなら……」
巨大な壁のような突風が押し寄せて、私を覆ったかと思うと、身に着けていた衣服がはがされ始めた。
「きゃっ! 止めて!」
「はっはっはっ! お前のような能無しは裸がお似合いだ! 猿のようにな!」
笑い声がホールに反響する。
「いやあああ! ……なんてね」
私が突き出した手に魔力を込めると、先ほどまで吹いていた突風が、ジェラルドの方にそっくり向きを変えた。
予想外の反撃を受けたジェラルドとキャサリンは、まるで棒のようにぶっ倒れた。
「な、何が起きたんだ!」
起き上がったジェラルドは、私の姿を見て、目を剥いた。目は私の顔ではなく、胴体に向けられている。正確には、身に付けていた衣装に。
「あなたがドレスを剥いでくれたお陰で、着替える手間が省けたわ」
私はドレスの下に別の衣装を着ていたのだ。
「な、何だそのゴテゴテした服は」
まるで寝起きのような声を発するジェラルド。彼はこの衣装のことを何も知らないのだろう。
私が指をぱちんと鳴らすと、まるでベールが剥がれ落ちるかのように、周囲に明かりが灯った。それだけではない。先ほどまで誰も居なかったはずの客席に、あふれんばかりの人が、ぎゅうぎゅうに詰まっていた。超満員の客席から、割れんばかりの歓声が起こっている。
「な、何だこれ! おいフレイヤ、どういうことだ!」
「これは偽装魔法の一種。この場に私しか居ないと誤認させるためのね。ちなみにここれはスタッフが掛けてくれていたの」
「偽装魔法? スタッフ? どういうことだ!」
ジェラルドは訳が分からないといった様子で激しく頭を掻いている。
「みんなー、今の私たちの話、聞いてたー!?」
私が大声で叫ぶと「はーい!」と観客達の声が渦巻いた。
「と、いうことで、この人たちが証人です。あなたは暴行及び恐喝の容疑で逮捕されます」
「ふざけるな! いい加減これが何なのか答えろ!」
「私には昔夢がありました。それは叶うことのないと思っていた夢でした」
私はサイリウムの揺れる観客席を見ながらステージを歩いた。
「ですが、ある日、スカウトを受けたのです。『君には才能があると』」
「だから、何の才能だ! お前はここで何をしてるんだ!」
「プロレスです」
「プロレス!?」
あの日、街で私が押し倒してしまったのは、プロレス団体の選手兼社長だった。そう、この世界にはアイドルもいればプロレスもあったのだ。
私はプロレスが好きだったので、その社長が書いた記事を読んだことがあったし、観戦の時に顔を見たことがあったのだ。
そして、私の夢は大勢人の前でステージに立つ事。
プロレスの、選手として。
スカウトをしたい彼と、プロレスラーになるのが夢だった私。あの時運命的に私たちの利害が一致したのだった。
その時、ステージ(リング)の外から、スキンヘッドの審判がコロコロ転がってきた。
「ではルールの確認を行う。反則行為は一切禁止。ロープブレイクはしっかり守るように。カウントは3フォールかギブアップで決着。はい、ではクリーンファイトで」
彼は立ちあがると一息に言った。
「え? え? ちょ、何言ってるんだこのおっさん」
何が起こってるのか分からないのか、ジェラルドは審判の顔と私の顔を交互に見る。
「何で分からないの。オーソドックスなルールよ」
「いや先ずプロレスのルールが分からないんだよ!」
「ジェラルド、こうしましょう。戦って私に勝てたら遺産は全てあなたのものよ。でももし負けたら、遺書の内容を受け入れて貰うわ」
「……それなら良いだろう。お前をぶちのめして、遺産を手に入れてやる」
ジェラルドの目がギラついた。彼は恐らく、どんな手段を使ってでも私を倒しに来るだろう。そうでなければ、そうでなければこの場を用意した意味が無い。
ゴングが甲高い音を響かせた。
歓声がひときわ大きくなる。まるで地鳴りのように、マットが細かく振動している。。
思えばここまでの道は決して平たんではなかった。プロレスは興行である。当時このプロレス団体「ハルシオン」の経営は傾いていた。
けれど私が志願して経営に携わることになって、どんどん興行収入は回復。元々商売をしていたノウハウのお陰だった。
そして私が【プロレス令嬢】としてリングに上がると、「貴族令嬢がプロレスをしている!」と瞬く間に話題となり、客足は爆発的に伸びた。
「速攻で終わらせてやるよ! お前は本当に馬鹿だな! その指輪がある限り、僕には逆らえないと言うのに!」
ジェラルドが手をかざすと、私の指が痛み始めた。
「ははは! どうだ! 手も足も出ないだろう!」
高らかに笑うジェラルド。その笑顔が、徐々にしぼんでいく。
私が全く表情も変えず、立っていたからだ。
私は逆に彼を睨みつけた。
「な、お前どうして!」
「私がこの1年半、プロレスにうつつを抜かして、あなたへの対策を何もしていなかったとでも思っているの? 私はプロレスに子育てや経営、領主としての仕事などを通して、様々なスキルを磨いてきたわ」
「ど、どういうことだ」
「あなたに痛めつけられた時のために磨いていた! 防御魔法!」
防御魔法が発動していたお陰で、殆ど身体に痛みを感じることは無く、最後には消失してしまった。
同時に、私はジェラルドの手を掴んで引っ張った。ジェラルドは抵抗を試みるが、私の前では赤子同然である。
「は、離せ!」
暴れるジェラルドを渾身の力でリングのロープに投げ飛ばした。
ジェラルドは、ロープでにょーん、と伸びると、その弾性によって私の方に撥ね、勢いよく戻って来た。
その夫の首に、渾身の力で腕をぶち抜いた。ラリアットだ。
「防御魔法の他にも! 毎日働いて鍛えたパワー!」
「へぱー!」
クリーンヒットしたと同時に、ジェラルドは首を支点にぐるんぐるん回りながら、潰れたカエルのような体勢で、びたんとマットの上にたたきつけられた。
※ラリアット:相手に向かって走り込みながら腕を横に振り抜いて、首や胸をなぎ払う打撃技。
しかし彼はすぐに起き上がる。鼻からは血が垂れていた。
「ば、馬鹿にしやがってえええ!」
「そして」
そのジェラルドの後ろに回り込み、腰に腕を回す。
「は、離せ! 離せえ!」
「あなたのお父様を介護するために鍛えたパワー!」
私は夫を持ち上げると、そのままブリッジしながら加速。後ろに放り投げた。ジェラルドはおもっくそ頭から落ちていたが多分大丈夫だろう。
※ジャーマンスープレックスという技です。全然大丈夫じゃないので決して真似しないで下さい。
「ぐああああああ!」
悲鳴を上げながら地面に転がる夫。私は彼の髪の毛を掴んで立たせる。
「お前……」
「そして、女でも商売で舐められないように鍛えたパワぁあー!」
私はノーモーションで、ジェラルドの頬を引っ叩いた。
「ぶほっ!!!」
ジェラルドの顔面の皮膚は面白いほど、旗のようになびきながら片側に大移動した。
そして私の力に耐え切れず、彼は空中を横に回転しながらロープに当たるまで吹っ飛んだ。まるで手裏剣みたいだった。
「く、くそっ!」
何とか立ち上がろうとするジェラルドの足を掴む。
「うわああああ! 来るな! 来るな!」
私は逃げようとする彼の足を持ったままリング中央まで戻り、遠心力を使って、ぐるぐると振り回し始めた。ジャイアントスイングだ。
回して回して回しまくる。あまりに速く回し過ぎてリング中央には渦が巻いていた。
「そして子育てで鍛えたパワぁぁァー!!!」
「ほぼパワーじゃねえか!!」
私が手を離すと、ジェラルドはかっ飛び、リングの柱にぶち当たった。スパァン! と鋭利な音を立てて止まる。
「くそっ! 僕は、僕は負けない! あの遺産は僕のものだぁああ!」
ジェラルドは喚きながら立ち上がった。彼の金への執着は本物のようだ。だが、そろそろ仕上げの時間である。
私はロープの上に飛び上がった。歓声がひときわ大きくなる。
「くたばれえええ!」
彼は私を落とそうとしたのか、叫びながら走って近付いてきた。
彼めがけて、私は飛んだ。まるで地上の獲物に飛び掛かる鷹のように滑空しながら、渾身の力で彼の胴を蹴った。
※ドロップキック。やる側も喰らう側も命をドロップしかねないので真似しないでね。
「そして座礁した船を持ち上げるために鍛えたパワー!!!」
私は蹴りながら叫ぶ。
「お前人間じゃねえだろ!!!」と、まともに私の蹴りを喰らった彼は遺言を発しながら場外に吹っ飛んだ。
全く、この期に及んで人を人外扱いするとは無礼な奴である。
私は、ゆっくり、リングの外に出て彼に近づいていく。
「おい、おいやめろ! 何でここまでするんだ!」
「優しいだけじゃ領主は務まらない。会社に迷惑を掛けた者を躾けるのも領主の仕事、なのよね?」
以前ジェラルドが言ったことだった。
それは彼も覚えていたらしく「くっ!」と悔しそうに顔をゆがめた。
そして何とか立ち上がろうと座った状態のジェラルドの前に、私はしゃがみ込んだ。
じっと彼の目を見つめる。警戒した目で見返してくる夫。
「そして」
私は、左手の薬指にはめられた隷属の指輪を、右手でブチチと引きちぎった。
「ひっ! ば、バケモノ!」
「どこが?」
「どこが!?」
ジェラルドの目の色が怯えに変わる。
「離婚しましょう」
「今!?」
私は観客に聞こえるよう大声で叫んだ。
「そしてえ!」
「そしてやめて!!!」
私はジェラルドの声に耳を貸さなかった。彼を掴んでリング上にあげると、すぐさま私は覆いかぶさった。そして彼の腕を体に引き寄せ、捻って肘関節が逆に曲がるように圧力をかけた。
そう、皆さんご存知、十字固めである。
「貴様をこうするために鍛えたパゥワぁあああ!!!!」
「いたたたたたたたた!!!!!」
ジェラルドが悲鳴を上げる。
すかさず審判がヘッドスライディングして来て、カウントを始めた。
「ワン! ツー! スリー! スリーカウント! フォール!」
審判の言葉と共にゴングが何度も鳴り響き、試合の決着を告げた。大嵐のような声援が、ステージ上に降り注いだ。
けれど、私には、まだやることがある。
腕が変な方向に曲がって、ぐったりして泡を吹いているジェラルドを残し、私はリング脇でずっと様子を伺っていたキャサリンの元へ向かった。
彼女は逃げようとしたが、私の「気」に当てられて、動けなくなっていた。
「ひっ!」
キャサリンの前に立つと、短く悲鳴を上げた。
「さ、次はあなたの番よ?」
「ご、ごめんなさい! 何でも、何でもしますから許して……私はジェラルドに従っていただけなんです! 本当はあなたに失礼なことをするつもりなんて無かったんです!」
彼女は震える声で言った。
「ええ、分かっているわ。許してあげる」
私はニコリと笑った。つられて彼女も笑う。
そんな円満な雰囲気の中、私は近くにあったパイプ椅子を掴んだ。
その座面で、おもっくそキャサリンの頭をぶっ叩いた。
「って許すかボケぇ!!」
「ぽー!」
キャサリンは変な声を上げながら鼻血を噴出し、その場にぐにゃりと倒れた。……これ、演出用の座面が取れやすい奴なのに、そんなに痛かったのかしら。
キャサリンは泡を吹いている。失神の仕方が同じなんて、仲のよろしいこと。と思っていると、直後に妙な匂いが漂ってきて、私は顔をしかめた。
どうやら彼女は粗相をしたらしい。
※※※※※※※※
その後、ジェラルドは脅迫罪で逮捕された。離婚も成立し、フィッツリー家の生まれでありながら、財産を全て失った彼は屋敷を後にするしかなかった。
とはいえ流石に無一文で追い出すのもあれなので、一年は生活できるだけの資金は持たせておいた。本当の本当に最後の情のつもりだった。
キャサリンは元の酒場に戻ろうとしたようだが、あんな大人数の前で粗相をしたせいで噂になってしまい、街に居ることが出来なくなった。
今はどこか別の、顔の知られていない町で細々と暮らしているのだろう。
そして、あれから5年の月日が流れた。
「お母さま」
そう言って、とてとて歩いてくるのはエドワードではなく、彼の後に産まれたロレイユだった。
私はそっと、彼女を抱き上げた。
夫も私の隣に座り、慈しみに満ちた目で娘を見つめている。
あれから私は再婚することになった。再婚相手は、アイドルグループ、クラウンヴェイルのリーダー、サイラスだ。
実は私とサイラスが好きな共通のスポーツとは、プロレスのことだったのだ。彼は元々お忍びで何度もプロレス団体の興行に足を運ぶほどのプロレスファンだった。
それがある日いつものように観戦していると、「何だか握手会に来てた人がリングに立ってる気がする」と気付いたらしい。
そこから急激に距離を縮めていった私たちは3年前、結婚した。当時、貴族令嬢とアイドルの結婚は新聞の一面で大きく取り上げられた。
けれど今は子育てのため、一時的にプロレスラーを休業している。
彼もアイドル活動を止め、婿入りしてくれた。それから懸命に経営のことを学び、今は仕事を手伝ってくれている。
誰かさんとは大違いだ。
エドワードは現在貴族学校に通っている。友達もたくさん出来たようで、毎日楽しそうだ。
そして、元夫のジェラルド。
使用人の一人が、最近ジェラルドを見たという。
彼女が見たジェラルドは、酒場で一人酔っぱらっていたらしい。無精ひげを生やし、当時の若々しさはどこにもなく、最初誰なのかさえ気付かなかったそうだ。
話しかけずに耳を傾けていると「息子に会いたい」とか「結局離婚した妻が一番いい女だった」と愚痴っていた。彼はあれから色んな女性と付き合ったらしいが、全員わがままで、金のことしか考えていなくて嫌になると、まるで自己紹介のような悪口も言っていたらしい。
「また三人で暮らしたい」
とうわ言のようにジェラルドが言うのを聞きながら、使用人は酒場を後にした。
今の彼の生活は、自業自得。当然の報いだろう。同情する気はさらさら無い。今更気付いても、もう遅いですよ。
ただ、彼が愛していたエドワードには、彼が大きくなった時、いつか会わせてあげても良いかなと思っている。いつか、ね。
おわり




