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ありのままでないという、しあわせ



 肩が燃えるように熱くて、立っていられなかった。

 床の上にぼとぼとと落ちる、赤い液体。それを血と認識するまで、少し時間がかかった。

 傷口を押さえ、よろよろと立ちあがる。朦朧とする意識の中、俺の脚はあいつが向かっていった方向に歩いてく。

 あいつ……困った野郎だ。

 さびつた手すりにつかまる。俺が登る階段は、手すりは、さびではない赤さに染まっていく。

 俺が……助けてやらねえと。

 頭の中に、小さいころの記憶がよみがえる。木の上に風で帽子が飛び、泣きそうになっていた。いや、あいつに言わせれば泣きそうなふり、だったっけ……。

 一生かけて、償わせてやる……。

 屋上が近づく。ビルの端に立っているあいつを見た。もう、限界が来て、その場に膝をつく。

 おい……そんなところたってたら、落ちるだろ……?

 だから呼んでやった。あいつの名前を。

「優一!」

 ゆっくりと、優一が振り返る。まるで、スローモーションのような動き。時間の流れがよどみ、止まる。声なき叫び。唇が、あの時と同じ動きで、動いた。






「ごめんなさい」






 優一の目から流れ出た、しずく。

 ゆっくりと落ちていくからだ。俺は、手を伸ばす。

「優一!」

 届かない手。鈍い、音がした。





















「なあ、今日また部長に怒られちゃったよー」

「…………」

「あの部長、陰湿すぎねえ? 人の失敗をねちねちと」

「…………」

「そうそう、俺の親戚からミカンが届いたんだよなー。もう冬もあけるってのによ」

「…………」

「でもなー、これがまたうまいんだよー。こんど、持ってくるな」

「…………」

「……もうそろそろ面会時間は終了か。じゃっ、俺は帰るよ」

「……また」

「え?」

「また……きて、ください」

 男は、やわらかい笑みを浮かべた。そして、うれしそうに口を開く。

「わかったよ、優一」



 男が病室から出てきた。俺が今まさに行こうとしていた病室。沢田優一の、病室。

「……あの、なにか」

 じっと見つめる俺を怪訝に思ったのか、男は俺に話しかけてきた。どちらかというと沢田に似ていない、というより正反対といった感じの男だ。俺は、警戒しながらも口を開く。

「……ここは、沢田優一の病室か?」

「そうですけど……なにか?」

「そうか……じゃあ、お前は沢田の知り合いか」

「はい」

 一秒も経たないうちに、男が答えた。その迷いのなさがまぶしくて、思わず目を細めた。

「沢田が、連続殺人犯だと知っても?」

「……はい」

 しばらく、そいつの目を見ていた。そいつも、サングラス越しにこちらを見ていた。俺は、その視線に耐えられなくなって目を逸らす。

 この男と話がしたい。そう思った。

「……少し、話ができないか。ここでは場所が悪い」

「いいですよ。俺は小橋和馬。あんたの名前は?」

「……小林だ。そう、呼んでくれたらいい」



 俺と小橋は、病院内にある喫茶店に行った。大の男が二人、しかも全身スーツの俺は、あまりにもおしゃれな喫茶店に不釣り合いで気恥ずかしかった。

「沢田は、どうゆう状況なんだ?」

 頼んだコーヒーをすすりながら、訊く。小橋はコーヒーに砂糖を入れながら、答える。

「体の怪我は大したことなかったんです。下が芝生だったから。でも……精神的なショックで、記憶を失ってるそうなんですよ。視力も、まったく問題ないはずなのに失ってるんです」

 病室で一人、上半身を起こしたまま宙を見つめている男――――沢田優一。もう、一ヶ月もあの状態だった。本人の精神力しだいで回復するかもしれないと、医者は言ったらしい。

 数々の人間をあやめた男は、それでもまだ生きていた。無様に、醜く。

「……そうか。やはり、な」

「え?」

 俺がつぶやいた言葉に、反応した。ぱっと顔を上げる。

「どうゆう……ことですか」

 俺は、空になったカップをソーサーに置いた。かちゃん、という陶器の音が二人の間に流れる。

「……沢田と俺は、掃除屋という仕事をしていた」

「掃除屋って……」

 俺を見て、モップとバケツを連想できる人は少ないだろう。できるのは……銃器。

「君のところの社長もお世話になったはずだ」

「あ……」

 社長は、つい一ヶ月前に死んだ。通り魔殺人、ということらしい。

「……っ」

「どうした?」

 突然うつむき、ズボンを握りしめる小橋。その口から、ぼそぼそと言葉が漏れ出てくる。

「あいつ……優一を、その前の朝見たんです……。言ってました」

 ごめんなさいって。

 それを聞いて、何も言えなくなってしまった。それでも、この男には沢田のことを伝えなければならない。何の利益も損害もないはずなのに、それでも放さなければと思った。

「沢田は……掃除屋の仕事に就いた時、泣いていたんだ。きっと、自分のことが嫌だったんじゃないかと俺は思う」

 どうして……こんなことで笑っているんだろう。

 どうして……心の底から喜んでいるのだろう。

 ごめんなさい……。

「沢田はなぜ、工場の奥に逃げたんだ? 袋のネズミになるようなまねを」

「…………」

「本当は……終わらせてほしかったんだ。自分を」

「やめて……ください」

「あいつはおそらく……罪悪感とストレスのせいで、味覚を無くしていた」

『そういえば――――沢田、といったな。お前もお嬢の料理を食ったのか?』

『はい。おいしく頂きました」

 そんなはず、ないのだ。

 麻薬中毒者が作る料理なんて、でたらめに決まっている。

「それでも……やめられなかったんだな。お嬢と同じで」

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 仕事をした夜の、小さな小さな寝言。それは、心の悲鳴。

「あいつも……ただの人間だったんだよ」

「……小林さん、俺はあいつを許せません」

「…………」

「どんなにあやまったって、どうにもならない。どんなに懺悔したって、帰ってこない物は帰ってこない。だから、俺はあいつを許さない。

 ……記憶喪失なんて、逃げだと思います。何も見たくないなんて、だから失明するって、完全な逃げじゃないですか。

 でも、それがあいつなりの答えなんですよね。そうしないと、自分がどんなことをしてしまうか、わかってるんですよ」

「……そこまで思っているのに、なぜ君は沢田から離れない?」

 一番気になっていることを、訊いた。デリカシーのない質問だったかもしれない。何の意味もない言葉。だけど、どうしても知りたかった。

 小橋は、顔をあげる。その顔は、驚くほど迷いがなかった。

「友達、だから、なんて綺麗なわけじゃないんです。俺が、あいつの本当の気持ちに気付いてやれなかったから……俺が気付いてやれば、もっと違う結末を迎えられたかもしれない。これは、俺なりの責任の取り方なんです」

「…………」

 しばらく、二人で押し黙ったままテーブルを見つめていた。二つのカップには、黒いコーヒーのしずくが残っていた。

「あ、和馬君。こんなところにいたんだ」

 りんとした声が、沈黙を破る。振り返ると、きれいな髪を肩の上で切りそろえた女性が、こちらに向かって歩いてくる。

「あ、よう杏。早かったな」

「えへへー。順調だってさ」

 そういって、彼女は……白いワンピースの上から、大きく膨らんだお腹をさすった。それを見ている小橋の目は、とてもやわらかい。

「……じゃあ、俺はここらへんで」

 そう言って、腰を上げる。伝票を抜き取り、振り返った。

「ここは俺の奢りだ。いろいろな話を聞けて楽しかったよ」

「あ、俺こそ」

「小橋君」

「……? はい」

「沢田を、見捨てないでやってくれよ」

 その言葉に、彼が何といったのかはわからない。だが、きっと悪い答えじゃないだろう。俺は、足早に店を後にした。



 病院の外に出ると、澄み渡った空が広がる。と、頬に何かが貼りつく。指ではがすと、ピンク色の花弁だった。

「……さくら、か」

 春が、近づいている。





 どうも、時計堂です。


 中1,2ぐらいのときに書いた作品です。プロットという概念を知らなかった頃の話です。見苦しいです。それでもここまで読んでくださった方、ありがとうございます。よって、

 あなた の にんたいりょく が 1 あがった!

 これからもどんどんレベルを上げて、社会の荒波で揉んだり揉まれたりしてください。


 再公開にあたり、私も久しぶりに読み返し「文章下手だし、暗いし……こいつ、病んでるな」と思いました。良くも悪くも、今の私には絶対に書けない話です。

 作風としては、後に筆者が事件を起こしそうな感じではありますが、健全に育ちました。ご安心ください。


 本編も後書きも暗かったので、皆さんも暗い気分になったと思われます。元気を出すために「おっぱい、あげぽよ、てへぺろ」と三回繰り返しましょう。お母さんの目の前で叫ぶと、より愉快な効果が期待されます。

 それでは、また御縁があったら。



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