それはもう、昔の話
「変わってないね、和馬は」
「おまえは、何もかもが変わったよ」
にこにこと、あのころのような笑顔をうかべる。同窓会で久しぶりに会った友人、そんな態度で。しかし、お世辞にも和馬の態度は友好的とは言えなかった。
「おまえは、すべてを変えちまったよ。杏も、桃花さんも、自分の親でさえ」
「みんなは……杏は、どうしてる?」
「軽々しく杏なんて呼ぶな!」
和馬が僕にむかって、憎々しげに吠える。僕は、それでも薄い微笑を唇に浮かべたまま。
やがて、うつむき、左手をいじる。右手の指の先には、金色の指輪がはめてあった。
「……結婚、したんだ」
「ああ。杏とな」
「へえ。それはおめでとう」
僕は驚いた。ついに長年の片思いは報われたってわけか。おめでとう、は少し白々しかったかもしれない。僕を和馬がまたキッと睨んだから。
「どうして……おまえは!」
「……どうして、あんなことをしたか?」
「そうだ! 俺はずっと、そればかりを考えてきたんだ!」
大きな工場内に、響き渡る怒声。その声を聞いても、不思議と何も感じなかった。ただ、顔のあたりをそよ風が吹き抜けている感覚があった。
「理由なんて、ないよ」
「嘘を言え! 理由なしに、あんな……こんな廃工場で、柚子を……」
「本当に、ないんだ。自分でも……どうしてあんなことをしてしまったのかわからない」
機会があったから、やった。
偽りの世界から脱出する糸口を、見つけてしまったのだ。
「最初からそうなっていた……そうとしか、言えないよ」
「そんなわけ」
「ねえ、和馬は知ってる? 僕が、笑えないこと」
その質問に和馬は戸惑ったようだ。無理もない。僕はいつだって、笑っていた。それはもう、不自然なほどに。
「じゃあ、質問を変えるね。僕が怒ったり泣いたりしたところ、見たことある?」
「そ、それは……」
口ごもり、うつむく。答えはNOだ。その記憶がないことに、和馬は戸惑っている。
「いつだって苦しかったよ。嘘をついて、わざと笑ったり、感情があるふりをして。ばれないかと、ひやひやして。一人で山奥にでも閉じこもりたいくらいだった」
「…………」
「偶然、その時が降ってきたんだよ。僕を解放する、チャンスが」
「…………優一」
「僕は、それをつかんだだけ」
「…………」
和馬も、きっと気が付いていたはず。
僕が、嘘にまみれているって。
「もうそろそろ、時間かな」
出口に向かって、コンクリートを鳴らしながら歩く。その行く手を、和馬が遮った。
「……どいて、なんて言っても無駄だよね」
「ああ。俺は……お前を許さない。今すぐこの場で殺してやりたいぐらいだ。だがな、俺はお前とは違うんだよ。殺人鬼」
「殺人鬼……ね」
僕のことをこうも的確に表現した言葉が、他にあっただろうか? 僕は心の底から……笑った。自らの嘲笑として。
そうだ、僕は殺人鬼。人ならざる者。
和馬はさっきから手を突っ込んでいたポケットから、手を抜いた。その手には、真っ黒な携帯電話。画面に表示されている番号は……。
「……通報、したのか」
110番。いつの間に押したのだろうか。きっと、会話の途中からだろう。
『嘘を言え! 理由なしに、あんな……こんな廃工場で、柚子を……』
あれか、と苦笑いをする。柚子と廃工場。この町で、このキーワードを聞いて場所がわからない人間なんていない。もう、警察が向かってきているだろう。
「おとなしく罪を償え、優一」
「…………甘いよ」
「え?」
僕もまた、ポケットに手を突っ込んでいた。振り上げた手に握られていたのは……ナイフ。それを、和馬の右肩から腰にかけて切り込んだ。
「うっ! がぁっ!」
飛び散る飛沫。赤い液体が、僕の頬に飛び散った。口から発せられる、高笑い。
「あっはははははははははははははは! 僕を出し抜こうなんて無謀だ! 逃げ切ってみせる! まだまだ殺し足りないからさ!」
「ゆう……いち……」
膝をついた和馬が、こちらに手を伸ばしてくる。その手をさらにナイフで切りつけ、狂ったように笑い続ける。
なんでだろう。
何で、こんなことを。
「ばいばい! かつてのオトモダチ!」
僕はそう叫ぶと、さびれた廃工場の隅にある階段を、跳ねるようにして駆け上がっていった。
僕は……なんでここにいるんだろう。
何で……こんなことをしているんだろう。
冷たい風が、体を切り裂く。そんな錯覚。
廃工場の、広すぎる屋上。僕は……そのふちの、小さなコンクリートの出っ張りの上に立っていた。
そこからは、この町のすべてが見えた。遠くまで続く街並み。町の中心を通る川。そして……工場の近くに次々と停まる、パトカー。耳に響く、サイレンの音。
これからどうしようか……。苦笑いを浮かべ、手の中にある赤く染まったナイフを見る。血が隙間に入り込み、赤くなった文字をつぶやく。
「……”he was very happy”……」
かれはとてもしあわせでした。
僕は、幸せだったかな?
後ろが騒がしい。階段を誰かが登る音。
ふと、下を見て気がついた。そして、笑う。安らかな気持ちで。
なんだ。結末はここに用意されてたんじゃないか。
「優一!」
懐かしい声がする。ゆっくりと振り返った。そこにいたのは、僕を親友と呼び、僕を憎み、僕を救った男。
僕はその男に、精一杯の誠意を見せる。僕はあなたが羨ましかったよ。あなたを尊敬し、嫉んで、うらやんで。
「 」
僕の言葉が男のもとに届く。男は目を見開き、何かを叫んだけど、僕には届かない。頬をつたう、懺悔のかけら。
「バイバイ、じゃあね」
足が、コンクリートを離れた。




