無関心の王国
ホテルに帰り、動揺が収まらないままベッドに座り込む。髪をくしゃっと握り、うつむいた。
あいつ、高校を出たら町を出るって言ってなかったっけ……。
遠い昔の記憶、そんなことを覚えているなんて、自分でも不思議だった。そう、確か、あれはどこの高校を受けるか話していた時のこと。
『俺のレベルじゃあK校どまりだな……優一は?』
『んー、僕は公立を狙うけど……』
『だったら、俺も公立がいいや』
『……いいの? かなりきついよ』
『いーんだよ。一緒の方がいいし、お前が国立なら杏も国立だろうしな……。それに、俺は高校出たら都会に出るから、なるべく長くつるんでたいんだよ』
『……いくのか? 東京とかに?』
『おうよ。まだ予定だけどな』
そう言ってうれしそうに笑う、和馬の笑顔。あれから、和馬は笑えたのだろうか。あんな無邪気で、まっすぐな笑顔。
僕が壊した、笑顔。
「…………」
杏だって、笑えたのだろうか。僕は見ているようで、二人のことを全く見ていなかった。二人が僕のことを見ていなかったように。
ほら、いまだって二人の輝かしい笑顔を思い出そうとすれば思い出そうとするほど、霞がかかったようにぼやけ、消えてしまう。柚子は……柚子は、どんな顔をした子供だったっけ? 思い浮かぶのは、赤い赤い心臓の動き。
「……ああ、 」
立ち上がり、カーテンを開けた。ビジネスホテルから見る夜景は、ぽつぽつと斑模様のようだった。
「おはよーん、ゆーたーん!」
「…………」
朝っぱらから何をしてるんだこの人は。
寝ぼけ眼の目をこすり、頭をぼりぼりと掻いた。昨日はよく眠れていない。……いろいろなことが、ありすぎて。
「あれー? あたしのモーニングコールがありがたくねーのかー?」
「……四時でなかったらありがたかったです」
外真っ暗だぞ。モーニングですらないような時間だ。麻紀子さんのいる場所と僕のいる場所って、そんなに時差があったっけ?
「で、何の用ですか」
「つれないなー。あたしはただゆーたんと愛の語らいを……」
「組長がらみですか」
「…………ああ」
カーテンを開き、窓の桟に腰掛ける。外はまだ真っ暗で、光がぽつぽつとついているだけだ。まるで、ねっとりとした泥の沼のよう。
「僕は、ここに五日間滞在するんですよね」
いつもでは、ありえない長さ。掃除屋の仕事は、素早く仕事をして立ち去るのが常識。最長でもって二日ってところだ。
「……言いにくいんだけどさ。親父は――――」
「俺を切り捨てたがってる、でしょ?」
それっきり、麻紀子さんは押し黙った。僕は、自嘲の笑いを浮かべる。もともと、分かっていたことだ。
指名手配犯を、娘の恩人だからと言っていつまでも組に置いておくわけにはいかない。メリットよりも、リスクが高い。しかも、マスコミが大々的に報道をしたので、見つかる可能性も高かったのだ。ここらが潮時、とでも思ったのだろう。
「……ゆーたん、あたしはね、あんたに感謝している。だからいつまでも世話をしといてやりたい。けどな、もう……限界が来てる」
「…………」
かつて繁栄を極めた国も、時代の流れでほころび、崩壊して、最後には塵すらなくなる。それは地上の法則であり、覆すことは誰にもできない。それは、加賀組でも同じ。
敵対する組織との衝突や、取引の失敗。それを封切りに加賀組の財政は苦しくなってきた。それはきっと表面に見える変化であって、本当はもっと前からほころびが出ていたのだろう。もしかしたら、僕が入った時には既に――――。
それでも。
「それでも……俺は、そこでしか生きていけないんですよ……」
「ゆーたん……あの」
「さよなら」
強引に会話を打ち切り、携帯の電源を切る。まだ温かみを持つ携帯を握って、ベッドの上に横たわった。
この仕事が終わったら、僕はどうなるのだろう。口封じのために、消されるのだろうか?
かつて、僕が消してきた人々のように。
「…………」
子供だからと言って、油断する。その隙をついて、殺す。それが僕の手段だったのだが、だんだんそれもきかなくなってきた。もう、あのころとは違う。僕は、成長したのだ。
なのに、中身はまるで変ってない。
それがいいことなのか、悪いことなのか。
大きく、息を吐く。思考を停止する。それは、今できる最大の防衛術。
「――――今日」
今日、仕事を終わらせよう。唐沢を、殺そう。すべては、そのあとのことだ。
ゆっくりと、瞼を閉じた。
夢遊病者は、きっとこんな気持ちなのだろう。
電車から降りる唐沢を、後ろから刺した。驚くぐらいあっさりと、スーツに、背中に、ナイフは吸い込まれていった。
電車の扉が閉まる。彼の隣に、和馬はいなかった。ガラスから、どよめいている人々を焦点なく見つめる。まるで、現実を漂っている夢にでもなった気分がした。
救急車、という声がくぐもって聞こえる。電車の中にも騒ぎが伝染し、悲鳴を上げている女子生徒がいる。それもこれも、すべて現実味がない。
しかし、ふと、周りを見回してみて気がついた。騒いでいる女子高生の隣で、黙って新聞を読んでいるサラリーマン。中年のサラリーマンは、何事もないように、目だけをレンズの奥で動かしている。
また、窓際の席にいる茶髪の男。大学生だろう、大きなバッグを足元に置き、ウォークマンを目を閉じて聴いている。この騒ぎだったら、ウォークマンを聴いていても聞こえないわけがない。彼は、無関心を突き通している。
外を見ると、立ち止っている人もいれば、視線をちらりとよこしただけで足早に去ってしまうOLがいる。彼女だけじゃない。多くの人が彼女の模倣になり、彼女もまた別の人の模倣になっている。無関心の連鎖。
ああ、これが人間なんだ。
僕が十年も捕まらなかったわけ。運がいいとばかり思っていたけど、違う。人々はとっくに僕を見つけている。誰も、それを知らせないだけ。無関心を、通しているだけ。
立ち止まっている人だって、知人とこの話を一回出して、それで終わりだろう。お見舞いに行ったり、その人のために犯人探しをするなんてもってのほかだ。すぐに、忘れる。
ふと、隣に立っているサラリーマンに、僕は殺人犯ですと言ってみようかと思った。彼は、それで通報するだろうか? それとも、頭のおかしい若者を鼻で笑うだろうか?
電車が、動きだす。




