閑話 誰か・ある夏の日にて
蝉の鳴き声が、五月蝿い。
杏は蝉が苦手なようで、一緒に来なかった。つかんだとたんにジージーと泣き出すのが、かわいそうで見てられないだって。やっぱり、女って貧弱だな。
そんなところが可愛いよな、そう勝手に呟いて、一人で赤くなる。こんなに暑いのに、さらに熱くなってどうするってんだよ、俺。
網を担ぎ、足を速める。向かうは、近くの神社。その神社の近くには蝉がよく集まる木があり、子供の間でひそかな穴場として語り継がれている、と思う。小学校一年生になるという、近所の子供から教えてもらった話だ。
赤い鳥居が見えてきた。コケに覆われ、鮮やとは言えなくなっている鳥居。そこに足をふみ入れると、風が木々を揺らした。
「うわぁ……」
神社の中は日陰になっており、アスファルトの道路とは比べ物にならないくらい涼しかった。やわらかい、落ち葉の腐ってできた地面を踏みながら、神社の賽銭箱の前に立つ。
どうか、蝉を取らしてください!
目をつぶって念じ、手をパンパンと二回鳴らす。これも、人から教えてもらったものだ。しかし、誰一人としてこの神社の名前を知らないなんて、おかしなことだ。
お祈りが終わり、俺は一本の木に駆け寄った。この木から、蝉の鳴き声がする。そう思って探してみると、いた。木のくぼみでわかりにくかったが、確かにいる。しかも……。
「クマゼミだぁ!」
ここらでは珍しい、クマゼミだった。こいつを捕まえれば、ヒーローになれる。そう思って近づき、息を潜め、網をすばやく動かす!
「あ、あぁ……」
背が少し足りなく、網は蝉の下に当たった。その衝撃で、蝉は飛び去っていってしまう。
ああ……杏に見せてやりたかったなあ……
肩を落とし、別の木に視線を向けた時のことだった。
「あれ……?」
社の裏、軒下を覗き込んでいる少年がいた。年は、俺と同じくらいだろうか。そこに存在していないのかと疑うくらい、音も、気配もなかった。
なぜか気になり、近づいてみる。それも、忍び足で。どうしてそうしたかわからない。けど、気付かれてはならないという気がしたのだ。
横から、そっとのぞき込む。少年は、端正な顔立ちをしていた。この近所では見たことがない。冷たい、針のような鋭くとがった視線でそれを見ている。視線の先にあるのは、……猫の、死体だった。
声が出せない。足が動かない。怖い、と思った。
腐り、蛆が湧きかけている猫の死体。死体が怖かったのではない。その、見ている少年の方が怖かったのだ。無表情で、無言で、ただひたすら猫を見ている。騒がない、しゃべらない、子供らしさがぽっかりと抜け落ちてしまったような、顔。
俺は怖くなって、その場からしびれた足で逃げ出した。
その夜のことだった。
「はじめまして! 隣に越してきました、沢田と言います」
きれいな女性が家にあいさつに来た。その、少年を連れて。
俺が突っ立ってそいつを見ていると、そいつは笑った。明るさが凝縮されたような、子供らしい笑顔。赤い唇が、開く。
「はじめまして! ゆーいちといいます! よろしく!」
それを見て、俺は思わずほほえんだ。そいつの笑顔につられて。ほっとした、というのもあるかもしれない。こいつは、なんでもないただの子供だったって。
「よろしく! 俺の名前は和馬!」
まさか、その十数年後に、あんなことが起こるなんて。
葬式の後、杏は警察に呼ばれた。
帰ってきた杏に何があったのか訊くと、
「警察の人に黙っていてくれって言われたから……」
と言葉を濁した。その目は、訊かないでくれと語りかけていて、俺は何も言うことができなかった。
優一の家に電話をしてみたが、出ない。もう夜の十一時だし、帰ってないはずはないと思ったのだが。何度かけても、でなかった。
杏は口を閉ざし、優一はいない。
俺だけ、何も知らない。
「――っ。くそっ!」
自分の部屋の、壁を拳でたたく。悔しさ、怒り、悲しみ。何もかもがごちゃまぜになった、拳だった。
なんだよ。俺だけ蚊帳の外かよ。俺たちは、いつも三人でやってきたじゃないか!
もう一度、壁をたたく。三人の間にある、壁を壊そうとして。
何もかもがおかしい。柚子が殺されるのだっておかしいし、杏が俺に隠しごとするのもおかしい。優一だって、おかしい。
「どこ行ったってんだよ……」
もしかしたら、柚子を殺した犯人と関わりがあることなのか?
あいつ、柚子を可愛がっていたから。本当の、妹のように。もしかしたら、一人で犯人を見つけようとしてるのかも。だとしたら、だとしたら――――。
「なんで、俺に声をかけてくれねえんだよ……」
頭を押さえ、座りこむ。カーペットが、今は冷たい。氷の草原に、座り込んでいるみたいだった。
翌日も、その次の日も優一は学校に来なかった。
家にも行ってみたが、誰も出てこなかった。杏も、しばらく学校を休むという。三人で行くために受験した高校に、俺は一人で行く。
三人で歩いた道も、今は俺一人。
コンクリートで舗装された道を、一人で歩く。右にも、左にも、誰もいない。
「どこから……」
いつから、俺の日常は変わってしまったのだろうか?
こんなにも、脆いものだったのだろうか?
俺は、犯人を許さない。
杏を泣かした奴を、許さない。
地の果てまで追いかけていって、殺してやるさ。
冷たい空気を、大きく肺に取り込む、決意が消えないように、拳を握り締めた。
あの時、決意したのに……。
「嘘、だろ……」
もう、くじけそうだよ……。
「う、うそだあああああああああああああああああああああああ!」




