手のひらの生命
初めて見た時、これは人間じゃないと本気で思ったものだ。
そのころすでに、和馬と杏とは家族ぐるみの付き合いだった。誰かの家に三家族が集まり、一緒に食事をするなんてことも珍しくなかった。出産のときも、大人数で病室におしかけたものだ。
猿みたい、そう思ったが、それを言うのはさすがに失礼だろうと思って黙っていたら、和馬が「猿みてー」と無遠慮に言って、杏に殴られていた。そんな杏も、実はそう思っていたんだとか。
初めてだっこして、ミルクをあげたときのことを覚えてる。ずっしりとした重さ、温かさ。哺乳瓶に一生懸命吸いついてきて、飲み終わったらげっぷをする。こんな生命力の塊は見たことがなかった。赤ん坊が、僕に向かって笑う。きゃっきゃと。この頃から僕に懐いていたようで、ぷにぷにとした手で僕の頬をぺちぺちと叩いていた。それを見た母が、「うちにももう一人作ろうかしらねぇ」といって、笑っていたのを覚えている。
柚子が初めて立ったのを見たのは、僕だった。二人がテレビゲームに夢中になっている間、僕はベビーベッドのふちにつかまって立つ柚子を見た。足元はおぼつかなく、顔を真っ赤にして、一生懸命に立っていた。そのあとすぐに転んでしまったが、この時初めて立ったのだ後でわかった。二度目に立ち上がる柚子を見て、杏が歓声をあげていたから。
幼稚園に入学したのを見届けた。卒園式の写真も撮ってあげた。絵の賞状を自慢げに見せてくれた。小学校に入学したのを見て、二年生になれたと喜んでいたのを見ていた。
本当に、妹のように。
本当の、家族のように。
なのに。
なんで、こんなことができたのだろうか……。
喉が渇いている。僕は、冷たい冬のコンクリートの上に横たわっていた。死体のように。死体の横で。
同じように転がっている、柚子を見る。目は乾き、空中を見つめ続けている。そんな柚子の手に、ほんの少し、触れた。やわらかい。でも、冷たい。床に広がった血は、黒く、ゼリー状になって固まっていた。触ると、ねっとりと指に絡みついた。
「……きれい、だよ」
柚子の腹は裂かれ、空っぽになった。腸や肝臓は床に散乱し、ひどくグロテスクだった。取り出した臓器のうちの一つ――――心臓は、僕の手の中にすっぽりと納まっていた。
力を込めると、指のあいだから血が噴き出す。まだ、温かい。ここだけ生きているようだ。でも、それでも、すこしずつ冷たさが忍び込んでくる。すこしずつ、硬くなっていた。
むっくりと起き上がる。体が、重い。倦怠感で、動きたくなくなる。でも、もうショーは終わった。観客は、役者は、ステージから離れなければならない。家に、帰らねば。
スポーツバックの中から、用意していた着替えを取り出す。ほほに飛び散った血を拭う。すっかり血で染まった服を脱ぎ、きれいなワイシャツに袖を通した。
着替え終わり、カメラをセットしたままだということに気がついた。ドラム缶に近寄り、その上のビデオカメラの電源を切る。機械音が、ゆっくりと音をひそめた。
柚子は、いや、彼女はここに置いていくことにした。隠そうなんて発想はない。こんな美しい彼女を、どうして隠そうというのだ。僕は、満足感に満ち溢れていた。
血のついた手を、手袋で隠す。スポーツバックを、肩に掛ける。工場を出る時、一度だけ振り向いた。夕日に照らされ、彼女の血がキラキラと輝いていた。
「……ばいばい、柚子」
日が、落ちかけていた。
「おかえりー」
玄関の扉を閉めると、間延びした声が居間から聞こえてきた。居間を覗き、ただいまと呟く。母は、趣味のパッチワークに没頭していた。僕の異変にも、この世で柚子という存在が消えたことにも、気付いてない。当たり前か、と誰にも聞こえないようにつぶやく。あの人は、僕を産んだことすらに気付いていないのかもしれない。
二階の自室に向かう。部屋に入り、クローゼットの中にスポーツバックの物を放り込む。……血がべっとりと付着した、服を。
それから、ビデオカメラも取り出した。コードでテレビとつなぐ。テレビをつけると、それが、僕と柚子が映し出された。
最新のビデオカメラは、薄暗い廃工場の中を鮮明に映し出している。僕が柚子を押し倒す。カッターを突きたてる。柚子が、泣いている、泣いている。音声は切ってあった。母に聞かれる恐れがあるし、何より、僕の耳に音がこびりついている。
あ、柚子がこっちを見た。目にたっぷりの涙をためている。口を大きくあけ、血を吐き出す。何かを言う。僕は柚子に合わせて口を動かす。
「お、ね、え、ちゃ、ん」
……柚子は、しっかり者の姉を呼んだ。でも、姉は来てくれなかった。何と言う悲劇。かわいそうに。
じたばたとしばらく動き、助けるように突き上げていた手から力が抜け、だらりと床の上に落ちた。もう、動かない。その時、一瞬だけ、僕が僕の方を、カメラの方を向いた。ぎらぎらと光り、すべての物を喰らい尽くそうとするその目はまるで、獣。
理性を失い、本能の、衝動の奴隷となった僕は、獣そのものだった。吊りあがる口からは鋭い歯がのぞき、その隙間から洩れる笑い声は、獣のうなり声にしか聞こえなかった。獣が、人間をまねて出す声。醜い醜い、獰猛なうなり声。
ビデオは、その時のような興奮を何度も繰り返し味わうために撮った。でも、そんなことはできなかった。出来たのは、醜い獣である自分の姿の再確認。狂気を目の当たりにしただけ。もう、こんな物に意味はない。
ビデオを消す。行為を収めたそのビデオは、クローゼットの隅に追いやられた。
その夜の七時ごろ、桃花さんから電話がかかってきた。柚子が家に遊びに来ていないか、と。僕は知らないと答えた。残念そうな声。見かけたら電話をちょうだいと付け加え、桃花さんは電話を切った。
その夜、柚子は帰ってこなかった。
しかも、永遠に。
翌朝、チャイムの音で目が覚めた。土曜日なので遅くまで寝てしまったのかと思ったら、まだ八時半だった。玄関を開けると、血の気がすっかり失せた杏がたたずんでいた。
「……どうしたの」
わかっている。どうしてここに来たのか。それでも、それでもうっすらと笑みを浮かべて訊いた。
杏はTシャツとジャージという家着でここに来た。それだけあせっている。それほど、急いできた。僕のところに。彼女の心配ごとの原因であるとも、知らずに。
「柚子が……柚子が、帰ってきてないの……」
杏がうつむく。毎日見たって飽きないほどきれいな杏の髪がつややかさを失い、乱れていた。白くて細い体がさらに小さく、震えている。僕はため息が出そうになる。なんて、なんて綺麗なんだ。感情をむき出しにして、こんなにも家族のことで一生懸命になっている。なんて美しい。なんて美麗。これ以上美しい女性は、この世にいないだろうとすら思った。
「柚子ちゃん、人の家に遊びに行ってんじゃないの?」
「もう! クラスメートの家にも! 近所の人にも電話しました!」
顔をあげた杏の瞳は、涙でいっぱいになっていた。真珠のような白い輝きを放ちながら、頬を、顎をつたい、玄関のタイルにしずくをたらす。
「あたし……あたし、どうすればいいか……」
嗚咽を漏らす。真珠は、涙は滝のように流れ、こぼれおちた。一歩、また一歩僕に近付く。まるで、助けを求める子犬のように。
「ゆう、いち、くん……」
僕に寄りかかり、パジャマをつかんで泣き出した。もう、声を抑えることはなく。恐る恐る、背中をさする。優しく、体に腕を回す。薄着で冬の道を走ってきたにもかかわらず、杏の体は暖かかった。そうだ、杏は、生きているから。
どんなにもがいても、苦しんでも、ここで杏は生きている。柚子とは、妹とは違う。
この胸が、自分の愛する妹の血で染まったと知ったら、この手で妹と思っていた子を殺したと知ったら、杏は僕のことをどう見るだろうか。恐れ? 軽蔑? 憎しみ?
胸が、痛い。心臓がつぶされかけているように、息苦しい。呆れた。僕はこんなことをしてもまだ、人に嫌われたくないと考えているのか。哀しき人間の性。一人でいたくない、さびしい。
だとしたら、どうしてあんなことをした?
妹のようにかわいがっていた、あの子を。
「……大丈夫だよ。きっと大丈夫」
事務的に言葉を紡ぎ出す。杏を抱きしめ、見られないように笑った。自嘲、だった。
汚れた手で、杏に安心を与える。嘘の言葉で、杏をなぐさめる。仮面の表情で、杏を励ます。
こんなことして、嘘で塗り固められてる僕って何?
人に嫌われたくないのに、好かれたいのに、好いてくれている子を切り刻んだ僕って何?
矛盾と矛盾が体内で音を立ててせめぎ合う。目を閉じて、いっそう強く杏を抱きしめる。耳元で聞こえる鳴き声を聞きながら、僕は考えることを放棄した。
「大丈夫だよ、大丈夫……」
繰り返す、繰り返す。呪文のように、嘘の言葉を。
古来から、サルは群れでしか生きていけなかった。
人もまた、一人では生きていけないのだ。




