契約の終わり
割と早く書けました
翌朝の社交界は、ひとつの話題で持ちきりだった。
――侯爵家の茶会での婚約破棄。
その場で泣き叫ぶどころか、涼しい顔で相手の家の出資契約を打ち切った令嬢。
人々はその名を、驚嘆と畏怖を込めて囁いた。
「リュミエール家の娘は恐ろしい」「あの冷静さ、まるで取引の女王だ」
そんな噂が一日も経たず王都中を駆け巡る。
しかし、当の本人――セリーヌ・リュミエールは、何事もなかったかのように書斎で書類に目を通していた。
白い朝光が机の上を照らし、インクの匂いが静かに漂う。
「……“恐ろしい”ですって? 褒め言葉ね」
非難を口にする者ほど、往々にして小者だ。
どちらが正当なのかは言われるまでもない。
ペン先が紙を滑る音だけが、静かな部屋に響いていた。
薄く笑みを残したまま、セリーヌは書類を整える。
――そのとき、ノックの音が聞こえた。
執事のルネが扉を開け、銀盆に封書を載せて差し出した。
「エインズワース家より使いが。……領地の契約破棄について、お話があるとか」
「お話? いいえ、“お願い”でしょう」
「……承知いたしました。お断りの返書を」
「ええ、簡潔に。『契約は条件通り、破棄いたします』とだけ書いて」
ルネが静かに一礼して下がる。
セリーヌは窓の外に目を向けた。
春の庭は青葉を揺らし、昨日の薔薇の香りはもう遠い。
だが、あの茶会の風景は瞼の裏に残っていた。
アルフレッドの歪んだ表情、リリアの震える指。
すべてが芝居のように滑稽で、同時に少しだけ、哀しかった。
「……愛ゆえに、ね」
小さく呟いた声が、誰にも聞こえぬよう空気に溶ける。
◇
その頃、王都の商会連盟では、密かに取引が進んでいた。
リュミエール商会が、エインズワース領鉱山の資源契約を正式に撤回。
それに伴い、他の商会も次々と手を引き始める。
誰も、リュミエール家に楯突いてまでその地に出資しようとはしなかった。
「なぜだ……あれほど誠実に、交渉を……!」
アルフレッドは机を叩き、虚ろな声で叫んだ。
だが答える者はいない。
執事は沈黙し、使用人たちは視線を逸らす。
その“誠実”とやらが、誰の支えによって保たれていたかを、彼以外の全員が知っていた。
「リュミエールの娘が……本気で……」
彼の声は震えていた。
それは怒りではなく、初めて味わう“恐れ”だった。
背筋を冷やすような感覚。
かつて自分が「愛」と呼んだ軽率な賭けが、
どれほどの代償を伴うものだったのか――
その重みを、ようやく思い知る。
一方その頃、リリア・バートンの元にも、同じ報せが届いていた。
彼女の小さな屋敷の玄関先で、父が手紙を握りしめている。
「……バートン家への取引も、全て見送りだそうだ」
「え……?」
「リュミエール商会の関連先から、だ。“遺憾ながら、方針を変更する”とある」
父の声は、怒りよりも呆然に近かった。
リリアはその場に立ち尽くした。
――何かが、崩れていく音がする。
青ざめた指で手紙を掴みしめる。
思い出すのは、あの茶会でのセリーヌの微笑。
静かで、冷たくて、それでいてどこか哀しげだった。
「……私……あの方に……」
言葉は途中で途切れた。
そして気づいてしまったのだ。
――もう、遅かったのだと。
あの日、涙を見せることができたなら。
あの場で、謝罪の一言を口にできたなら。
けれど、そんな想像には何の意味もない。
結末はすでに見えていたのだから。
「どうして、あの方は……ここまで……」
唇から漏れた呟きに、誰も答えない。
当然だった。
奪われたのは“愛”ではなく、“取引”だったのだから。
セリーヌ・リュミエールは感情では動かない。
彼女にとって、愛も婚約も契約の一条に過ぎなかった。
「……そんなの、卑怯だわ」
だが、どこかで理解していた。
卑怯なのは自分のほうだ。
信頼を売り、恩義を裏切り、愛という言葉を盾に、他人の名誉を奪ったのだから。
それでも、後悔はしなかった。
“泣くことさえ許されない”のではない。
彼女は――“泣くほどの価値がない”ことを知ってしまったのだ。
外では、噂好きの貴婦人たちが通りを歩き、
「リュミエールの令嬢は見事だった」と囁く声が風に乗る。
いつもは商人あがりの分際でと馬鹿にしていた者が、今はこぞってその冷静さを讃えていた。
誰も、セリーヌを笑わない。
代わりに、笑われているのは――リリアだった。
リリアは扇を取り、何事もなかったように開いた。
上辺だけの笑みを浮かべ、鏡の前で姿勢を整える。
「……大丈夫よ。私はまだ、貴族ですもの」
けれど、その言葉を吐いた瞬間、自分が“貴族”ではなく、ただの“愚かな女”になっていることに、彼女自身だけが気づいていなかった。




