第89話 緊急事態 1
シアへの魔法指導を始めて数日が経過。
魔法訓練の際は、ほとんど毎回ヴァーンが一緒にやってくる。
これだとヴァーンも俺の弟子みたいなもんだ。
でもまあ、ふたりで魔法を訓練するのは上達のためにも悪いことじゃない。
実際、数回の指導でふたり共かなり上達したと思う。
このまま順調にいけば、詠唱破棄も身に付きそうだ。
というように指導を進めているのだが、最近は人に魔法を教えるのも悪くないと思うようになってきた。
武術でも学問でもそうだが、人に教えることで見えてくるものもある。
魔法に関しては、これまでずっとひとりで訓練してきたから、なおさらそう感じてしまう。
実際、シアの指導を初めて、新たに気付くこともあったからな。
うん、指導も悪くないもんだ。
さて、オルドウでは魔法指導が俺の日常に新たに加わったが、日本での俺は引っ越し後の作業にいまだ追われている。
時間があれば、ついついオルドウに行ってしまうので、引越しの後処理がなかなか終わらないんだよ。
先日、俺の新居を訪れた香澄が、散らかったままの部屋を見て呆れていた。
呆れるだけで、手伝ってはくれなかったんだけど。
あいつもなぁ……。
まあこんな感じで、日本でもオルドウでも忙しい時間を過ごしているが、充実しているからなのか、あまり疲れは感じない。
やっぱり、好きなことを日々できるというのは最高なんだよな。
何といっても、前回の時間の流れの中では30年待ち続けたからさ。
本当に今は幸せだと思う。
ありがたいことだ。
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オルドウの昼下がり。
冒険者ギルド内にある掲示板前。
今日もまたいつも同様に貼り出された依頼を眺めているのだが、食指が動くものが特にない。
やはり朝早くに来ないと駄目なんだよなぁ。
それは分かっているんだけれど、日本とオルドウ間の移動制限のおかげで早朝に来れないことがよくあるんだよ。
はぁ~。
これまで同様、もう何度目か分からないこの状況に嘆息が漏れ出てしまう。
溜息をつくと幸せが逃げるというけれど、今日の依頼を受けるという幸せを既に逃してしまった俺からどんな幸せが去っていくというのだろう。
……。
まっ、溜息とは悪いものではなく、自律神経を整えるのに効果的で身体に良いという話もある。
ということで、気分を変えて。
よし。
今日は依頼を受けるのはやめよう。
なら、常夜の森にでも行くか、それともテポレン山にでも登るか。
などと考えていると。
冒険者ギルドの入り口から慌てた様子で1人の男が駆け込んできた。そのまま受付嬢のもとに走り寄る。
「た、大変だ! ダブルヘッドが出た! しかも2頭も!」
混雑時が過ぎ去った冒険者ギルド内は閑散としているが、それでもギルドの職員は在席しているし冒険者も数人はいる。その全員がダブルヘッドという言葉に息を呑む。
「落ち着いてください、タラムさん。それは確かな情報なのですか?」
「俺は落ち着いているし、これは間違いない情報だ」
「分かりました。それで、実物を目撃されたのですか? 場所はどこですか?」
「ああ、見たぞ。俺がこの目で見て、で……それで、逃げてきたんだ。場所は常夜の森の中域、テポレン山近くの場所だ」
「その情報、間違いありませんね」
「間違いない」
「分かりました。これは緊急事態です。すぐにギルド長から指示がありますので、少しお待ちください」
凪いだ海のように静かだったギルド内が、その言葉で騒然となる。
「早く救援を出してくれ。仲間が今も残っているんだ。それに近くには他の冒険者たちもいたと思う」
「分かっています。少しお待ちを。……いえ、あなたもこちらに来て直接ギルド長に話してください」
「分かった」
タラムという冒険者と対応した受付嬢だけでなくギルド職員全員があわただしく動き始める。この場に居合わせた冒険者たちのざわめきも大きくなっている。
ダブルヘッド。
以前このギルドに保管されている魔物図鑑で見た覚えがある。
その言葉通り頭が2つある4足の魔物。
見た目は双頭の獅子といった感じだったな。
相変わらずのその安直な名称とイラストが特徴的だったから、しっかりと記憶に残っている。
で、このダブルヘッドについての情報はというと……。
確か、魔法も使える強力な魔物で討伐は困難。生息域はテポレン山頂付近、常夜の森の深域。ここ数年は目撃情報がない。そんな内容だったか。
それと、討伐に必要な人数は……。
これは記憶が曖昧だけど、少なくとも2級以上の冒険者が10人は必要だと書いていたような気がする。
他に、俺の覚えているダブルヘッドの特徴は……。
俺が記憶を手繰り寄せている間も、周りの喧騒が止むことはない。
「ダブルヘッドは森の深域から来たのか」
「御山の山頂から降りて来たんじゃないか」
「これはやばいぞ」
「ああ、かなりまずいな」
「オルドウには特級冒険者はいないからな。1級でやれるのか?」
「1級が数人いれば大丈夫だと思うが」
「今のオルドウに1級は何人いるんだ?」
「オルドウ所属は5人だが、依頼で外に出ているやつもいるしな」
「それで大丈夫なのか、ダブルヘッドが2頭だぞ」
「……」
「……」
「……」
ギルド内にいる冒険者の会話がそこかしこから耳に入ってくる。
その大半が不安を煽るような内容だ。
ダブルヘッドを相当な脅威と考えているということなのだろう。
しかし、1級の冒険者が複数人必要なのか。
魔物図鑑から得た俺の知識とは少し違うな。
「落ち着くまで常夜の森には行けないってことか」
「それじゃ、稼げないぞ」
「いったい、いつ落ち着くんだよ」
「ダブルヘッドってなんだ?」
「はぁ? そんなことも知らないのかよ」
いつまでも止むことのないように思われた喧騒だったが、奥からひとりの男性が現れた途端、ギルド内が水を打ったように静まり返る。
「冒険者諸君、ここに集まってくれ」
筋肉隆々の肉体に禿頭というまるで世紀末の敵役の様な風体の大男の呼びかけに、場内にいた冒険者たちが受付の前に集まり始める。とはいえ、その数は多くない。20人もいない程度だ。
「既にここにいる者たちは理解しているようだが、常夜の森に災害指定特魔が現れた。双頭の魔物ダブルヘッドだ、しかも2頭。状況から見て、テポレンの御山から下りてきたと思われる」
「それで、ギルマス、どうするんですか?」
「討伐隊を組むのか?」
「倒せるのですか?」
数人の冒険者から矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
俺にとっては初見のこの筋肉隆々の男性はオルドウの冒険者ギルドの長、ギルドマスターだったみたいだ。





