第525話 浴槽
「……」
和見家地下室の浴槽。
そこで、過去世界の15歳の幸奈に対して行われていた常識外れの行為。
決して許されることじゃない。
あんな愚挙が、目の前の幸奈に対しても行われていたら!
見過ごせるわけないだろ。
「どうして地下室に浴槽があるんだ?」
「……知らない」
視線をそらし、消え入るような声。
「話してくれないか、幸奈?」
「だから、知らないの。あそこは父の地下室だから」
「……」
「それに、今はほとんど使っていないみたいだし」
「使ってない?」
「そうよ。数年はそんな状態」
数年は使っていない。
それが本当なら。
今の幸奈は……。
「本当に?」
「本当よ!」
「……」
「浴槽も汚れていたでしょ」
「まあ……」
5年前の浴槽に比べると、確かに。
「ずっと使っていないから汚れているのよ」
汚れている浴槽に、幸奈の表情。
そして口調も。
とすると、これは……。
嘘とは思えない、か。
「でも、どうして功己がそんなこと聞くの? 何かあった?」
「いや……何もない」
「……」
「ただ、地下室に不釣り合いな浴槽だなと」
「わたし……あの部屋嫌い」
「ああ」
「浴槽も嫌い」
「……」
「だからね、あまり話したくない」
「そう、か」
幸奈からは明確な拒絶の意志が感じられる。
「とにかく今は使ってないから。だから、この話はここまで」
事実は不明のまま。
ただ、少なくとも今は使われていないのだろう。
それを知れただけでも……。
「分かったよ」
「……うん」
「……」
「……」
若干の気まずさとともに、わずかばかりの安堵を感じてしまう。
何とも不思議な心持ちだな。
「いつまで話してんだぁ。もう行くぞ」
「有馬君、申し訳ないんだけど、先に研究所に向かってもいいかしら」
そんな微妙な空間に響いてきたのは、武上と古野白さんの声。
扉の外から呼びかけているようだ。
「……」
「功己、行った方がいいわ」
「……」
「早く」
「……そうだな」
まだ重さの残る体を無理やりに扉へと向ける。
何とかドアノブに手を伸ばした俺の背中に。
「……功己」
「ん?」
「今日はありがと。一人暮らしのことも、嬉しいよ」
「……」
「わたし、頑張るから」
もうずっと頑張ってるだろ。
「功己は気にせず、あっちの世界に行っていいんだからね」
「……」
「セレスさんの力になってあげて」
「……ああ」
「おっせえぞ」
和見家の玄関を出た俺を迎えてくれたのは、もちろん。
言葉とは裏腹に、にやにやとした笑みを貼り付けている武上と。
「話の途中なのに、悪いわね」
申し訳ないといった顔の古野白さん。
「いえ、大丈夫です」
「そう?」
「ええ」
「まっ、幼馴染とはいつでも会えるんだ。あとで、ゆっくり話してくれや」
「ああ、そうさせてもらう」
「では、研究所に戻りましょうか」
研究所所有の車に乗り込むため、徒歩で和見家から少し離れた駐車場へ。
ここは、そう5年前の世界で襲撃にあった駐車場だ。
といっても、体感的には数時間前のもの。
銃と異能の戦闘感覚が体に強く残っている。
「……」
時間遡行した時に、よく感じるこの感覚。
頭では理解していても、やはり収まりの悪さがあるな。
「おっ、里村じゃねえか」
「武上くん!」
駐車場の前の通りを歩いてきたのは里村。
「古野白さんに、有馬くんも!」
「久しぶりね、里村君」
「うん、そうだね」
20歳の今も童顔の里村だが、こうして見ると5年前の顔つきとはかなり異なっている。
「みんな一緒で……何かあったの?」
「それはこっちのセリフだぜ。おめえこそ、こんなとこに用でもあんのか?」
「ボクはたまたま歩いてただけだよ」
「つっても、ここは住宅街だぞ」
「うん、ボクの散歩道なんだ。今はこの近くに住んでるからさ」
里村がひとり暮らししている部屋は、和見の家からそう離れてはいない。
散歩できる距離でもある。
「どう、みんなで一緒に散歩する?」
「ごめんなさい、今は仕事中なの。次の機会にしてもらってもいいかしら」
「えっ! 異形が出たの? こんな場所で?」
「……」
「それとも異能者と?」
「里村ぁ、その話はまた今度な」
やっぱり、5年前の過去世界の里村とは違う。
この世界の里村は、異能とは無縁の普通人だ。
「あっ、つい興奮しちゃって」
「おめえらしいけどよ」
「……ごめん」
「それじゃあ、失礼するわね」
「……うん」





