第523話 異形
「#〇%▲!」
握り潰されそうな拳の痛みに苦悶の表情を浮かべながら、空間異能者が叫び声を上げている。
「@*&%!」
まったく意味が分からないにもかかわらず、聞き覚えのある喚声。
言語理解のギフトを持っている俺が理解できない言葉を発するこいつは……。
人型の異形、邪狼狗では?
「……」
異形と対峙した経験は、たった2度。
知っているのは2体だけだ。
その内の1体が邪狼狗だった。
異形との対峙数は、魔物とのそれとは比べ物にもならない。
2度の経験など無に等しいな。
そんな僅かな知見しかない俺が異形を見極められるのか?
とても見抜けるとは思えない。
それでも、こいつが纏う空気、意味不明の叫声は。
「……」
昨日、過去世界で遭遇した邪狼狗そのもの。
そう思えてしまう。
「$#◇@!」
過去世界では、存在の完全消滅に成功した邪狼狗。
その時間の流れの中では、復活することなどできないはず。
だが、この世界があの過去世界と異なる時間軸に存在しているとしたら。
2つの世界が位相の関係にあるとしたら。
邪狼狗が今なお健在であってもおかしくはない。
目の前に現れるのも……。
「有馬君、何をしているの? 早く決着をつけて!」
「有馬がやんねえなら、オレが潰してやろうか?」
「……いや、大丈夫だ」
どうでもいい、ことだな。
敵が邪狼狗であろうとなかろうと。
することに変わりはないのだから。
今はただ、眼前の空間異能者を倒し。
ここから脱出するだけ。
他のことは、後で考えればいい。
「*△¥〇#!」
俺の手を振り払おうと必死にもがく腕力は普通じゃない。
一般人の腕力どころか、強化した武上の力すら越えている。
そんな力で暴れまわる相手に対するのは容易なことではないが、レベルが上がり強化の熟練度も増した今の俺なら大きな問題はない。
よし、ここだ!
見境なく飛んで来る空間異能者の足や腕を躱しながら、手のひらに力を入れ。
拳を握り込む。
「@△%!」
痛みに悶える空間異能者をこちらに引きよせ、その胸に掌底を!
魔力をたっぷり載せた掌底を放ってやる。
すると。
「@△%!!」
ひきつるような悲鳴の後、喚声がやみ力も抜け、そして……。
「……」
俺に拳を掴まれたまま、意識を手放してしまった。
「おっ、やったか?」
「ついに、ふたりとも倒したのね」
見ての通り。
「完全にのびてんな」
「さすがだわ」
空間異能者も吾妻も失神状態。
しばらくは立ち上がることもできないだろう。
ただ……。
「あとは帰るだけだな」
「ええ、まずはしっかり縛って、その後で元の世界への扉を開けてもらい……!?」
「どうした?」
「……消えてる」
「はあ? ふたりとも目の前にのびてるじゃねえか」
「違うわよ。気配が消えてるの」
「……異形の気配か?」
「そうよ。さっきまで色濃く匂っていたのに」
そう。
邪狼狗の気が無くなっているんだ。
「異能の気配自体、古野白の勘違いじゃねえのか」
「違う。あれは確かに異形のものだったわ」
「なら、こいつが気絶してっからだろ」
「意識がなくても気配は残るのよ」
「……」
「こんな綺麗に気配が消えるなんて! ほんの僅かな時間に、気配が現れて消えるなんて……あり得ない」
「あり得なくても、それが事実なら、あり得るんだろうぜ」
「……」
「有馬の一撃が異形を消し去ったんじゃねえか」
「そうかもしれないけど……」
倒れている空間異能者を鑑定しても、今は何もあやしいところはない。
つまり、邪狼狗らしき異形は消えたと。
「まっ、消えたんなら悩む必要ねえわな」
「……」
「まずは、あっちに帰ろうぜ。詳しいことは研究所で調べりゃいい」
「……」
ここで考えても答えが出るわけじゃない。
武上の言う通り、今は帰還を優先すべきか?
そうだな。
後方で待機していた幸奈と武志も、こっちに近づいて来たことだし。
まずは、帰還だ。
「功己、大丈夫?」
「兄さん、倒したのか?」
「ああ」
「身柄、確かに引き受けました」
「研究所への連行、お願いするわね。私と武上君は少し遅れて研究所に戻るつもりだから。鷹郷さんには、よろしく伝えておいて」
「了解です」
吾妻と空間異能者を連れて和見の屋敷から出て行く能力開発研究所職員。
彼らを見送る古野白さんと武上の顔には、明らかに疲労の色が見える。
傍らの幸奈と武志も同様だ。
「幸奈さん、武志君、今後のことは任せてちょうだい。和見家のこと、あなたたちのこと、研究所が責任をもって対応するから。もちろん、あなたたちの父親についてもね」
「ありがとうございます」
「おう。こんなこと仕出かした相手にゃ、研究所も強く出るはずだ。何も問題ねえぜ」
「はい」
あの異空間で吾妻と空間異能者を倒した後。
こちらに戻るのに少し手間取るかとも思ったのだが、古野白さんと武上が上手く対処してくれたおかげで、想像以上にあっさりと帰還することができた。
「それで、あの人たちは大丈夫なんでしょうか?」
「異能抑制具と縄で拘束してんだ。心配ねえよ」
「研究所職員もプロなのだから安心して」
「そう、ですね」
こんなに簡単でいいのか?
邪狼狗の気配が消えたってことは、奴を倒したということなのか?
そんな疑問が頭から離れない。
「こっからはオレたちが上手くやるからよ。ふたりは休んでくれや」
「私たちは一度研究所に戻るけど、幸奈さんと武志君は、今日はゆっくり休んで。それで、明日また話しましょ」
離れないが、俺に分かることでもない。
やはり研究所に行くしかない、か。
「はい。あの、今回は本当にありがとうございました」
「ありがとうございました」
「いいのよ。これは私たちの仕事なんだから」
「でも……」
「とにかく、今日は休んで。また明日、ね」
「……はい」
疲労を笑みで隠した古野白さんと武上が和見家の玄関へと足を向ける。
俺も。
「有馬君、悪いわね。疲れてるでしょうに、研究所にまで同行してもらって」
「疲れているのはお互い様ですよ」
「それはそうだけど」
「どちらにしても報告は必要でしょうから、さっさと済ませた方がいいですし」
「そうだぜ。面倒なことは早く片付けた方がいいってな」
「……」
「ただ、その前に幸奈と話がしたいので、少し外で待っててもらえませんか?」
「ええ、分かったわ」





