第403話 ベニワスレ 2
「王軍が撤退したってのは本当だったのか」
「信じがたいが、実際に麓にもどこにも姿が見えなかったからな」
「ああ」
「偵察隊の情報通り、撤退に間違いはない」
「……だな」
偵察隊から王軍撤退の報を受け、ヴァーンとともに急遽レザンジュ側の麓まで足を運んで確認したところ……。
昨日まで存在していたはずの王軍本陣には兵士のひとりもおらず、数日にわたる野営の痕跡が残っているだけだった。
「しっかし、まだ数千は残ってたのによ。昨日の大敗でよっぽど懲りたみてえだな」
「いや、一時撤退しただけで、また大軍を連れて戻ってくるかもしれないぞ」
「……」
「用心はしておいた方がいい」
「勘弁してくれ」
「まっ、当分の間は王軍も大人しくしてるだろ」
すぐに再攻勢をしかけるつもりなら、麓の拠点を引き払う必要なんかない。
麓を去ったということは、少し時間を空けるはずだ。
「当分じゃなく、ずっと来なくていいぜ」
「そう甘くはないだろうな」
「ちっ、幕引きがどこになるか分かったもんじゃねえ」
本当にいつまで続くことやら。
セレス様の身がここにある以上、王軍が諦めることもないだろうし……。
まあ、それを決めるのはレザンジュ王か。
俺が考えても仕方ないことだな。
そんなことを話しながら、向かう先は昨日の戦場跡。
そこにセレス様とシアがいると聞いたからだ。
「おっ、セレスさんとシアがいるぞ」
坂下から見上げた先には、シアとワディン騎士の姿。
少し離れた位置にセレス様の姿をした幸奈がひとりで立っている。
「……」
幸奈がいるのはベニワスレの大木の下。
昨日の戦闘時と同じ場所。
俺が助けた場所だ。
「先生、どうしたんです? ヴァーンも?」
「麓の偵察から戻ったら、シアとセレスさんが出掛けたっていうからよ。様子を見に来たんだぜ」
「そういうことね」
「で、何してんだ?」
幸奈がひとり、シアたちから離れてベニワスレを見上げている。
「セレス様がひとりになりたいって」
「ん? ……あの木に何かあんのか?」
「分からない。でも、昨日もあの大木を気にされていたから」
そういえば、昨日も幸奈は何かを考えるようにしてあの木を眺めていたな。
折れた枝も捨てずに持ち帰っていた。
その枝、今も手にしている……。
……。
ベニワスレの大木の下。
静かに散る花びらの中に佇む幸奈。
身動ぎもしない。
まるで一枚の絵画から切り取られたかのような清冽な眺めに、言葉を失くしてしまう。
俺も、ヴァーンも、シアも。
「……」
「……」
「……」
と、幸奈が顔を横に。
あれは……!?
頬が濡れている!
泣いている?
ベニワスレを見て、どうして?
「……なさい」
幸奈、今何て言ったんだ?
「ごめんなさい、功己」
「……」
謝っているのか?
俺に?
それに、功己と?
功己と言ったよな!
俺の耳だからこそ、とらえることができた。
テポレンの風が運んでくれた僅かな音。
……まさか!!
「コーキ、行ってやれよ」
「先生、セレス様をお願いします」
「……」
ふたりに幸奈の声は届いていないはず。
なのに、雰囲気で察したと?
「……ああ」
ヴァーンとシアの一言で、止まっていた俺の足が動き出す。
一歩、一歩、ゆっくりと幸奈のもとへ。
「……」
「……功己?」
眦に光るものを溜めながら、振り向く幸奈の眼の中にあるのは……。
この輝きは……幸奈?
「……」
「幸奈なのか?」
「……うん」
本当に?
幸奈が記憶を取り戻した!
「そうよ、功己。 わたし!」
この口調、昨日までとは違う。
間違いない!
幸奈だ!
幸奈が戻ってきた!!
幸奈が!!
……。
安堵と喜びと驚きと。
一瞬にして入り乱れる感情に、心が追いつかない。
ただ……。
ただ、良かったと……。
「功己!」
えっ?
幸奈が飛び込んで?
俺の胸に!?
「……ごめんなさい」
「……」
弱々しい。
「わたし、忘れて……」
絹糸のように細い声。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
胸の中。
漏れる声から伝わってくる。
「……いいんだ。幸奈のせいじゃない」
「でも……」
「いいんだ」
「……」
「……」
「……功己」
俺の腰に回した腕に力が!
幸奈が、俺を強く抱きしめてくる。
「……」
俺は……。
俺は……。
……。
……。
腕が持ち上がる。
まるで意志を持つかのように、その腕が幸奈の背中に回る。
止まらない。
止められない。
……。
そして……。
……。
抱きしめた。
その華奢な背を、ゆっくりと、優しく……。
優しく、優しく……強く!





