第36話 珈紅茶館 1
「大丈夫ですか?」
「……あ」
やっとこっちを見たな。
「あの、ありがとうございました。わたしは大丈夫です。けど……アル、大丈夫?」
「平気だ。これくらい大した怪我じゃない」
少女は問題なし。
こっちの少年の怪我だけか。
本人は平気だと言っているが。
「ちょっと、失礼」
魔法で生成した水で傷口を洗う。
「ちょ、ま……痛ぅ」
綺麗になった傷を見てみる。
肩や胴回りに負った傷は狼の爪によるものだろうが、思ったより浅い。
避けきれないまでも、上手く躱していたのだろう。
これなら、応急処置でも問題なさそうだ。
「簡単にですが、手当てしておきましょう」
「そこまでしていただいて……本当に助かります」
そういう少女の目は心配そうに少年の傷を覗き込んでいる。
そりゃ、心配だろう。
さっそく持ち歩いている日本製の薬で応急手当てを施す。
治癒魔法は必要ないかな。
「痛、いたいって」
「しっかり処理しておかないと、悪化するかもしれませんからね。はい、終わりましたよ」
「……」
「この度は危ないところを助けていただき、弟の手当てまでしていただき、本当にありがとうございました。ほら、アル」
「……ありがとう」
少女の方は最初からずっと感謝の意を表してくれているが、少年の方はどうにも納得がいかない様子。
明らかに危険な状況だったというのにな。
まあ、素直になれない年ごろなのだろう。
こちらとしても、感謝してもらうために助けたわけではないし、別に問題はない。
「いえ、偶然通りかかって良かったです。それと、この傷ですが今は応急手当てをしただけですので、町に戻ったらきちんとした場所で診察してもらってください」
おそらく、この処置で充分だと思うが。
「はい、分かりました。それで、あの、お礼に何か差し上げたいのですが……。今は手持ちの方が……」
思い出した。
このふたり、冒険者ギルドで騒ぎを起こしていた少年とその姉だ。
先輩冒険者の助言を無視して、未熟な腕で常夜の森にやって来たというわけか。
事情はあるんだろうが、無謀だな。
とはいえ、俺から見たらふたりとも子供みたいなもの。
「気にしなくていいですよ。感謝の言葉で充分ですから」
「そういうわけには……」
「そうだ、そういうわけにはいかない。必ず礼はするから、その、ちょっと待ってくれれば助かる」
弟の方も礼はしっかりとしておきたいのか。
言葉は乱暴だが、その辺は弁えているようだ。
「分かりました。では、お願いします」
「はい、必ず」
「受けた恩は必ず返す」
「アル、その言葉遣いはなんですか」
「……必ず返します」
「いつでも良いので、そう気を張らずにお願いしますね」
「ありがとうございます、でも必ずお返ししますので」
「……分かりました」
こちらとしては特に何もいらないが、気の済むようにしてくれればいい。
「それにしても、さっきの魔法は凄かったです」
「確かに凄かった。あれは火じゃないよな。何の魔法だ?」
「アル!」
「ああ、冒険者に手の内を聞くのはダメなのか」
「すみません、弟が」
「いいですよ」
そういう禁則事項があるのか。
聞いてないな。
とすると、規則的なものではなく、あれか、慣習的なものか。
冒険者ギルドに次に立ち寄った際に確認してみるか。
「それより、早くオルドウに戻った方がいいですよ。診察も必要ですからね」
「そうでした……弟の怪我なのにすみません」
「ここからだと、獣道に戻れば常夜の森からもすぐに出ることができますので」
「あの……ここまでしていただいて厚かましいのは重々承知しているのですが……。一緒にオルドウまで戻っていただけないでしょうか?」
「姉さん、おれなら大丈夫だ」
「アル、でもね」
「いいですよ、私も帰るところでしたから」
「本当ですか、ありがとうございます」
「では、私の後についてきてくださいね」
「その前に、魔物はあのままでいいのか?」
ん?
ああ、素材か。
常夜の森で助けた姉弟。
姉のシアと弟のアルを連れてオルドウに戻った俺はギルドに寄らず宿屋に直行。
その日はそのまま日本に帰還することにした。
明けて翌日。
翌日、いや翌々日なのか?
もう、よく分からなくなってきたな。
ここのところ、以前にもまして時間の感覚がおかしくなってきた気がする。日本とオルドウを頻繁に行き来して、さらに時間の進み具合も違うときたら、そりゃ、体内時計もおかしくなってしまうというものだ。
オルドウと日本での時間のやりくりについて、ある程度は規則的な行動パターンを身につけた方が良いのかもしれないな。
それと……やっぱり、1人暮らしも始めた方がいいか。
突然部屋からいなくなって数時間後に部屋に直帰なんていう生活を不規則に行っている現状。
もし家族に気付かれでもしたら、困ったことになる。
1度や2度はごまかせても、頻繁に見つかってしまうとなぁ。
下手をすれば露見につながる危険性もある。
となると、問題はお金だ。
20歳のこの身では貯えている金額も大したことはない。
1人暮らしを維持するために必要な金額を考えると、心許ないものがある。
苦しいところだが、何とかするしかないか。
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「それで、少しは落ち着いたか?」
20歳に戻ってから頻繁に訪れている珈紅茶館。
当初の懐かしい気持ちはとっくになくなり、今や常連のような感覚になっている。
そんな珈紅茶館で珈琲を飲んでいる俺の隣には、この暑いのに相変わらず長袖を着た幸奈が座っている。
「うん……全部解決したとは言えないけど、家の方も少しずつ落ち着いてきたよ」
この珈紅茶館にふたりでいる時に幸奈の親から電話があった日から随分時間が経過したように感じられるが、実際はそんなに日数は経っていない。
「それは良かった」
とは言ったものの、幸奈の顔を見ていると、その言葉がふさわしいようには思えない。
いつもの明るい表情が嘘のように翳っているからな。
「ありがと……」
こちらに気を遣ってそう言っているだけで、家の中はまだ大変なんだろう。
「……詳しいことは聞かないんだね」
「幸奈が話したかったら、いつでも聞くけど」
「……」
「無理に聞く気はないよ。この前も……いや、いつもそうだけど、幸奈だって俺が話したくないことを強引に聞かないだろ」
幸奈はそういう性格だ。
普段は強引なところもあるが、大事な局面では無神経なことはしない。
先日俺が悩み落ち込んでいる時も、詳しいことは聞かずに励ましてくれた。
本当に感謝している。
「そうだけど」
「それとも、今話してくれるか?」
「それは……」
「まっ、また気が向いた時にでも話してくれたらいい」
「……うん」
今は話がしづらい状況なんだろう。
それでも、幾分か表情はましになった。
「いつも、ありがと」
「お礼を言われることじゃない」
「そんなことないよ。でも……その時が来たら聞いてね」
「もちろん。嫌と言っても聞いてやるから」
「フフ、ありがと」
「これ以上ありがとは要らないぞ」
話を聞くことなど、なんて事はない。
少しでも力になれたら、それでいい。
「了解。はい、こんな話はもうやめです」
ポン、ポンと両手の掌を軽く叩き笑顔を見せる幸奈。
翳りは嘘のように消えている。
切り替えが早いのは美点だよな。





