第354話 欲しかったもの
<和見幸奈視点(姿はセレスティーヌ)>
トゥレイズから離れる。
みんなが戦っているこの戦場から。
そんな発想になるということは。
「トゥレイズが陥落するとお考えですか?」
「そうは考えておらん。だが、我らは万一に備えて動く必要がある。セレスなら分かるであろう」
「……」
記憶が中途半端な今のわたしでも、お父様の考えは理解できる。
けど、この状況でトゥレイズを去るなんて。
簡単には受け入れられない。
それに、離脱の困難さも知っているから。
「心配は要らない。手筈は既に整えておるのだ」
「お父様……」
トゥレイズが包囲されている現状で、脱出する方法があるというの?
「閣下のおっしゃる通りです」
子爵も自信ありげな表情。
「どうか、ご安心ください」
「方法があるのですか?」
「もちろんです。実は……」
トゥレイズは他国や蛮族の侵略を防いできた南部最大の要衝。
城塞都市としてワディンの南方に100年以上君臨してきた。
陥落など考える必要もない。
自他ともに認める難攻不落の城塞だけれど、それでも万が一に備えて築城時から脱出路は用意していたとのこと。それが、子爵邸の地下に存在する地下通路。
つまり、この屋敷の地下にある隠し通路を通ればトゥレイズ城塞の外へ脱出することができる。敵の包囲網から逃れることができるというのだ。
「その通路を通って、わたしがトゥレイズを離れる?」
「そういうことになります」
「……」
わたしの考えや気持ちがどうあれ、お父様と子爵の間では既に話は決まっているのだと思う。
けど……。
また、わたしだけ逃げるの?
トゥレイズの皆さんはワディンのために必死になって戦っているのに!
「セレス様?」
傍らにいるシアさんがわたしの気持ちを察して、顔を曇らせている。
正面にいるお父様も。
「……」
万世一系たるワディンの血を絶やしてはならない。
ワディンの娘であり、神娘でもあるわたしは生き延びる必要がある。
何よりも自分の命を優先すべき。
分かってる。
頭では理解している。
ただ、それでも。
みんなを残して、ひとりだけ逃げたくない。
それに、何より。
「……お父様は?」
もうお父様を置いてはいけない。
お母様もお兄様もいない、この状況でお父様を残してなんて!
「いまだ不自由な身体だが、私もセレスに同行させてもらうよ」
えっ?
お父様も?
「セレスの護衛騎士たちも一緒だ」
お父様に護衛の皆さん。
シアさん、アルくん、ディアナさん、ユーフィリアさん、ルボルグ隊長率いる騎士の皆さんがわたしと共にトゥレイズを脱出する?
「コーキさんや、ヴァーンさんも一緒に?」
「もちろんだとも」
「……」
「分かってくれたかな?」
こうなると……。
「はい」
申し訳ない気持ちは拭いきれないけれど。
受け入れるしかない。
「うむ、うむ」
「……」
安心したように何度も頷くお父様。
シアさんも安堵の表情。
「では、半刻後に出発するとしよう」
半刻後?
「そんなすぐにですか?」
「トゥレイズを去るなら早い方が良いのだ」
「……分かりました」
「セレス様?」
「ええ、急ぎましょう」
残された時間は少ない。
早く部屋に戻らないと。
「お父様、準備してまいります」
「セレス」
頭を下げ、踵を返したわたしの背にお父様の声。
「もう少しいいかな?」
半刻で皆さんに事情を説明して準備を整えなきゃいけないから、時間に余裕はない。でも、お父様が話があるというなら。
「……はい」
「うむ。子爵、ふたりだけにしてもらいたいのだが?」
「承知しました、閣下。我々は広間の外に出ておりますので」
トゥレイズ子爵と騎士たち、それにシアさんたちが広間から出て行く。
残ったのはお父様とわたし。
こんな広い空間にふたりだけ。
「お父様?」
「セレス……これまで苦労をかけたな」
「……」
「まだ若いそなたに神娘としての重責を課し、さらには今回のこと。本当に申し訳なく思っている」
お父様がわたしに頭を下げて!?
「今回のことだけではないな。ワディナートからの脱出も、私を救出に来てくれたことも、カーンゴルムからトゥレイズまでの旅も。すべては私に責任がある。己の不明を恥じるばかりだ」
「それは違います! お父様に責任はありません!」
「……優しいな、セレスは」
「そんなこと」
「本当に心の優しい娘だ。私にはもったいない娘だよ」
「お父様……」
「こんな心根の娘に、私はとんでもない苦労をかけてしまった。けれど、それもここまでだ」
ここまで?
「今後は……、おそらく今後は我がワディンは変わってしまうだろう」
「……」
「以前の力は戻らぬ、いや、それどころか……」
トゥレイズ陥落は考えていないと、さっき話したばかりなのに。
「当然、レザンジュ王国に対抗するなど不可能事」
「……」
「それゆえ、本来なら私もここに骨を埋めるべき。トゥレイズ城塞と運命を同じくすべきなのだ。が……」
お父様、そんなことまで考えて!
「残されたワディンの血統は私とセレスだけ。もし私がこの地で果てれば、セレスだけになってしまう」
「果てるだなんて聞きたくないです!」
「……」
「それに、お母様とお兄様もいます」
「……そうだな」
お父様の、この反応。
ふたりのことは諦めているの?
まさか、何か情報を持ってるの?
「とにかく、神脈たるワディンの血をここで絶やすわけにはいかぬ。だが、セレスにその責任を負わすわけにもいかん」
「……」
「だから、私が生き足掻く。生き延びて、残りの人生をワディンに捧げよう」
ワディン再興のために。
ワディンの血を残すために、ひとりで。
「お父様、わたしも一緒に!」
「……充分だよ。セレスは充分に頑張ってくれた」
「そんな、わたしなんて」
何もしていない。
何もできない名前だけの神娘なのに。
「これからは好きに生きなさい。セレスは自分のために生きるんだ」
「……」
「神娘のことも気にしなくていい。その責は不肖の父が引き受けよう」
「お、父様……」
声がつまる。
かすれてしまう。
「無謀な夢を見るのは私だけでいいんだよ。セレスは、これからの人生をあの者たちと共に。幸せに過ごしなさい」
「……」
「どこにいても幸福を祈っているよ」
「……うっ、うぅ」
「泣かないでおくれ、私の可愛いセレス」
そんなの!
無理です!
「私の大切な宝物」
お父様が、わたしを抱きしめて?
お父様の腕の中……。
温かい。
「セレス」
「……」
「泣かなくていいんだよ」
うっ、うぅ……。
「けど、泣いてくれてありがとう」
声を出さないだけで精いっぱい。
涙は止まらない。
止まるわけがない。
「……」
「……」
「私は幸せものだな」
「……」
「セレスのような娘を持てて、本当に幸せだ」
幸せなのは、わたしの方です。
お父様の温かい腕に抱かれて、こんな気持ちをもらって。
「それなのに、これまでは神娘として扱ってばかりで……。心から申し訳ないと思っている」
お父様が謝ることじゃない。
神娘が神娘として扱われるのは当然なのだから。
「セレスは神娘である前に私の娘だ」
「……」
「そんな簡単なことも分からずに私は!」
「……」
「愚かな父を許しておくれ」
ああぁ……。
わたしこそ。
わたしの方こそ、もっと心を開くべきでした。
神娘として閉じこもらず、色々と話すべきでした。
そう思うのに、今も言葉が出てこない。
初めて抱く感情に、心が乱れるばかりで……。
「セレス、命より大切な我が娘」
「……」
「愛しているよ」
「っ! わたしも!」
「セレス」
「わたしも愛しています!」
言えた。
やっと口に出せた。
「ありがとう」
「お父様……」
嫌だ!
離れたくない。
この人を孤独にさせたくない!
お父様は、わたしのお父様。
この世にひとりだけのお父様。
こんなにわたしのことを思ってくれる父親は、お父様だけなんだから。
……。
……。
不思議。
こんなに悲しいのに?
どうして、こんなに嬉しいの?
お父様の愛情は知っていた。
どんな形であれ、確かに存在していると分かっていた。
それなのに、今どうしてこんな気持ちを?
っ!?
頭が痛い!?
でも、駄目。
今は知られちゃ駄目。
もう少しこのままでいたいから。
だから、顔に出ないように耐えないと。
目を瞑って我慢を。
「……」
「……」
温かい。
目を瞑ると余計に実感できる。
お父様の腕の中、ほんとに気持ちがいい。
頭は痛いけど。
朦朧とするけど。
そんなことより……。
……。
……。
わたし……。
わたしは……。
そう……。
わたしは、愛されたかった。
お父様とお母様に愛されたかった。
ふたりの愛情が欲しかった。
ただそれだけ。
わたしが欲しかったのはそれだけ。
それだけなのに……。
駄目だった。
愛してもらえなかった。
きっと、わたしがいけない子だったから。
出来の悪い娘だったから。
力を持っていないから。
だから、愛してくれない。
振り向いてくれない。
いつもひとり。
いつも……。
いつも……寂しかった。
……。
……。
……。
えっ!?
何?
今のは何?
この信じられないような絶望感は?
わたしは、お父様に愛されているのに!
「セレス、大丈夫かい?」
「お父様……」
そうよ。
わたしは、今も昔もお父様に愛されている。
こんなにも深く愛されている。
ずっともらい続けている。
お父様から。
欲しかったものを。
何より欲しかったものを!
ああ、光が溢れてくる!
「……」
駄目!
また涙が!
止まらない。





