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30年待たされた異世界転移  作者: 明之 想
第7章  南部編
305/701

第302話  異なる世界 1


<セレスティーヌ視点(姿は幸奈)>




 染みひとつない真白な壁に囲まれた清潔な病室。

 温度管理された快適な空間。

 柔らかで寝心地の良い寝具。

 信じられない性能をもった器具の数々。


 便利で安楽な生活……。


「……」


 幸奈さんの記憶は、私の中に確かに存在している。

 だから、生活するための知識に問題はない。

 支障などない。


 そう思っていたのに……。


 駄目。


 戸惑ってしまう。

 何をする時も。

 些細なことでも。


「……」


 ここは私の世界じゃない。

 私は幸奈さんじゃない。

 この世界で暮らす自信がない。


 ……帰りたい。



 コーキさんと離れ、病室に残された私。

 気づけば、私の心の中は弱音で埋め尽くされていた。


 泣き言ばかり。

 そんなことばかり、最初は考えていた。



 けど……。


 今は違う!


 幸奈さんの記憶が、自分のものとして定着して。

 色々と理解できるようになって。


 武志君に助けてもらって。

 カーンゴルムから一度戻って来たコーキさんと話をして。


 心も体も、少しずつこの世界に順応してきた。

 生活にも慣れてきたと思う。


 そして、何より。

 強い思いが私を動かしてくれる。

 震える心も怯える心もあるけれど、それでも打ち勝とうと今は思える。



「姉さん、本当に大丈夫?」


「……何のこと?」


「何って、3日後の退院だよ」


「それは、身体は大丈夫だから」


「身体が平気なのは僕も分かってるって。姉さんが目覚めてからは身体に異常はないみたいだからさ」


 幸奈さんと入れ替わったこの身体。

 当初は上手く動かせなかったけれど、今は何の問題もない。

 もちろん、健康そのものだ。


「心配なのは姉さんの頭だよ。記憶、完全には戻ってないんだろ?」


「……そうね」


 和見家に戻る日を少しでも遅らせるために、コーキさんと考えた作戦。

 それは記憶障害を装い入院を続けること。

 計画通り、私はこうして病室に残っている。


 ただ、実際のところ。

 私が受け継いだ記憶には曖昧な部分が多いのも事実。

 記憶障害も嘘ではない。


「3日後に退院するのに、記憶が不完全って」


「……」


 入院作戦も、あと3日。

 3日後には、帰ることになっている。


 あの父親が待つ和見家に。

 黒衣の女性、壬生さんが待ち受ける地下室に。


「っ!?」


 想像するだけで、吐き気と頭痛が!


 今はまだ僅かな症状ではあるけれど。

 和見家のことを考えるのを止めると、すぐに消えてしまう些細なものだけど。


 それでも、あの家を思い浮かべると……。


 私自身の思いを無視して身体が反応してしまう。

 おそらくは、幸奈さんが反応しているのだろう。


 この身体、この状態で和見家に。

 あの家に帰らなければならない。


「……」


 いいえ、違う。

 帰ってやるんだ。

 そして、幸奈さんの代わりに私が!



「ほんと、退院していいのか心配だよ」


「武志く……武志、ありがとう」


「ほら、今だっておかしな喋り方だったろ」


「……」


 これは、そういうことじゃないの。

 でも、本当のことは言えないから。


 武志君を騙すつもりはないんだけど……。

 ごめんなさい。


「まっ、口調くらい変でもいいけど。ケアもフォローも僕がするしさ」


「……うん、頼りにしてるわ」


「りょーかい」


 私が持っている幸奈さんの記憶の中には、彼女自身の話し方、仕草などはほとんど含まれていない。

 だから、手探りで彼女らしい振る舞いを探しながら毎日を過ごしてきた。

 人と話す時は相手の反応を見て、それらしい行動をとって……。



「ってことで、何でも言ってくれよな」


「ありがと」


 でも、武志君に対する話し方だけは身についたと思う。

 気を抜くと、すぐ失敗するけれど……。

 やっぱり、まだまだかな。



「……あんなこと」


 囁きにも満たない武志君の小さな声。

 私の耳は、そんな音も拾ってしまう。


「二度とごめんだから」


 二度と経験したくないというその気持ち。

 本当によく分かる。


 私もワディナートで……。


「……」


 大切な人を失う。

 失いそうになる。

 ましてや、自死なんて!


 そんな経験、二度と……。



 でもね、武志君。

 違うの。

 幸奈さんは自死を選んだわけじゃないの。


 あれは、突発的なもの。

 事故みたいなものなの。


「……」


 もちろん、これについては簡単に説明は済んでいる。

 武志君も知っているはず。


 ただ、詳しいことは話せていない。

 幸奈さんの思いに反して私が話すことは、できないから。

 私の気持ちだけじゃなく、物理的に口が動かなくなってしまうから。


 だから、武志君は納得していないのだと思う。



「とにかく、姉さんは何でも言ってくれたらいい。身体に異状を感じた時だけじゃないからな」


「うん……そうするね」


「ああ」


 少し安心したように頷く武志君。


「ごめんなさい、心配ばかりかけて」


「はぁ~。もういいって」


「……うん」


「でもさ、こんな時に兄さんはどこ行ってんだ? 姉さん、知ってる?」


「コーキさんは……」


「ん? コーキさん?」


「あっ! こ、こ、うき、だよね」


「……」


「……」


「やっぱり変だぞ、姉さん。特にあいつのことになるとさ」


 それは、だって!

 コーキさんのことを功己と呼ぶのは難しいし……。


「うーん……」


 だから武志君、そんな顔しないで。


「で、兄さんは何してんだよ?」


「……色々と忙しいみたい」


「姉さんの見舞いにも来れないほど?」


「……前は毎日来てくれたし」


「だからこそ、今の状況がおかしいんだろ! 姉さんは、そう思わないのか?」


「……ごめんなさい」


「あっ、違うって。姉さんを責めてるわけじゃないから」


「……」


「言葉がきつかったよな、ごめん」


「いいの。武志く……、武志が謝ることじゃないわ」


 コーキさんが見舞いに来ていないというのは事実。


 コーキさんに会えないと私も不安だし、寂しい。

 自分の気持ちに気付いた今は、なおさらそう感じてしまう。

 でも、それは仕方のないこと。


 コーキさんは、あちらの世界で頑張っているのだから。

 幸奈さんのため、私のために。

 この世界にいる私なんかよりずっと、ずっと!


 だから、今は。

 コーキさんの帰りを待つだけ。

 それまで、ここで頑張るだけ。

 私にできることを精一杯。


「……」


 コーキさん……。


 今はどこにいるのかな?

 ワディン街道?

 エビルズピーク?

 テポレン山?

 それとも、ワディナートに着いてるの?


 幸奈さんには会えた?

 幸奈さん、神娘として過ごせてるのかな?


 みんなは無事?

 お父様は?

 シア、アル、ディアナ、ユーフィリアは?

 ヴァーンさんは?

 ワディンのみんなは?



「とりあえず、あと3日は入院が続くんだからさ。退院までゆっくり静養してくれよな」


「……うん」





**********************





 荒涼とした鉄錆色の大地。

 生温かく濁った赤銅色の空。

 現実の世界とは思えない、不気味な赤に覆われた空間。


 そこに存在するのは、剣姫と俺、それに魔物たちの死骸だけ。

 エビルズピークの悪意という、わけの分からない怪物の姿は見えない。



「転送されたのか?」


「そうかもしれません」


「しかし、空も地も赤とはな」


「……」


「このような奇妙な地など、聞いたこともない」


「キュベリッツ王国内ではないのでしょうか?」


「キュベリッツでもレザンジュでもない。いや、エストラルに存在するのかも怪しいものだ」


「異なる大陸だと?」


「分からぬ。そもそも、ここは人の暮らす世界なのか?」


 それについては、俺も疑問に思っていたところだ。


「……」


 人外の地といえば、トトメリウス様の神域、魔落。

 この赤の世界、魔落とは雰囲気は異なるものの、どこか似ている気もする。


「考えても無駄であろうな」


 確かに。

 ここで長考しても正解を導き出せるわけがない。


「それよりだ。あの竜のごとき化け物を退治るか? それとも、この地からの脱出を図るか?」


「退治するにしても、相手がいませんよ」


「その内に姿を現すだろ」


「私たちを遠隔地に転送しただけなら、もう姿を現さない可能性もありますが」


「……」


「とりあえず、この地を調べてみませんか?」


「うむ。あいつが現れるまで、探索するのも悪くない」




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