第302話 異なる世界 1
<セレスティーヌ視点(姿は幸奈)>
染みひとつない真白な壁に囲まれた清潔な病室。
温度管理された快適な空間。
柔らかで寝心地の良い寝具。
信じられない性能をもった器具の数々。
便利で安楽な生活……。
「……」
幸奈さんの記憶は、私の中に確かに存在している。
だから、生活するための知識に問題はない。
支障などない。
そう思っていたのに……。
駄目。
戸惑ってしまう。
何をする時も。
些細なことでも。
「……」
ここは私の世界じゃない。
私は幸奈さんじゃない。
この世界で暮らす自信がない。
……帰りたい。
コーキさんと離れ、病室に残された私。
気づけば、私の心の中は弱音で埋め尽くされていた。
泣き言ばかり。
そんなことばかり、最初は考えていた。
けど……。
今は違う!
幸奈さんの記憶が、自分のものとして定着して。
色々と理解できるようになって。
武志君に助けてもらって。
カーンゴルムから一度戻って来たコーキさんと話をして。
心も体も、少しずつこの世界に順応してきた。
生活にも慣れてきたと思う。
そして、何より。
強い思いが私を動かしてくれる。
震える心も怯える心もあるけれど、それでも打ち勝とうと今は思える。
「姉さん、本当に大丈夫?」
「……何のこと?」
「何って、3日後の退院だよ」
「それは、身体は大丈夫だから」
「身体が平気なのは僕も分かってるって。姉さんが目覚めてからは身体に異常はないみたいだからさ」
幸奈さんと入れ替わったこの身体。
当初は上手く動かせなかったけれど、今は何の問題もない。
もちろん、健康そのものだ。
「心配なのは姉さんの頭だよ。記憶、完全には戻ってないんだろ?」
「……そうね」
和見家に戻る日を少しでも遅らせるために、コーキさんと考えた作戦。
それは記憶障害を装い入院を続けること。
計画通り、私はこうして病室に残っている。
ただ、実際のところ。
私が受け継いだ記憶には曖昧な部分が多いのも事実。
記憶障害も嘘ではない。
「3日後に退院するのに、記憶が不完全って」
「……」
入院作戦も、あと3日。
3日後には、帰ることになっている。
あの父親が待つ和見家に。
黒衣の女性、壬生さんが待ち受ける地下室に。
「っ!?」
想像するだけで、吐き気と頭痛が!
今はまだ僅かな症状ではあるけれど。
和見家のことを考えるのを止めると、すぐに消えてしまう些細なものだけど。
それでも、あの家を思い浮かべると……。
私自身の思いを無視して身体が反応してしまう。
おそらくは、幸奈さんが反応しているのだろう。
この身体、この状態で和見家に。
あの家に帰らなければならない。
「……」
いいえ、違う。
帰ってやるんだ。
そして、幸奈さんの代わりに私が!
「ほんと、退院していいのか心配だよ」
「武志く……武志、ありがとう」
「ほら、今だっておかしな喋り方だったろ」
「……」
これは、そういうことじゃないの。
でも、本当のことは言えないから。
武志君を騙すつもりはないんだけど……。
ごめんなさい。
「まっ、口調くらい変でもいいけど。ケアもフォローも僕がするしさ」
「……うん、頼りにしてるわ」
「りょーかい」
私が持っている幸奈さんの記憶の中には、彼女自身の話し方、仕草などはほとんど含まれていない。
だから、手探りで彼女らしい振る舞いを探しながら毎日を過ごしてきた。
人と話す時は相手の反応を見て、それらしい行動をとって……。
「ってことで、何でも言ってくれよな」
「ありがと」
でも、武志君に対する話し方だけは身についたと思う。
気を抜くと、すぐ失敗するけれど……。
やっぱり、まだまだかな。
「……あんなこと」
囁きにも満たない武志君の小さな声。
私の耳は、そんな音も拾ってしまう。
「二度とごめんだから」
二度と経験したくないというその気持ち。
本当によく分かる。
私もワディナートで……。
「……」
大切な人を失う。
失いそうになる。
ましてや、自死なんて!
そんな経験、二度と……。
でもね、武志君。
違うの。
幸奈さんは自死を選んだわけじゃないの。
あれは、突発的なもの。
事故みたいなものなの。
「……」
もちろん、これについては簡単に説明は済んでいる。
武志君も知っているはず。
ただ、詳しいことは話せていない。
幸奈さんの思いに反して私が話すことは、できないから。
私の気持ちだけじゃなく、物理的に口が動かなくなってしまうから。
だから、武志君は納得していないのだと思う。
「とにかく、姉さんは何でも言ってくれたらいい。身体に異状を感じた時だけじゃないからな」
「うん……そうするね」
「ああ」
少し安心したように頷く武志君。
「ごめんなさい、心配ばかりかけて」
「はぁ~。もういいって」
「……うん」
「でもさ、こんな時に兄さんはどこ行ってんだ? 姉さん、知ってる?」
「コーキさんは……」
「ん? コーキさん?」
「あっ! こ、こ、うき、だよね」
「……」
「……」
「やっぱり変だぞ、姉さん。特にあいつのことになるとさ」
それは、だって!
コーキさんのことを功己と呼ぶのは難しいし……。
「うーん……」
だから武志君、そんな顔しないで。
「で、兄さんは何してんだよ?」
「……色々と忙しいみたい」
「姉さんの見舞いにも来れないほど?」
「……前は毎日来てくれたし」
「だからこそ、今の状況がおかしいんだろ! 姉さんは、そう思わないのか?」
「……ごめんなさい」
「あっ、違うって。姉さんを責めてるわけじゃないから」
「……」
「言葉がきつかったよな、ごめん」
「いいの。武志く……、武志が謝ることじゃないわ」
コーキさんが見舞いに来ていないというのは事実。
コーキさんに会えないと私も不安だし、寂しい。
自分の気持ちに気付いた今は、なおさらそう感じてしまう。
でも、それは仕方のないこと。
コーキさんは、あちらの世界で頑張っているのだから。
幸奈さんのため、私のために。
この世界にいる私なんかよりずっと、ずっと!
だから、今は。
コーキさんの帰りを待つだけ。
それまで、ここで頑張るだけ。
私にできることを精一杯。
「……」
コーキさん……。
今はどこにいるのかな?
ワディン街道?
エビルズピーク?
テポレン山?
それとも、ワディナートに着いてるの?
幸奈さんには会えた?
幸奈さん、神娘として過ごせてるのかな?
みんなは無事?
お父様は?
シア、アル、ディアナ、ユーフィリアは?
ヴァーンさんは?
ワディンのみんなは?
「とりあえず、あと3日は入院が続くんだからさ。退院までゆっくり静養してくれよな」
「……うん」
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荒涼とした鉄錆色の大地。
生温かく濁った赤銅色の空。
現実の世界とは思えない、不気味な赤に覆われた空間。
そこに存在するのは、剣姫と俺、それに魔物たちの死骸だけ。
エビルズピークの悪意という、わけの分からない怪物の姿は見えない。
「転送されたのか?」
「そうかもしれません」
「しかし、空も地も赤とはな」
「……」
「このような奇妙な地など、聞いたこともない」
「キュベリッツ王国内ではないのでしょうか?」
「キュベリッツでもレザンジュでもない。いや、エストラルに存在するのかも怪しいものだ」
「異なる大陸だと?」
「分からぬ。そもそも、ここは人の暮らす世界なのか?」
それについては、俺も疑問に思っていたところだ。
「……」
人外の地といえば、トトメリウス様の神域、魔落。
この赤の世界、魔落とは雰囲気は異なるものの、どこか似ている気もする。
「考えても無駄であろうな」
確かに。
ここで長考しても正解を導き出せるわけがない。
「それよりだ。あの竜のごとき化け物を退治るか? それとも、この地からの脱出を図るか?」
「退治するにしても、相手がいませんよ」
「その内に姿を現すだろ」
「私たちを遠隔地に転送しただけなら、もう姿を現さない可能性もありますが」
「……」
「とりあえず、この地を調べてみませんか?」
「うむ。あいつが現れるまで、探索するのも悪くない」





