第199話 和見幸奈 7
<???視点>
『今日は危なかったな』
『……』
『一歩間違えば、獲物を奪われるところだったぞ』
『……』
『ん? どうした? 何か問題でもあるのか?』
『……特に何もない』
『何もない、という様子ではないが? まさか、気持ちが揺らいだのではなかろうな?』
『……揺らぐわけがない』
いつもと同じ部屋。
いつもと同じ空気。
いつもと同じ思い。
あの時から抱き続ける思いが、簡単に揺らぐわけがない。
ただ、少し気になることがあっただけ。
それに……。
『ならば、良いが』
夏の薄暮の薄闇が、感傷的にさせているだけだ。
『ゆめ、忘れるでないぞ、我らの宿願を』
『……忘れはしない、決して』
『ふむ』
『……今回も何も問題などなかった』
『……』
『仮に奪われても取り返せばいいだけのこと。命さえあれば、何とでもなる』
『奪い返す力があるのか? 我の力はまだ十全ではないぞ』
『ひとりでも問題ない』
『で、あるか』
お前の力がなくても、それくらいは可能。
できるはずだ。
ただ、今は……。
黄昏という時間が、この夕闇が、心をザラつかせてくる。
あの時と同じ夕闇が……。
*************
<和見幸奈視点>
珈紅茶館で功己と一緒に過ごした時間。
あの時が、わたしの最も幸せな時間だったのかもしれない。
心からそう思う。
あんな幸せな時間……。
少し前までは想像もできなかった。
本当に嬉しくて、楽しくて、幸せで。
今でも信じられないくらい。
……。
これ以上の幸せがわたしに訪れることはあるの?
ないんじゃないかな。
そう思ってしまう。
そう思っていたのに……。
数日後、また幸せがやって来た。
功己と一緒に行ったイタリア料理のランチ。
とっても幸せだった。
家の問題が日々深刻になり、夜に出かけるのは無理になってしまったのだけど、それならと功己がランチに誘ってくれたあの日。
功己がわたしを気遣ってくれる。
優しい目で見つめてくれる。
その気持ちが、何より嬉しい。
嬉しすぎる。
でも……。
これまでのわたしへの態度とは、あまりにも違う。
少し冷静になって考えてみると、功己のこの変化は普通じゃない。
いったい何があったの?
理由を聞きたくなる。
けど、聞いてしまうと今の幸せな時間が消えてしまいそうで……。
やっぱり、聞けないまま。
……。
……。
功己との幸せな時間の後には現実が待っている。
功己と違い、悪い方向に変わってしまった武志。
今のわたしに何ができるのだろう?
武志と話をする?
もちろん、話し合いたいと思っているけど……。
武志はほとんど家にいないし、家にいる時も自分の部屋に籠ってばかり。
ようやく話せたと思ったら、返答は簡単に一言二言だけ。
「大丈夫」
「姉さんは心配しなくていいから」
「もう少し待って」
そんなことを言って、少し笑顔を見せるだけ。
そう、わたしには笑顔を見せてくれるのだ。
父と母には決して見せないのに。
……。
……。
親の言うことを聞かず怪しい交友を続け、外泊を続ける武志。
一般的に不良行為と呼ばれるような行動をしているとは全く思えない武志の儚い笑顔。
その笑顔を見せられると、いつもわたしは言葉に詰まってしまう。
おかげで、大したことも話せない。
駄目だな。
ほんと、私は……。
そんな状態の武志と和見家。
それでも、まだ武志が家に戻ってきている時は良かった。
気が向いた時だけでも、家に戻ってくれれば。
なのに……。
ここ数日は家に全く顔を出していない。
明らかに今までと違う。
一応電話で連絡だけはあるから、無事ではいるのだろうけど……。
武志が戻らない日が続くにつれて、父と母の様子が明らかに変わってきた。
母の情緒も不安定に……。
「武志が家に戻らないのは、あなたのせいよ。あなたがいなければ!」
「そもそも、あなたが和見家に来なければ、こんな事態にはなっていなかったはずよ!」
「顔も見たくない!」
母の辛辣な言葉には慣れているつもりだった。
けど、武志のいないこの状況での言葉は。
どうしても、刺さってしまう。
やっぱり、痛い。
……。
……。
家の雰囲気も日増しに陰鬱なものになってきた。
家事を手伝ってくれる皆さんの表情も硬い。
いつも以上に父と母の機嫌を窺っているように見える。
とても健全な状況とは思えない。
父は……。
この状況になっても外面は平静なまま。
冷静を装っている。
ただ、お酒が入ると。
「お前が異能を持っていれば……」
「お前の実母は異能こそ所持していなかったが、その片鱗は見せていた。なのに、お前は……」
「何のために引き取ったんだか……」
ここ数年はわたしに対して無関心だった父が、そんな言葉を口にするようになっていた。
……。
……。
家にいない武志。
母のわたしを見るあの目。
父の重いため息。
全てが……。
全てが、わたしに……。
沈んでしまいそうになる。
どこまでも暗い闇の中に。
それでも、まだましだった。
今は、心からそう思える。
だって……。
また呼ばれてしまったから。
あの仄暗い地下室に。
浴槽のある地下室に。
……。
……。
断ればいい。
もう20歳なんだから、断ることもできるはず。
それどころか、和見家を出ることだって。
そう……。
そんなこと。
頭では分かっている。
でも、父を前にすると何も言えない。
逆らえない。
頷くことしか……。
拒否できない。
家から出れない。
どうして?
洗脳でもされているのかな?
だから、何もできないのかな?
わたし……。
あの地下室。
行きたくない。
もう二度とあんな経験をしたくない。
考えただけで、ぞっとする。
身体が震えてくる。
……。
……。
あの日。
父から、近い内に再開すると告げられた日。
どうしても家にいることができなくて、外に出てしまった。
そのまま、あてもなく歩き続け。
気付けば、駅前に……。
そこにいたのは功己。
ベンチに座っていた功己が、わたしをカフェに誘ってくれた。
それだけで、気持ちが変わる。
鬱々としていた心が軽くなる。
今のこの時間、この時だけは全てを忘れたい。
だから……。
母に頼まれた用事で外出していたなんていう嘘をついてしまった。
演技じゃない、ただの噓を。
功己の前で、そんな嘘が。
簡単に口からこぼれてしまった。
……。
……。
でも、それでも。
やっぱり、功己との時間は楽しかった。
素敵なカフェだったから?
美味しいタルトを食べたから?
違う。
功己が傍にいてくれたからだ。
優しい想いに触れることができたからだ。
温かく幸せな時間……。
嫌なことを忘れさせてくれる時間だった。
この時間がずっと続けばいい。
ずっと一緒にいたい。
そう思っているのに、なぜか身体が家に向かってしまう。
家に戻らないといけない。
その思いに縛られてしまう。
戻る……。
和見家に。
あのおぞましい地下室に……。
もし……。
もし、功己に助けを求めたら?
今の功己なら、助けてくれるかな?
でも。
口が動かない。
話せない。
話したく、ない?
わたしのちっぽけなプライド?
それとも、こんなわたしを知られたくないから?
分からない。
自分でも分からない。
何も分からない。
自分のことも……。
……。
……。
わたし、おかしいのかな?
狂ってるのかな?
ああ……。
どうしたらいいの?
第4章 完





