第176話 和見幸奈 2
<和見幸奈視点>
武志なんか嫌い。
武志さえいなければ、わたしだって愛してもらえる。
父からも母からも愛してもらえるのに。
そう考えたのも一度や二度のことじゃない。
幻想にすぎないその望みを、折に触れ抱いていたと思う。
ただ武志は……。
成長するにつれて態度は変わっていき、中学に入る頃にはわたしに対し我儘な言動をとることはなくなっていた。
それどころか、わたしのことを気遣い優しい言葉をかけてくれるまでになっていた。
「姉ちゃん、大丈夫?」
「辛いことがあったら、何でも言ってくれよ」
思春期特有のものなのか、態度は素っ気ないことが多かったけれど、それでも落ち込んでいるわたしを見つけては声をかけてくれたものだ。
幼少期と比べ豹変したその言動に初めの頃は信じられない気持ちで一杯だったわたしも、数カ月も経つと武志の優しさを素直に受け入れるようになり……。
心の中では、頼みにさえするようになっていった。
もちろん、それは精神的なものであって、実際に頼ることはなかったけれど。
「……」
冷たい和見家の中にあって、わたしにとっての武志の存在がどれほど大きいものだったか。
拠り所になっていたか。
今になって、本当に良く分かる。
武志が家に戻って来なくなった今になって……。
こうして今のわたしがわたしとして存在できるのは。
もちろん、経済的には父の力によるものだ。
その点では、感謝もしている。
でも、心は違う。
わたしの心は、精神は、わたしの内面は……。
武志と、そして、幼馴染である功己。
わたしとして存在できるのは、ふたりのおかげ。
特に、功己の……。
もし武志と功己がいなかったら、わたしは?
わたしは、こうして生きていられたのだろうか?
到底、そうは思えない。
もうこの世にいなかったかもしれない。
わたしの大切な幼馴染。
有馬功己。
その名前を口にするだけで……。
功己。
功己……。
……。
……。
功己が少しずつ私から離れて行った時。
本当に悲しかった。
辛くて苦しくて、心が痛くて。
自分の存在に耐えきれないとさえ思った。
だけど、功己は私から完全に離れることはなかった。
子供の頃のように、いつも一緒にいることはなくなったけれど、距離はできてしまったけれど、それでも私のことを気遣ってはくれる。
そう感じることができたから。
だから、まだ……。
中学3年生の時。
功己と一緒に行った梅園。
嬉しかったな。
嬉しくて、嬉しくて、幸せで。
どうにかなってしまいそうだった。
「……」
功己と長時間一緒にいられる。
ふたりだけで過ごせる。
そんな時間は久しぶりだったから。
それだけで、わたしは幸せだった。
なのに、梅園に。
わたしがずっと観たかった梅を一緒に……。
「……」
功己はわたしとの約束を覚えていてくれた。
梅を観に行くという約束を。
それが、どんなに嬉しかったか!
どんなに幸せだったか!
泣きたくなるほどの想い。
今も鮮明に覚えている。
功己のかけてくれた言葉。
優しい言葉。
愛しい仕草。
忘れることなんてできない。
できるわけがない。
「……」
何があっても、この想いはわたしの中にあり続けるだろう。
ずっと、ずっと。
もし、わたしが消えることがあっても、この想いだけは。
だからね。
功己。
わたしは、あなたを信じることができる。
あなたが離れてしまっても、わたしは信じることができる。
あの時の想いとともに功己のことを、いつまでもずっと。
「……」
今も引き出しの中にしまってある一本の枝。
もう梅の花は残っていない……。
でも、この枝を手に取れば。
すぐ、あの時間に。
功己と一緒に過ごしたあの時に戻ることができる。
功己がわたしにくれた梅の枝。
あの時は折っちゃ駄目って言ったけど。
本当はすごく嬉しかったんだ。
嬉し過ぎて、涙が出そうになったんだよ。
我慢するのが大変だったんだよ。
知らなかったでしょ。
功己は何も分かってないんだから。
「……」
儚く美しい梅の枝。
手に取って、こうして見ているだけで。
わたしの心は……。
……。
……。
……。
ねえ、約束したよね。
また一緒に梅を観に来るって。
必ず一緒に来ようって。
約束忘れてないよね。
功己、あれから一緒に梅の花を観てないんだよ。
忙しいのは知っているけど……。
でも、忘れてないよね?
だったら、来年こそは必ず……。
……。
……。
あの時。
わたしのために梅を観に連れて行ってくれた功己。
桜の方が好きな功己。
梅の花が好きなわたしを功己は不思議そうに見つめていたよね。
桜は嫌いなのかって聞いたよね。
わたし、ほんとは桜も嫌いじゃないんだ。
でもね、功己。
知ってる?
梅の花言葉にはね、「忍ぶ心」ってあるんだよ。
そんな功己が最近変わった。
子供の頃のように、わたしに親しく接してくれるようになった。
何が起こったのか分からない。
でも、でも、こんなこと!
信じられない。
頑張って良かった。
生きていて、良かった。
そう思っていたのに……。
なのに、今度は武志が!
武志……。
可愛かった武志。
嫌いだった武志。
優しかった武志。
「……」
今辛い思いをしているのは、わたしだけじゃない。
父も母も同じ。
母は見るからに元気をなくしている。
わたしに対する態度はいつも以上に酷いものがあるけれど、母が憔悴しているのは明らかだ。
父は平気な顔をしている。
でも、実際は大変な心労を抱えているのだろう。
わたしに対する言動が日増しにきつくなっているのを見ても、それは確かなことだと思う。
今まではまるでそこに存在しないかのように、わたしに対しては無関心だったのに。
「……」
武志のいない和見家。
父と母のそんな状態にずっと耐えていたけれど、わたしの身体も心も悲鳴を上げ始めているのが分かる。
頭では理解できることを、身体が拒絶し始めているのだ。
こんな状況で、わたしは……。
どうしたらいいのか分からない。
けど、武志がいなくなった理由がわたしにあるのだとしたら……。
もう何もかも投げ出してしまいたい、ついそう思ってしまう。
この家が嫌だ。
わたし自身も嫌いだ。
父と母が変わったあの頃から、ずっと自分が嫌いだった。
自分がこんな娘だから愛されないのだと思って、何度も何度もわたしは……。
「……」
異能のことを知って、真実を知って、考えが少し変わったけれど、それでもわたしの中には根強く自己否定が残ったまま。
それが不健全なことだと、頭では理解しているけれど……。
どうにもならないくらい深く心に刺さっている。
自分で取り除くことなんてできないほど。
「……」
そんな思いを消し去ってくれるのが功己。
功己と会っている時だけ、そんな自分から解放される。
でも、今は……。
そんなことばかり考えていたからだろう。
久しぶりに昔の夢を見た。
今はもう分かっていることなのに、それでも辛い夢。
『姉なのだから武志にあげなさい。冷たい子ね』
いたい!
痛いの!
『本当、どうしようもない娘だわ』
もうやめて!
そんな目でわたしを見ないで!
これは武志にあげるから。
優しい子になるから。
だから、わたしのことを嫌わないで。
『和見の血さえ継いでいなければ、こんな娘……』
ああ、お母様……。
わたしを見捨てないで。
長い間聞くことのなかった言葉がわたしの胸に爪を立ててくる。
もうとっくに諦めていたはずなのに、涙が溢れ出てきてしまう。
「ううぅ……」
夢から覚めた後もしばらくは、起き上がることができなかった。
ほんの少しうたた寝をしただけだというのに、とても身体が重い。
とはいえ、いつまでもこうしてはいられない。
もうすぐ夕食だ。
その時間に食卓に着いていないと、何を言われるか分からない。
涙の痕を洗面所で洗い流していると、玄関のチャイムが鳴った。
誰?
急いで確認したモニターの中、そこに映っていた訪問者は……功己!
どうしたのかしら?
昨日会ったのに?
昨夜カレーを作ってあげたばかりなのに……。
・梅の話は第4話です。
・功己の訪問は第153話の翌日、第170話の話になります。
・各人の異能認識について、少し整理しておきます。
和見父
幸奈の異能知識を認識 武志の異能知識を認識せず、異能を持つことも認識せず
和見幸奈
武志の異能知識を認識せず、異能を持つことも認識せず 父の異能知識は認識
和見武志
幸奈、父の異能知識を認識せず
功己
武志が異能を持つことのみ認識





