第142話 どうして…… ※
「では、コーキさん、参りましょうか」
「ご随意のままに」
「ふふふ、行きましょう」
差し出した俺の右手を取るセレス様。
さっきまで残っていた疲労は鳴りを潜め、夕日に照らされたその瞳には柔らかい笑みが浮かんでいる。
「シアとアルに会うのが楽しみです」
「ふたりとも、きっと喜びますよ」
「私はもう喜んでいますよ」
「はは、そうですね」
「はい!」
新雪を思わせる頬にさした朱が輝きを放ち、揺れる豊かな銀糸は周りの空気さえ弛緩させてしまう。
それでいて、立ち姿は気品に満ち溢れたもの。
美しいという言葉なんかで表せるものじゃないな。
「……」
「オルドウの街も楽しみです」
「いい街ですからね。気に入ると思いますよ」
「コーキさん、その……」
「何でしょう?」
「オルドウの街を、一緒に歩いてもらえますか?」
「もちろん。私でよければ喜んで」
「約束ですよ」
「ええ、約束です」
「ふふ、嬉しいです」
良かった。
こんな表情を見せてくれるようになって、本当に。
心からそう思える。
「では、みんなのもとに参りましょう」
「はい」
ふたりで一歩を踏み出す。
二歩、三歩……。
みんなは、すぐそこにいる。
シアとアルの笑顔が待っている。
ヴァーンとギリオンも喜んで迎えてくれるだろう。
セレス様もオルドウに馴染めるはず。
そして、新たな生活を始めるんだ。
ワディンの神娘としてのセレス様でも、ただのセレス様でもいい。
ゆっくり考えればいい。
セレス様が選ぶんだ。
新しい生活、新しい人生を。
さあ、もうすぐだぞ。
と……。
「っ!?」
どうした?
「セレス様?」
さっきまで笑顔だったセレス様が足を止め。
その場に蹲ってしまった。
「コ、コーキさん……」
「どうしました?」
疲れたのか?
「っ! ゴホッ」
何だ?
急に何が?
「く、苦しい……」
苦しいだって?
「どこが苦しいんです?」
「ゴホッ!」
また、咳だ。
「セレス様、大丈夫ですか?」
「ゴホ、ゴホッ」
咳がひどい。
いったい、どうしたんだ?
「コーキさん、ゴホッ!」
「セレス様?」
「む、胸が……」
その言葉が終わらぬうちに。
「ゴホォッ!!」
口から……!?
えっ!
何だよ、それ?
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホゥ!」
セレス様の白い口元には赤。
鮮やかな赤!?
赤?
「苦しい……」
大量の血!?
喀血!?
その事実を前に俺は、俺は……。
「コーキ、さ……苦し、い」
セレス様、倒れて!
まずい!
呆けている場合じゃない。
「ゴホォ!!」
セレス様を抱え。
俺の膝に頭をのせて、気道を確保。
「セレス様、待ってください。今治癒魔法を使いますから!」
急げ!
すぐだ、今すぐだ!
「ゴホッ、ゴホッ」
溢れ出る大量の喀血に手が震える。足が震える。
急いで治癒魔法を発動しようとするが、ままならない。
でも、なんとか。
「セレス様、治癒魔法です。これで、楽になります! 楽になりますから!」
「コ……キ、さん」
「セレス様!」
「はぁ、はぁ……くるし……」
「大丈夫です、頑張って!」
「ん、ん」
「もうすぐ効きますからね、セレス様!」
頼む!
効いてくれ!
頼む!
「あり、がと」
「大丈夫、大丈夫ですよ!」
「ゴホッ、ゴホッ……く、るしい」
「セレス様、セレス様!」
「ゴホッ」
「治癒魔法使ってますから。大丈夫ですから!」
効いてくれよ!
「……ゴホゥ!」
「セレス様!」
「い、きが……」
息が!
そんな!
「くる、し……」
「っ! 治癒魔法が効きます!」
「ゴホッ!」
「もうすぐ効きますから!」
「ゴホッ……」
「セレス様!」
「……」
目が虚ろに!
「ゴホッ、ゴホゥ!!」
地面が真っ赤に!
まずい、まずい!
「コー……さん、もう……」
「セレス様!?」
「……だめ、か、も」
「な、何を言ってるんですか! 大丈夫ですから!」
治癒魔法を使い続ける。
全力で!
全魔力で!
「……あ、りがと……」
「セレス様!?」
「ゴホッ、ゴホッ!」
「セレス様、セレス!」
「オルド……いきた……」
「行きましょう、オルドウに!」
「いっしょ……あるき、た、かっ」
「歩けますよ。一緒に歩くんですよ!」
治癒魔法、俺の魔力全てやるから、何とかしてくれ!
「……う、れし、い」
何とかしてくれよ!
誰か、何か!!
「はあ、はあ……」
「セレス!」
「たのし、み……」
何だよ。
何だよ、その笑顔は。
「セレス!」
神様!
トトメリウス様!
見てますよね。
見てるんだろ!
何とかしてくれよ!
「ゴホゥッ!!」
真っ赤に!
真っ赤に!!
「セレス!!」
何とかしろ。
助けてくれよ。
加護だってあるんだろ。
何とか!
「ゴボッ……」
くそっ!
「一緒に行こう。ほら、そこがオルドウだから。なぁ、セレス!」
「う、ん……」
「新しい人生が待ってるんだ!」
「……ん……」
「セレス!」
駄目だ。
いやだ。
やめてくれ!
「……」
お願いだ!
こんなこと。
こんなこと!!
「泣か、な……」
セレスの美しい指が俺の顔に伸び。
頬に触れ。
「……ない、で……」
頬に触れ。
頬に触れ。
そして……。
……。
……。
地に……落ちた。
……。
……。
「セレス?」
「……」
「セレス??」
「……」
「セレス、セレス!!」
「……」
「やめてくれ!」
「……」
「冗談はやめてくれよ!」
「……」
「そんな、セレス! 嘘だろ? 嘘だよな?」
「……」
「目を開けてくれ!」
「……」
「笑ってくれよ!!」
「……」
「嘘だ……」
「……」
「嘘だぁぁ!!!」
「……」
「セレス……」
「……」
「ここまで来ただろ……」
「……」
「ふたりで、ここまで……」
「……」
「どうして……」
「……」
「どうしてぇぇ!!!」
「……」
「……」
「……」
「ああぁぁ……」
「……」
「ああぁぁぁぁ!!!」
「ああっ、ああっ!」
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「……」
「ぁぁぁぁぁ……」
「……」
「……」
「……」
……。
……。
……。
……。
……。
ただ。
ただ……。
セレスは眼を閉じたまま。
……。
……。
……。
もう……。
その美しい瞳を見せてくれることはなかった。
第3章 完





