第110話 魔落 1
テポレン山を挟んでオルドウとは反対の東側に位置するワディン辺境伯領。
その地の領主であり、レザンジュ王国の大貴族でもあるワディン家が王国から離反するのではないかという噂がここ数年にわたって巷間を賑わしていたらしい。
しかし、それはあくまでも疑いに過ぎず、そのような事実は存在しないというのが世間一般の意見でもあった。
ワディン家の令嬢であるセレスティーヌ様の知る限りでも、そのような噂は事実無根。
世間も辺境伯家も、そして王家ですら、軽視していた噂であったとのことだ。
しかし、そんな噂が流れて数年。
今年になって王家から不穏な話が流れ始め、先日ついにレザンジュ王軍がワディン領に侵攻してきたというのだ。
事ここに至り、全ては王家の陰謀だったと。
数年にわたり計画を練り、実行に移したのだと。
そう理解したワディン家だったが、全ては遅きに失した。
状況は悪化をたどるばかり。
王軍の侵攻は苛烈を極め、ワディン領都にまで迫る勢いだったらしい。
そこで、ワディン家領主は王軍の包囲をかいくぐってセレスティーヌ様をオルドウに落ち延びさせるべく、テポレン山越えを決行させたということだ。
もちろん、選りすぐりの騎士たちを同行させていたのだが、レザンジュ王軍の追手から彼女を逃がすため、またテポレン山の魔物から彼女を護るため、1人また1人と騎士たちは命を落としていき、俺と出会う直前には遂にひとりきりになってしまったらしい。
……。
何とも重い話だ。
封建的な国家では、そう珍しくもない話なのかもしれないが。
こうして当事者を目の前にしていると、気楽に考えることなどできるはずもない。
しかし……。
以前からオルドウでも噂になっていたワディン領の話は、この事だったんだな。
レザンジュ王国やワディン辺境伯領などと耳にしても、まったく関係のない俺にとっては遠い世界の話だと思い気にもしていなかった。
まさか、こうして関わり合いになるとは思いもしなかったな。
ワディン辺境伯家の御令嬢セレスティーヌ様と……。
よくぞ、ここまで無事に。
……。
これで、幸運なわけないか。
年齢は聞いていないが、おそらくはシアと同年代。
16歳から18歳くらいだろう。
そんな若い女性が、しかも貴族のお姫様がこんな過酷な運命になぁ……。
それでも、気丈な態度を崩さなかった。
しっかりと自分の足で歩もうとしていた。
俺の抱いていた貴族のイメージとは少し違うようだわ。
「……」
まあ、あれだ。
シアとアルのもとへ届けるという今回の依頼は当然のことながら。
できることなら、色々と力になってやりたいものだな。
いつの間にか、そう思うようになっていた。
俺の傍らで横になっているセレスティーヌ様。
もうしばらくは様子を見ることにして、まずは幾つか確認しておきたい。
幸いなことに、剣をはじめとした俺の所持品は無事だ。
それらを庇うように落下したからだろうが、それでも幸運であることには違いない。
というか、すべて無事だなんて奇跡みたいなもんだ。
これは、本当に助かった。
ここから脱出するまで、どれくらいの時間が必要か分からない。
手持ちの品があると無いでは大きな差があるからな。
それでと……。
今俺たちがいるこの場所だが。
落下したという状況は同じものの、さっきの崖下とは全く違うな。
あの崖下なら手段さえ選ばなければどうとでもなると思っていたが、この場所では……。
周りを見渡してみる。
どこから光が差しているのかは不明ながら、視界が確保できるくらいの薄明りはある。
エンノア同様のヒカリゴケ的なものでも生えているのかもしれないな。
地面はテポレン山と同じ質の砂地のようだ。
そして、この上方というか周りは植物で覆われている。
その植物は木と呼んで良いのかどうか?
幹の長さは3メートルから5メートルで木のような形。枝に似たようなものも四方八方に生えている。それが枝というより、草のように見えるんだよな。ちなみに、花も実も全く存在していない。
そんな植物が周りに無数に茂っている。
おそらく10メートル四方は密集しているんじゃないだろうか。
この植物密集地帯を抜け、外にも少し出てみたが……。
薄明りの中に、荒涼とした地面が広がっているのが見えるだけだった。
上方には俺たちの落下した起点があるはずだが、見上げても全く見当がつかない。
目に入るのは、ただただどこまでも上方に続く空間だけ。
分かってはいたことだが、この地中はかなり深い、そして広い空間のようだ。
テポレン山の地中にある謎の空間。
……。
そうだ。
聞き覚えがあるぞ。
ここがフォルディさんの話していた魔落なのだろうか?
そうだとしたら、強い瘴気を感じるはずなのだが。
そういったものは全く感じない、こともないのか?
「……」
これは、そうか。
ダブルヘッドに感じたものに似ているのか。
これがフォルディさんの言うところの瘴気?
今の俺にとっては瘴気という感じはしないんだけど、そうなのかもしれない。
だとしたら、やはりここは魔落なのか。
魔落に棲むという強力な魔物の姿は全く見えないけれど。
ただの地下空洞に過ぎないという可能性も……。
「分かるわけもないか」
思わず、ひとりごちてしまう。
まっ、今はそこを考えても無駄だな。
とりあえず、密集植物の外を一通り眺めたところで。
セレスティーヌ様を長い間ひとりにする訳にはいかない。
さっきの場所に戻ることにしよう。
密集した植物の中を通り、セレスティーヌ様の傍らに戻る。
あらためて周囲の植物に目をやってみる。
一部に折れたり曲がったりしている箇所が見られるな。
こんな深い地中まで落ちて無事だったのは、この植物が落下の衝撃を和らげてくれたから。
少なくとも、今こうして無事であることの一因なのは間違いない。
あとは、空中での謎の抵抗感、あれで落下速度が落ちたのは確実だ。
そして、俺の魔力による強化、風魔法。
これらの複合で何とか墜落死を免れることができたのだろう。
しかし、地面に衝突する直前、この植物の密集が目に入ったのは幸運だった。
おかげで、咄嗟に落下地点を変えることができたからな。
何はともあれ、こうして命があれば何とかなる。
セレスティーヌ様を送り届けることも。
……。
傍らに横たわっているセレスティーヌ様の顔を覗き見る。
穏やかな寝顔に見えるが……。
本当に無事なんだろうな。
そろそろ起こしてみようか。
目の前のセレスティーヌ様の肩に手を伸ばしたところで。
「うっ……ううん……」
おっ、目を覚ましてくれたか。
「セレスティーヌ様」
「えっ? あっ? えっ?」
そりゃあ、混乱するよな。
「コーキ様? あの、ここは?」
「テポレン山の地中だと思います」
「ああ……」
腑に落ちたような表情。
「また落ちてしまったのですか」
「はい」
「そうなのですね……」





