第106話 セレスティーヌ 2
<セレスティーヌ視点>
どうしても私は山を下らないといけません。
そう思って、足を踏み出しました。
なのに。
「っ!?」
あれは魔物?
恐怖で足がすくんでしまいます。
「魔物……じゃない」
よかった。
ここまで散々でしたけれど、まだ運が残っているみたいです。
でも、安心はできません。
テポレン山の麓まではまだまだ距離がありそうですから。
もし魔物に遭遇したら……。
護衛のいない今の私では、テポレンの魔物に対することなんてできません。
私の力なんて、ここでは役に立たないのです。
「……」
無事に下山することができるのでしょうか?
運よく魔物に遭遇しなかったとしても、こんな山道をひとりで迷うことなく下りることができるのでしょうか?
少し前までは護衛騎士が周りにいました。
でも、今は……。
全く自信がありません。
不安ばかりが頭を占めてしまいます。
あぁ。
どんなに強がっても、自分の心はごまかせないです。
ひとりで山道を歩くのは怖いです、自信など持てるはずがありません。
ワディン家の未来のために、騎士たちのために、と意気込んでいた私の思いが急速に萎んでいくような気がします。
「……」
情けないです。
神娘ともてはやされながら、こんな山中ではなにもできない。
無力な自分が本当に情けない。
でも、それでも……。
歩き続けるしかないのです。
たとえ魔物に倒される未来が待っていようとも、それまでは進むしかないのだから。
疲れと不安でどうにかなってしまいそうですけど、今は足を前に運ぶことだけを考えましょう。
「豊穣の神ローディン様、どうか私を、ワディン家をお守りください!」
きっとローディン様が私を見守ってくださる。
それが私の拠りどころ。
今はただローディン様の加護を祈るばかりです。
ひとりになってから1刻以上は過ぎたでしょうか。
今のところ道に迷ってはいないと思います。
と言いましても、道とも呼べぬような獣道を歩いていますので、これが本当に正しい行路なのかは分かりません。
それでも、下に向かっているということだけは分かりますから。
今は自分を信じて、この道を下に進むだけです。
こうして足を進めていますと、少しずつですが麓まで下りる自信も出てきたような気がします。
このまま魔物に遭遇さえしなければ、何とかなるかもしれないと……。
テポレン山の麓ではシアが待っているはずです。
シアと合流してオルドウに入ることができれば、そうすれば。
萎みかけていた希望がまた膨らんでくるようです。
足が軽くなってきます。
そんな楽観がいけなかったのでしょうか。
少し開けた場所に到着したと思いましたら。
草むらから音がしたのです。
「えっ!?」
「ウゥゥゥ」
そんな!
ここまで無事に進んで来たのに。
「グルルゥゥ」
目の前にグレーウルフが2頭!
脚が震えます。
こんなの、どうしようもないです。
どうして……。
「ウウゥゥゥ」
もう……。
もういやだ!
動きたくない!
どうして私ばかりがこんな目に。
ああ……。
私の外殻が剥がれ落ちそうになります。
模範的な貴族令嬢として振る舞うために身につけてきた、この外殻、この仮面が。
もう無理です。
でも……。
ユーナス兄さま……。
私の心の奥底に棲む深い悔恨と共に心に浮かぶのは兄さまの優しい笑顔。
「……」
そうですね!
私は誇り高きワディン家の神娘セレスティーヌ・キルメニア・エル・ワディン。
いついかなる時もその矜持を失う訳にはいきません。
だから。
震える脚を掌でおさえ、そして、ゆっくりと脚を動かします。
よかった、動きます。
ようやく動いた脚で、グレーウルフから少しだけ距離をとることに成功しました。
とはいえ、そんなことでグレーウルフの素早さに抵抗できる訳もありません。
「きゃあ!」
跳びかかってきた1頭目のグレーウルフの強襲は、なんと奇跡的にかわすことができました。
でも、そんな奇跡が続くことはなく。
追い詰められた私は。
「えっ? きゃあぁぁぁ!!」
急に足もとが揺らぎ。
浮遊感!?
「うっ!」
次の瞬間、鈍い音とともに身体中に衝撃が走りました。
私は何が起こったか全く分からず、ただ呆然とするばかり。
「……」
驚きと衝撃で混乱したまま、まるで身体が自分のものでなくなったかのようなフワフワした感覚が続き……。
しばらくすると、少し頭が冷めてきました。
「何が起こったのです?」
「グルルゥゥゥ」
私の疑問に答えるように頭上から唸り声が聞こえてきました。
状況が分からないまま身体を起こし目線を上にやると、切り立った崖上からこちらを見下ろしているグレーウルフ。
えっ、私はあの崖から落下してしまったのですか?
あんな高い所から?
……。
それでも、幸運なことに命は助かったみたいです。
グレーウルフから逃げることもできました。
そんな私を見下ろして唸り声を上げているグレーウルフ。
まさか飛び下りてくるつもりでしょうか?
ここまで来られると、もう逃げることもできないです。
ここに留まっている場合ではありません。
少しでもグレーウルフから遠ざかろうと足を前に進め……。
「あっ、痛い!」
走ろうと思ったのですが、落下した時に痛めたのか足に激痛が!
痛い、痛いです。
走るどころか歩くこともままなりません。
でも、逃げないと。
「あっ!」
頭も痛い。
頭も打ったようです。
い、痛い。
痛みで上手く歩けないながら、グレーウルフから少しでも隠れたい一心で崖上から見えない場所まで這うように進みます。
ほんの僅かしか進んでいませんが、崖上のグレーウルフの視界から外れることはできました。
まだ安全とは言えませんが、グレーウルフが見えなくなり気が緩んでしまったのでしょう。
急に目の前が……。
……。
……。
***********
ここから崖下に下りるとして。
さて、どうやって下りるか?
今は手元にロープもないし、他に崖を下りるための道具もない。
とはいえ、下まで10メートル程度の高さを普通に飛び下りるというのは躊躇われる。
けどまあ……。
魔法を使えば大丈夫か。
ということで、脚全体に魔力を纏い。
思い切って飛び下りる。
さらに着地の寸前に、魔法によって生み出した強烈な風を崖下の地面に叩きつけてやる。
「よし!」
成功だ。
問題なく着地することができた。
「さてと」
近くにいるのか?
辺りを見渡す。
すると、地面に残る引きずったような痕跡のその先に人が!
うつ伏せに倒れている!
急いで駆け寄り、脈と呼吸を確認。
良かった、生きている。
とりあえず一安心だ。
今は気を失っているだけなのか?
服の上から見る限りでは出血などは見られない。
出血がないとすると、打撲、捻挫、骨折などの可能性があるが、怖いのは頭を強打していた場合だ。
早急に処置が必要ということもありえる。
とはいえ……。
俺の前で横たわっているのは若い女性。
状況から見て、先程聞いた悲鳴はこの女性の口から出たものだろう。
そして、おそらくこの女性がシアとアルに保護を頼まれたセレスティーヌ様なのではなかろうか。
倒れている女性が上級貴族のお嬢様とくれば、どう扱えばいいのか?
ただの冒険者に過ぎない俺には少しばかり難しい問題だ。
僅かに躊躇してしまうが、命に関わるこの状況では悩んでいる暇はない。
無礼、無作法は大目に見てくださいよ。





