第105話 セレスティーヌ 1
納得いかないといった顔をしているギリオンのことはヴァーンに任せ、駆け足で山に入る。
エンノアの人々と知り合って以降テポレン山には頻繁に登っているが、今回の常夜の森とテポレン山の境界から山に入るルートは、ほとんど使ったことがない。
とはいえ、テポレン山そのものが今や俺の庭のようなもの。というのは言い過ぎだが、テポレン山の西、オルドウ側についてはかなり詳しくなっていると思う。なので、問題はないだろう。
ということで、脚に魔力を纏い強化した状態で駆け上がる。
整備されていない獣道のような道なのは相変わらずだが、木々の合間を迷うことなくひたすら駆け抜ける。
そんな状態でいくらか進むと、普段からよく通る道に入ることができた。
こうなると、楽なもの。
さらに速度を上げて。
見慣れた景色の中、シアとアルから頼まれた女性の姿を探し走り続ける。
が、近くに人の気配を全く感じない。
もっと上にいるということか。
あるいは、間違ってオルドウとは異なる方向に進んでいるか。
とにかく、上まで登ってみよう。
魔力を纏っているこの状態だと、脚はもちろんのこと心肺の負担もかなり軽減される。
そのため、体力にはまだ余裕がある。
しばらくは走り続けることも可能だ。
魔力を身体に纏うことで強化するという手法は、前の時間の流れの中において身に付けたものだが、これが本当に優れもので使い勝手が非常に良い。
腕力や脚力の上昇は自分でも驚くほどだ。
当初は使用後の反動が気になったが、もう慣れたもの。
今じゃ、メリットしか感じない。
そうそう、剣などの武器に魔力を纏わせると、これがまた半端じゃない威力を発揮してくれるんだよ。
さっきのダブルヘッドとの戦いも、強化した剣を使ったからこそのあの結果。
もし強化剣を使えなかったら、もっと苦戦していただろうな。
と、こんなに便利な魔力による強化だが、オルドウでは全く見かけないんだよなぁ。
どうやら、強化の概念すらないようなんだ。
もちろん、王都なんかに行けば強化を使える人物もいるかもしれないけど……。
というわけで、さすがに俺も気付き始めている。
剣と魔法を含めた俺の総合的な実力の程を。
……。
とはいえ、これもまた、オルドウ基準の話。
世の中には、噂に聞く剣姫や赤鬼や幻影なんていう達人がいるらしいから。
過信は禁物だ。
などと考えながら走っていると、エンノアの地下への入口の1つが近くに見えてきた。
周りに争った形跡なんかはない。
ダブルヘッドの被害はないようだ。
当然、ダブルヘッドがエンノアに害を及ぼす可能性も考えられたからな。
とりあえず、一安心だ。
エンノアへの入り口を通過して、さらに進むこと数分。
見たことのない景色ばかりになってきた。
テポレン山にはよく来ているが、エンノアの居住区を越えて上ったことはほとんどないからな。
未知なる山域に少し慎重になりながら足を進める。
「うん?」
何か物音が?
立ち止まって耳を強化。
気配を探りながら、耳をすませる。
すると。
「きゃ……あぁ……ぁぁ」
これは!?
テポレン山の中腹を進む俺のやや上方、北の方から女性の悲鳴のようなものが聞こえてきた。
こんな場所で悲鳴をあげる女性はそうはいない。
そもそも、テポレン山の中腹以降にエンノア以外の者がいること自体珍しいことなのだから。
とすると、悲鳴を上げた女性はエンノアの女性か。
そうでないなら、シアとアルに頼まれた貴人の女性セレスティーヌ様という可能性が高い。
そして、この気配。
その女性の近くには魔物がいる!
速度を上げ、悲鳴が聞こえた辺りを目指し疾走する。
今助けに行くから、無事でいてくれよ。
「えっ? きゃあぁぁぁ!!」
間違いない。
今度ははっきりと聞こえる。
すぐ近くだ。
声を目指して駆け上がる。
目の前をふさいでいる枝を無視して、ひたすら走る。
枝の密集を抜けると、そこには僅かな低木以外の樹木が存在しない平らかな地が広がっていた。
が、そこに女性の姿は見えない。
俺の目に映るのは2体の魔物だけ。
平地の奥にいる2体の魔物。
初見の魔物ではあるが、その姿形から狼系統の魔物だということは一目瞭然。
存在感からしてブラッドウルフより数段格下のウルフ種だろう。
その狼魔物が平地の奥で何かを眺めている。
まさか、そこに女性が隠れているのか?
狼魔物との距離を一気に詰める!
こちらの気配に気づいた魔物が俺の方を振り返るが、もう遅い。
放たれた雷撃が2体の魔物を捉え、身体の自由を奪う。
そのまま接敵、そして切断。
「ギャン」
「ギャワン」
呆気なく2体の魔物は沈黙した。
が……。
誰もいないぞ。
奥には何も見えない。
当然、女性もいない。
「誰かいますか?」
狼魔物の眺めていた場所に近寄り、声をかけるが返答もない。
さらに歩を進めると。
うん?
この奥は崖になっているじゃないか。
まさか!?
ここから落ちたのか。
崖の際から下を覗きこむと。
木々に覆われた先に若干平らな場所が見えた。
そこまで10メートル程度はありそうだが……。
「誰か、そこにいます?」
もう一度声をかけるが、やはり反応はない。
枝葉で視界が遮られる中、じっくりと眺めてみる。
「……」
何かを引きずったような形跡があるな。
その先、狭い視界の片隅に見えるのは……あれは靴か?
靴のように見えるが、ここからじゃよく見えない。
良く分からないが、あの引きずった跡といい、靴といい。
ここから落ちた人物が動いた痕跡と見るべきだろうか。
これは、下に降りて確認するしかないな。
***********
<セレスティーヌ視点>
苦しいです!
逃げて、走って、崖を上って、また逃げて……。
こんなに身体を使った経験なんて今まではなかったから、私の身体はとっくに悲鳴を上げています。
限界を訴えかけています。
駄目、息ができません。
胸が苦しいです、上手く脚が動きません。
もう、もう走れません。
本当にもう駄目です。
なので……。
足を止めてしまいました。
そして、周りを見渡そうとしましたが。
「はあ、はあ、はあ」
息が苦しいです。
顔を上げることができません。
「はあ、はあ」
何か飲みたいです。
でも、水は……もうありません。
用意してもらった水も冷ました薬湯も、もう手元にはないのです。
皆といる時に飲んだ薬湯が最後。
あの苦い薬湯でも何でもいいから飲みたいです。
でも、もう今は……。
「はあ、はあ」
苦しいです。
「あっ」
すると、目の前が真っ白になり……。
何も分からなくなってしまいました。
頬をなでる草……。
何なのでしょう?
……。
「ここは……!?」
ああ、なんてこと。
意識を失っていたのですね。
でも……。
追手はいません。
魔物もいません。
よかった、大丈夫みたいです。
それなら……。
もう動きたくないです。
でも、でも……。
それはできません。
自ら諦めることなんて、できないのです。
私を逃すために身を挺して助けてくれた騎士たちの行為が、献身が、そして犠牲が無に帰してしまいます。
そんなことできる訳がないのです。
エラン、ジェミネルス、ディアナ、ユーフィリア、他のみなも……。
レザンジュの追手から、そして魔物から私を守るために、私を逃がすために盾になってくれた騎士たち。
「……ああぁ」
そんな護衛の騎士たちのことを思うと、涙が出てきます。
みな私のために……。
そう。
今の私は多くの犠牲の上に生かされているのです。
この身はもう私ひとりのものではない。
それに、お父様、お母様、お兄様……。
私に託された辺境伯家の未来を潰すわけにはいきません。
そんなことを私が!
誇りあるワディン家の神娘たるこの私、セレスティーヌ・キルメニア・エル・ワディンが何より許せるわけがないのです。
だから、この身体でも前に進むしかない。
今はもう走ることはできないけれど、それでも足を進めることくらいはできるはずだから。
前へ前へ、一歩ずつでも前へ。





