第13話 平川火まつり
土曜日がやってきた。
日中適当に家で過ごした後、僕は自転車に乗って八百駅に向かった。
夕方六時、待ち合わせの時間通りに八百駅に到着する。今年は猛暑だけど、夕暮れにもなると涼しい。噴き出ていた汗をタオルで拭くと、さわやかな風が僕を包んだ。
そして、彼女はあの時と同じようにベンチに座ってスマホを触っていた。
オレンジ色のキャミソールに、ピンクのスカート。そこから伸びる程よく日焼けした、すらりと伸びた細い手足は夕日に照らされて、少々色っぽく輝いていた。
僕は目のやり場に困りながらも、彼女に声をかけた。
「あ、あの……スズミさん」
「ん?」
そっと顔を上げるスズミさん。
僕はすぐに目を彼女の顔から離した。
「あ、あの、六時だよ……?」
「もうそんな時間?」
「うん。……何してたの? 人魚の調べ事?」
「まあ、そうだけどね」
そういうとスズミさんはひとつため息をついた。
横目に見えるスズミさんはどこか煮え切らない表情だった。だが、僕の視線に気づいたのか、
「ごめんね。雰囲気台無しにしちゃったね。お祭り行こっか」
***
平川までは電車で十分ほど。とはいえ、車内は観光客や見物客でごった返している。田舎ではめったに体験できない満員電車である。
まあ、僕にとって電車は学校ほどではないが嫌な場所だ。理由は簡単でいじめられっ子に遭遇するかもしれないから。
だけど、そもそも人が多すぎて満員電車内で出くわすことはなかった。
会場の平川の砂浜についたときも同じで、会場が隅から隅まで人で埋め尽くされていた。
八百の人々、県外の人、外国人旅行客――。老いも若きも、男の人も女の人も集まって、火祭りが始まるのを今か今かと待ちわびている。
あまりの多さに、僕は開いた口がふさがらず声を漏らした。
「すげえ……」
「毎年こうだよ?」
「しばらく行ってなかったから……。でも、意外にあいつらはいないね」
「ゆかちゃんたちのこと?」
僕は首を縦に振る。スズミさんはにっこりと笑顔を見せた。
「人が多いからね。心配しなくていいんじゃない?」
「そうだね」
その時、見物客の歓声が一気に上がった。
僕とスズミさんの意識もそちらに向けられる。
祭りが始まったのだ。
海に浮かぶ船の上で二十メートルもの高さがある巨大な松明に火が灯り、激しく燃え盛る。
船上で男たちが松明を回し、倒して起こす。
炎が激しく踊り、火の粉が夜空に舞っては散る。
同じような船が何隻も八百湾に浮かび、炎が黒く染まった闇夜を赤く染めるように豪快にあたりを乱舞する。
観る者はみな釘付けになっていた。
すごい……。感動が自然と口から発せられていた。中にはスマホやデジカメで写真に残す人もいる。
「すごい……こんなんだったんだ……」
僕も海で乱舞する炎に見惚れていた。何年か前の火祭りに行ったときの記憶もよみがえる。
疎遠になってしまったけど、小学校時代の友人と並んで見ていたっけ……。
隣を見ると、スズミさんも両手をかぶせ、うっとりとその炎を眺めていた。
友人と見物する火祭り。僕はまるであの頃に戻ったかのような感覚に浸っていた。
***
火祭りは前半と後半に演目が分かれている。その間に休憩時間が挟まれ、スズミさんによればみんなこの時間帯は、屋台でゲームをしたり食べ物を買ったりするらしい。
僕とスズミさんは駐車場に設置された出店屋台を回っていた。
屋台では和服を着た子供や若いカップル、外国人など大勢の人が並んでいる。
金魚すくいに大判焼き、たこ焼き……。やりたいことはいっぱいあるけど、お小遣いは限られている。
「どーれにしよっかな……」
スズミさんは僕の隣で、無邪気な子供のように顔を動かしながら行きたい屋台を探していた。
「なるべく早く済ませようよ。後半の火祭りも始まっちゃうし」
「そうだけどさー、お祭りって楽しいじゃん」
気持ちはわかる。スズミさん、ずっと楽しそうだったし。
でも、こんなところで歩いてたら目立つぞ……? 多分、あいつらも……。
無用な心配かもしれないけど、なぜか警戒してしまう。
だが僕が警戒していたのは間違いではなかった。
――鈴美、そこにいたのか。
楽しい祭りの雰囲気はその一声で破裂した。
目の前にいるスーツ姿で、白髪が混じった中年の男。眉が眉間に寄せられ、明らかな敵意を僕らに向けていた。
僕は思わず恐怖のあまり腹の底からぞっと、震えを感じた。
ふと隣にいる少女に目をやる。
彼女は顔が青ざめ、全身が震え、額から冷汗を出し、まるで金縛りにあったかのように動けなくなっていた。
僕らの周囲に動けば爆発しそうな、危険な沈黙が漂っていた。
「……保おじさん」
スズミさんから漏れた言葉。
「今日は勝手に出歩いちゃダメって言っただろ。みんな心配してるから、帰るぞ」
「……」
スズミさんは黙り込んだ。
いや、多分だけど恐怖に支配されて声が出せないのだ。
「さあ、早く」
「……わかった」
力なく答えると、スズミさんは前に歩を進め始めた。
「あ、あの……」
「君は鈴美の友達かい?」
彼女を呼び止めようとすると、保おじさんと呼ばれた男が僕に声をかける。
「そうですけど……」
「今日は用があるんでね。また今度にしてくれないかな」
「え」
「うちの事情なんだ。じゃあね」
男は世間一般的に笑っていたかもしれない。だけど、その目は敵意が含まれていた。
男は振り返るとスズミさんの肩を押した。スズミさんはまるで小説に出てくる、やつれた奴隷のような姿で歩いていた。
僕はそんなスズミさんを見ることしかできなかった。




