8話
それから、店に何度か先輩が来た。むろん、ワークショップの課題の交換のこともあったし、彼は店の雰囲気が気に入ったらしい。僕が店にいるか携帯へ電話がかかってくる。僕が店にいると、彼はやってきた。友人が来ることはあまりなかった。なんでって?ここは大人の店だ。『4丁目』へ足しげく通っているようなやつらがくるような店ではない。じゃあ、先輩も大人かっていうと、どうかな?と、最近は思うことがある。僕の中ではかなり大人っぽい人だと思っていたけど、店へやって来ていろんな話をするうちに意外と子供っぽいところがある人だということに気がついた。年よりも大人っぽく見えるくせに、意外と意固地だったり、子供のように愚痴を言ったりする。まあ、お酒が入っているからね。そんなもんかも。
先輩はあの夜のことなんて忘れたかのように、僕を避けていたような時期があったのも嘘のように、先輩面をして僕を小突きまわし、冗談を言った。僕も何だかそんなことを意識していたのが変だったなと思うようになり、先輩が店に来る日を楽しみにした。僕らは時々店が引けた後、ラーメンを食べに行ったり、居酒屋に飲みなおしに行ったりした。
そんな日が数ヶ月続いていた。あっという間に季節は過ぎ冬になった。最近はちらほら雪が舞う日もあった。里佳子ちゃんからはちょくちょく連絡が入る。僕らは駅前で待ち合わせして、映画を観たり、夕食を一緒にしたりしていた。だけど、まだアシカのショーは観にいっていない。
今日は金曜日。バイトの日。
「寒いですね。」
「おう、もう冬だな。」
オーナーはグラスを磨きながらつぶやいた。
窓の外には、またちらほらと、雪が降り始めた。店は週末にしては人が少なく、暇だから早めに閉めようかとオーナーが言った。
「隆博。最近、彼氏来ないね。」
「彼氏?」
「悟くん。」
「そうですね。忙しいんでしょ。」
「ふーん。春に卒業なんだろ。」
そういえば、確かにここ最近、ずっと先輩は店に顔を出さなかった。どうしてかなとは思ってはいたが、わざわざ連絡するまでもないしと思い、でも内心すごく気になっていた。学部内でも最近は顔を見ない。客が入ってくるたびに彼ではないかと、気になってドアの方ばかり見ていた。
(ばかみたいだな。)
ふっとおかしくなった。
(女の子みたいだ。)
女の子が好きな人を待っているみたいだと、思った。駅前に行くと必ず先に来て、僕を待っている里佳子ちゃんのことを思った。
(好きな人?)
まあ、確かに好きな先輩ではあるが・・・
店がひけてから帰り道。やっぱり気になりだすと気になって仕様がない。電話をかけてみようと携帯を取り出した。夜11時を過ぎていたから、まずいかなと思いながらダイヤルしてみる。
(寒いな。)
フリースのファスナーを首のところまで引き上げる。そんなに寒くはないとたかをくくって、シャツの上に薄いフリースを一枚着てきただけだから、帰り道はさすがに寒かった。僕は駅まで続く道沿いにあるコンビニで、暖かい缶コーヒーを買って、それで手を温めながらコール音を聞いていた。
(出ないな。)
7回コール音を聞いて切ろうとしたら
「もしもし」
彼が出た。
「隆博?」
「夜分、遅くすみません。」
僕は遅い時間に電話をしたことを詫びた。
「いや、いいんだよ。」
何となく元気がないようだ。
最近顔を見ないのでどうしたのかと聞くと、ちょっといろいろあってと答えたがそれ以上詳しいことは話してくれなかった。あまり話していてもいけないのかなという雰囲気だったので、切ろうとすると、どこにいるんだと彼が問うた。バイトの帰りでこれから地下鉄の駅へ向かうところだと言うと、雪が降っているなと彼が言った。僕がええ、と答えると、ちょっと間をおいて彼が囁いた。
「気をつけて帰れよ。」
その声があまりに優しくて、まるで恋人に語りかけるように、甘い声で、僕はとても切ない気持ちになった。ちらほら舞っていた雪が大きなボタン雪に変わって、ポコポコと音をたてるように降りだした。そして、その雪を見つめていると、その景色がしだいにじんわりとにじんできた。
「また、電話するわ。」
そう言って電話が切れた。僕の目に涙がにじんでいた。何故だろう。彼に会いたかった。今日はもう終わるけど。明日になったら。それとも明後日になったら。
自分の思いもよらない変な感情に戸惑いながら、切れた携帯を手にじっと雪を眺めた。大きな粒となって落ちてくる雪を見ていたら、ふいにあの時の情景が記憶に浮かんだ。
白い雪が白い花びらと重なって見えた。触れてしまえば溶けて消えるかのような薄い乳白色の桜の花びら。手にした花びらを口元に寄せて、ふっと息を吐き、風に乗って舞う花びらが落ちる様を目にして、扶美は言った。
「美しいって儚いっていうことなのね。」
僕は黙って桜の木を見上げた。そうしている間も、休むことなく風に桜の花は舞い、地面に落ちた。
「悲しいの?」
そう彼女に問うと、
「そう、悲しいのかな。寂しいのかな。変な気持。どうして美しいものはその美しさを永遠にとどめておくことが出来ないのかな。」
「扶美は女の子だな。ロマンチストだ。」
「隆博君は何か感じない?」
風に舞う桜の花を見て、何も感じないのかと彼女は聞いた。少し口を尖らせてね。その表情が可愛くて、僕は桜より扶美の表情に気を取られていた。
「桜が散ってしまうのは悲しいけど、でも来年又咲くよ。儚いって扶美が言うのはわかるけど、でも自然のものは回りまわってまた目にすることが出来るよ。」
「だから消えてなくなってしまうわけじゃない。扶美はこの一瞬、一瞬の美しさを儚い、儚いからこそ美しく、心に残るっていうことが言いたいのかな。」
扶美は笑みを浮かべて、
「隆博君にみんな私が思ったこと言われちゃった。」
とおどけてみせた。
〝扶美!〟
僕はその場にうずくまった。胸に熱いものが押し寄せて立っていられなかった。血が逆流するように胸の鼓動が早くなり、目じりに涙が浮かんだ。
記憶の中で扶美が笑っていた。あの時と同じ、あの頃のまま。
雪が肩に落ちてじんわりと服を濡らした。髪に手に雪が落ちる冷たさを感じながらも、僕はその場から立ち上がれなかった。悲しくて、そして愛おしくて。帰らない時間を思って。
(美しいということは、儚いということ。)
彼が言った言葉。扶美が言った言葉。僕の中で決して忘れえぬ特別な言葉。
雪の中で扶美が笑っていた。雪の粒が薄い花びらに変わった。そして先輩が優しく僕の耳元で囁いていた。恋人のように。




