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58話

 雪がやんで日が差してくると、裏山の雪に積もった道を、スノーシューズを履いて散歩に出る。ゆっくりと、その場に漂っている精悍な空気を肌で感じながら歩く。雪に覆われた木々を通り抜け、小高い丘から遥か遠くに見える町並みを見る。そして、別荘に戻って暖炉に火を起こし、ポットにお湯をくべる。キッチンに立った彼が、まだ本調子じゃないからアルコールはだめだと、僕にミルクを沸かし、自分はワインの蓋をあける。

 彼が珍しいことをやり始めた。そう、キッチンに立っている。簡単な物でいいから何か作ってみたいと言い出した。どこにも出かけて行かない僕らは、食事を自分たちで作るしかない。病み上がりの僕に作らせるのも悪いと思ってかと思ったが、どうもそればかりではないらしい。目玉焼きから教えてあげると、不器用そうに、それでも新しい遊びを見つけた子供のように楽しそうにフライパンと格闘していた。その様子を眺める。

 彼は本当に穏やかな顔をしていた。今までのような、どこか急いでいるような気負いは感じられなかった。楽しそうに料理を作り、僕を脇においていろんな話をする。

「ここにピアノがあったらな。」

 急に彼が言い出した。

「ピアノ?」

「ピアノがあったら、何でもリクエストに応じて弾いて聞かせるのに。」

「そうだ。残念だな。」

 そう、聞いてみたい曲があった。もう一度ダニーボーイを。


 ぎりぎりまで僕らは現実逃避をした。でも、もうそんな猶予は僕らにはなかった。

 家へ帰る日。僕らは車内でさほど話らしい話をすることはなかった。何について話せばいいのかわからなかった。だから、ラジオから流れてくる曲や、DJが話す事柄についてあれこれしゃべり、車窓に流れる景色や車の流れについて話し、そんなどうでもいいことだ。高速を走っている最中、僕はセンターラインの白い線や、頭上に見えては通り過ぎる標識や案内を眺めながらずっと思っていた。

〝この高速がずっと続けばいい。永遠に。〟

 前方をじっと見つめる僕に気づいて、悟はふっと笑い、

〝火、つけてよ。〟

 と、タバコをくわえた口を僕の顔の方へ向けた。あの時みたいに、冷たくなった彼の鼻先が僕の頬に触れた。

 僕は笑い出した。

〝危ないよ。前見て運転しろよ。〟

 そうやって神経質な僕の気を紛らわす。彼一流のやり方なのだ。

 そう、そしてそういうところが僕にとって、一番好きなところなんだ。


 夕暮れ。薄闇に包まれる頃、僕らは帰途についた。アパートから少し離れた所に彼は車を止めた。じっと窓の外を見ていると、傾いた日があっという間に西へと姿を消した。辺り一面が暗闇に包まれる。 僕はカーステレオの蛍光グリーンのイコライザーが動くのを眺めていたが、

「それじゃ、行くわ。」

 と、言った。彼もそれに答えて、

「ああ。」

 いつもと同じように。何も変わらず。

 この5分先のことなんて、永遠に考えたくなかった。その時にはもう、僕たちは違うレールの上を歩いているのだから。

 彼が小さく息をしたのが、聞こえた。顔を見たらつらくなるとわかっていて、それでも視線をそちらに向けずにはいられない。

 彼の目が僕の目を捉えた。いつもと同じ笑みが目元に浮かんでいた。

 胸をつかれる。表情を顔に出すまいと息を潜めた。ここで何か言ってしまったら。先に崩れるのは僕の方だ。そう、その目に彼はすべてを乗せていたのだから。自分の思い、僕のこと、今までの過ぎた出来事やそれに対しての思い、これから先のことなど、僕に伝えたいことは山程あっただろうに、それをまた胸にしまいこんで、去っていく。

 彼が言った。

「そう、もうひとつ伝えたいことがあった。翻訳の仕事の事、お前は俺が自分の夢を押しつけているだけだと言った。確かにそうだったかもしれん。いろんなこと今までだってやってきた。俺もやってみる。無理だなんて…。いや、そんなこと。」

「きっと、望めば手に入るものだ。」

 そう笑った。

 彼が手に入れたもの。それは何だったんだろう。

 昨日の夜、最後の夜。

 その時、僕は悟の名前を呼んだ。何度も何度も。

 一瞬にして、すべて手に入り、その次の瞬間、崩壊していく想い。

 僕は渇いている。そう、ずっと永遠に渇き続ける。


 その日は雪がちらちらと朝から舞っていた。

 彼が東京へ行く日。同級生の数人が見送りに行くのだと言って、僕を誘ってきた。さすがに人気がある人だな。だけど、僕はそれを断った。誰も僕と彼の本当の姿を知らない。

「いいんか。お前。」

 裕樹だけが、意味ありげな視線を投げかけて、僕にそう尋ねた。

「いいんだ。」

 裕樹はそれ以上何も言わなかった。


 あの時、確かにあの場所にいた君。フリースのブルーのチェックのシャツ。細い指で髪をかきあげる仕草。遠くを見るような目。車のテールランプの明かり。ちらちらと水銀灯の下で舞う粉雪。凍るような冷気の下で、それでも春を感じさせるような空気を感じる夜。僕はきっと忘れない。車の脇に立って、いつまでも見送ってくれた彼を。


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