50話
「カキ氷?」
びっくりして尋ねると、
「雪山に登った時に、頂上に綺麗な雪があるだろ。アズキ缶とコンデンスミルクを持って行ってそれにかけて食べるんだ。」
聞いただけで寒そうな話だと、身を震わせると、
山に登ると結構暑くて汗をかくから、意外と美味しいんだと言った。
「で、明日やってみるの?」
「ああ、美味しそうだろう?」
明日、僕らはこの大梨平のすぐ先にある水晶平まで登ることにしている。吾郎さんが僕にこっそり教えてくれたことによると、本当はもう少し先にある、標高がここより数百メートル程高い別の峰に登る予定だったらしい。馴れていて何回も登っている者ならいいが、僕みたいな初心者にはさすがに無理だと、吾郎さんが進言してくれたおかげで変更になったらしい。
もう少しで雪山遭難するところだった。とはいえ、本当は明日その水晶平に登るのも気が進まない。平坦な道でも結構歩きづらいのに、山歩きだなんて。
「そういえば体調は大丈夫か?」
僕が二日酔いで頭が痛いと言っていたことを思い出して彼は言った。
「だいぶいいよ。」
「そう、でももうあまり飲まない方がいいかな。」
そして、あちこち登った山について話などをしていると、あたりは真っ暗になり、焚き火を焚いて、ガスバーナーの火で鍋をしているとはいえ、さすがに辺りが冷え込んできた。
「結構冷え込んできたな。」
温度計を見るとマイナス13度。テントの中でもマイナス6度しかない。
「テントの中でも氷が張るよ。」
「本当に…?」
「水を張っておくとさ、すぐに凍るよ。」
悟は楽しそうだ。寒さにはずいぶん強いみたいだ。それでも結構な時間が経っていた。僕らは早々に片づけて、テントの中でもう一杯やることにした。
テントの中に入るとそれでも結構暖かい。風がないからいいな。外はだだっぴろい平原だから少しでも風が吹くと寒い。着られるだけの服を着て、シェラフに包まる。ランタンの灯りをひとつにして、タバコをふかしながら又いろんな話をした。子供の頃の話や、あちこちに行った話や、熱中していたスポーツや趣味のことなど。
悟はまだずっとあれから飲んで、タバコをふかしていたが、僕は明日峰へ上るのに、酒が残っているとまずいと思い、止めることにした。それで時折会話が途切れて、外の様子を何とはなしに伺っていると、テントに落ちる粉雪の音が断続的に聞こえた。あとはランタンのシューッという燃焼する音が聞こえるだけだ。
「全く静かだな。」
「あの世に取り残されてしまったような気がするね。」
僕が返すと、
「〝あの世〟とかいうと、そういえばさっき川原で変わった話をしていたな。」
彼が聞く。
「何?」
問うと、
死んだ人の魂はどこへ行くのか、という話だと彼が言った。また芙美のことが頭をよぎった。
「さっき、俺感心していたんだ。」
何のことかと聞くと〝死〟に対してあんなふうにいろいろ語れるっていうか、しっかりした考え方を持っていることに対してだと言った。
「20歳そこそこでそんな〝死ぬこと〟なんて考えないもんな。本当にずっと先のことで、実感として感じたことなんてないからな。」
「普通、そうだろうね。」
つぶやくと、そのまま2人とも黙り込んでしまった。
彼が何か聞きたそうだった。そして僕の顔をじっと眺めて、
「何を考えている?」
と、尋ねた。
「別に。」
芙美のことを考えていることを気取られないように、さりげないふうを装って新しいタバコに火をつけた。
「でも本当はこんな風にしている時でも、きっと〝死〟はすぐ側にいるんだと思うよ。」
そう言うと、
「怖がらせないでくれよ。」
そう言って彼は身を縮めた。
怖い話が大好きなくせに結構怖がりなんだから。僕がその様子を見てくすくすと笑うと、
「誰か好きな子っていたか?」
いきなり聞いてきた。
「藪から棒に何だよ。」
僕が芙美のことを考えていたことがわかるみたいだ。
「最初に好きになった子って?どんな子?聞いてみたい。」
「えー、いいよ。そんなこと。」
はぐらかそうとすると、聞きだそうとして彼はしつこかった。
しょうがなく、芙美の話をした。中学校から同じクラスでずっと片思いをしていたこと。高校生になって仲良くなり、グループでいろんな所へ遊びにいった話なんかを。
「それで今何している?その子?」
(イマナニシテイル?ソノコ?)
同い年。大学生だったのか、社会人になって働いていたのか?思いっきり胸を凍った手でひっつかまれたような気がした。僕が戸惑って黙り込んでいると、
「聞かない方がいいかな?」
遠慮がちに彼が言った。
「いや、別に。でももういないんだ。その子。」
さらさらとした粉雪がテントの側面を滑り落ちる音がした。ちょっとした間があって悟が思い切ったふうに尋ねた。
「死んだのか?」
「ああ。」
自分が今どんな顔をしているのかが気になった。彼に表情を読み取られたくなかった。
「事故でね。結局自分の気持ちすら伝えることが出来なかった。でも、彼女、好いていてくれたんだ。死んでからわかったことだけどね。ずいぶん後悔した。」
「そうか。」
「彼女は本が好きで、英語が得意だった。いろんな洋書を原文で読んでいて、最後に彼女が僕に渡してくれた本が原書だったんだけど、その頃、全く英語が出来なくてね。でも何とかそれを読みたくて、一生懸命勉強した。それで何とかその本が読めるようになって、それでかなあ、何となくその辺から翻訳をやりたいって思いだしたのは。」
「彼女もそういうことやりたかったんだろうな。」
「ちゃんと聞いたことってなかったけど、そうだったのかもしれない。」
ふうんと呟いて、悟が黙り込んでしまったから、僕はこんな湿っぽい話をして悪かったなと思い謝ると、
「いや、ちょっとその子がうらやましいなって。死んだ人はいつまでも思い続けてもらえる。永遠に。さっき川原で思っていたのはその子のことなんだろう。だからあんな話を…」
彼が寂しそうな顔をして、また黙り込んでしまったから、僕は口を開いた。
「死んだ人はいつまでも忘れられずに思い続けてもらえるって。そうだな、若い時の姿のままで、美しい思い出になって。でも、それがうらやましいって?でも、僕はそんなの嫌だ。生きているその人の声を聞いて、その身体に触れていたいよ。」
僕は悟のことを言った。彼が理解してくれるといいと思った。
「相手の歳を重ねていく姿を見たいよ。その人との間にどんなに汚くて、見苦しい思い出が増えていったって。その中には目を向けたくないような、どろどろとした嫌な思いもあるだろう。でもそれでも、そのままそこで自分の気持ちだけが取り残されたまま止まっているのよりはいい。自分の気持ちがそのままそこで動けないまま、止まっているのは苦しいよ。もうそんな思いは嫌だ。」
僕は彼の両腕を掴んだ。僕は彼が年齢を重ねていく姿を想像してみた。その目元に皺が増えていく姿を。たぶん僕はそれを見ることはない。腕を掴んだ手に力を込めた。彼は僕の手を取った。
「悪かったよ。うらやましいなんて、軽いよな。ごめん。」
僕は別に謝って欲しいわけではなかった。今思っているのは芙美のことより、現実に目の前にいる相手のことだった。彼も同じ気持ちだろうか。そうだったいい。だけど彼は何も言わなかった。
また、テントの側面を雪が滑り落ちる音がした。僕らは黙って、その音を聞きながら眠りについた。




