48話
「え、ああ。」
「いや、いいよ。」
「そうか。大梨平までまだだいぶあるから。なるべく早めに着いてテント張りたいし、いいか?」
彼は少し急ぎたいようだ。
「ああ。」
聞くタイミングを逃してしまった。
それでも、雪山は初めての僕には足元が悪く、歩きづらそうにしているのがわかったらしく、彼は少し歩調を緩めた。それで僕は周りをゆっくり見ながら歩く余裕が出てきた。
川原には所々雪が無く、岩がむき出しになっている所や、石がごろごろと転がっている箇所がある。そして川の流れを取り囲むようにして、雪を被った山々が並んでいる。何だか急にその川原に降り立って川の流れを間近で見てみたいような衝動に駆られた。
「悟、下へ降りてみたい。」
「えっ。」
彼はびっくりして振り返り、雪があるから滑るよと言った。
「無理かな。」
「そうだな。降りれそうな所を探すから、もう少し先へいってみよう。」
そう言って、少し進んでいくと、傾斜があまりなくて川原へ降りられそうな道があった。ストックを上手に使ってゆっくり降りていく。川原にはすぐに降りることができた。川原には岩がごつごつしていてスノーシューが駄目になるから、その辺を歩きたいならスノーシューを脱げよと彼が言った。それでその通りにして、川の流れが見える所まで歩いていってみた。またさっきのことを思った。川は流れているから凍らないんだよな。そして何故か芙美のことを思い出してしまった。
広い川原だった。三方連邦の1つ銚子ヶ岳が川の上流の方に、ちょうど僕の目の前に位置していた。雄々しく人を寄せつけない威厳をたたえて、氷のように尖ったその尾根は、僕を威圧するように何も言わずに聳え立っていた。その靄がかかった中腹を見て、そこに芙美がいるような気がした。
人が死んだらどこへ行くんだろう?その時自分の頭に疑問がふと浮かんだ。身体は歩いてきたので熱く、暖かい体温を感じる。冷気を含んだ風が自分の頬をなでてく。身体は温かいのだが、表面が外に出ている顔などの部分には風の冷たさを感じる。
気温は何度だろう。1℃もないはずだ。こんなに寒いはずなのに、表面に出ている部分は別として、身体の中に血がめぐって、生きていることを感じさせるような体温の熱さを感じる。その様子を後方でストックを杖にするようにして立って見ていた悟が、同じようにスノーシューを脱いで僕の方へやってきた。
「何が見えた?」
そして僕の背中へ質問を投げかけた。
「あの世だよ。」
「あの世?」
彼はぎょっとしたように言い、そして笑い出した。
「何、それ?」
僕は言った。
「人が死んだらどこへ行くんだろうって、考えたことってある?」
「いやあ、ないな。自分は多分リアリストだろうな。そういう事って考えたことないな。」
「ふうん。」
「何、隆博はなんて?」
真面目な顔に戻って彼が尋ねた。
「いや、川の流れを見ていてふっと思ったんだ。あの世とかじゃなくて、死んだら魂はどこへ行くのかっていう話。」
「魂?」
「そうだ。死んだら身体は灰に帰るだろ。でも魂はきっと帰る場所があると思うんだ。もしそういう場所があるとしたら、それはこんな所じゃないかなと思ったんだ。」
「なんていうか、神々しいというか人の叡智が及びつかないような、そんな場所に思えるんだ。ここ。死んだら人はどこへ行くかじゃなくて、魂だけになってあるべきところへ帰っていくんだろうなって思うんだ。」
「ふうん。」
感心したように、今度は彼が鼻を鳴らした。
僕は川の流れで磨き上げられる川中の石を見た。その流れは透明で澄んでいて、本当に川底まで綺麗に見える。川の中の石や岩のひとつひとつまでね。その澄んだ流れを見ていると実感する。この考えが真実だって。
それは、人は死んだら魂だけになって、何も考えない〝無〟の存在に戻るんだ。ここにある石ころや木の根っこや、川原に寝転がっている岩のひとつひとつや、もしくはこの川の流れの一環になって、やっと本当の安らぎを得るんだろう。それは本当に幸せなことかもしれない。そして長い長い時間〝自分〟とういう存在を意識することなく、ただここに空気のようにじっと存在するだけなんだろうな。
そんな話を僕がすると、悟はだまってじっと聞いていた。そして思いついたよう前方の山の中腹を指差した。
彼の指の先に銚子ヶ岳があった。
「あの辺りに?」
そう言い、遠くを眺めた。魂だけになって帰る場所。彼の目線も銚子ヶ岳の靄のかかった中腹辺りにあった。きっと彼は自分と同じことを感じている。そう思った。そうしたら急に何だか嬉しく、胸の中が暖かいもので満たされるような、そんな気がしてきた。
僕らは川沿いをどんどん遡って行き、今日の宿泊地に着いた。そこはだだっぴろい雪の平原だった。はるか遠くに山の尾根が見える。本当に広くて何も遮るものが無く、雪を被った木が隣接する林もかなり遠くに見える。
「こりゃ、風が強いとかなり寒いね。」
僕が言うと、
「そうだなあ、テントが吹き飛ばされるかも。」
彼もにやにや笑う。
この大梨平のキャンプ場は、夏は本当に美しい牧草地で、牛なんかが草をはんでいたりして、それはのどかで牧歌的な雰囲気が漂うとてもいいキャンプ場らしい。もちろん、今はただ真っ白な雪の平原だが。
「夏はな、この辺まで来ると観光客もほとんどいなくてのんびりできて、叔父さんと来てはテントを張り、魚を釣ってきて焼いたりして過ごすにはそれはいい場所なんだ。」
そうか。僕としては夏に来てみたいな、こんなに寒くはないだろうし、緑の広がる平原で昼寝なんぞしたらずいぶん気持ちいいだろうな。
「出来れば夏にして欲しかったなんて、思ってるんだろう?」
「よくわかるね。」
僕の考え、図星だ。
「ふん。」
「まあ、早めにテント張ろうぜ。食事の支度もしないといけないし。」
「ていうか、どうせそれ僕でしょ。悟、料理出来ないから。」
「悪いな。」
「これを機会にチャレンジしてみたら。」
うん、そうだなあ、なんて言いながらがさごぞと道具を出し、テントを張る準備をしている。全くやる気なんてないんだから。
それでも雪を踏み固めて、テントを張る敷地を確保しているうちに身体も温まり、なんだか楽しい気分になってきた。気がつくと頭の痛みも和らいできたみたいだ。悟はこんなことはかなり馴れているみたいで、手際よく準備し、テントを張り、寒さ除けと防水のために外側にもシートを張った。中には何枚か重ねてマットを引き、寒さをしのいだ。
「眠れるかな?」
僕が聞くと、
「寒さで時々目は覚めるだろうな。」
あっけなく彼は答えた。
そうか。まあ、いい。
まだ日が昇っていたから、外にテーブルを作り、食事の支度をし始めた。風がなくてありがたい。
「で、夕ご飯は何?」
彼はうれしそうだ。
「キムチ鍋は?」
「いいね。」




