4話
「もうすぐ着きますよ。」
「・・・ん~。誰だ。」
眠たそうな声が返ってくる。
「堀江です。」
「・・・・隆博か。」
「そうですよ。」
「・・悪いな。送ってくれたんか?」
「もう、着きますよ。」
起きるのかと思ったら、またすぐ寝息が聞こえ始めた。
まあいい、まず目的地まで走ろう。
「先輩。」
アパートの駐車場の脇に車を止めて、体を揺さぶってみた。彼は“うん、うん”と生返事を返した目を覚ましてはいるみたいだが、半分はまだ夢の中だ。
困ったなあ。
これじゃあ部屋まで担いでいくしかないかと思い、
「部屋の鍵は?」
と聞くと、
「・・・うん、乃理子がいる。」
また眠そうな声をあげた。
(乃理子?・・ああ、奥さんか、もう一緒に住んでるのかな?)
「部屋まで送ってきますよ。ほら、シートベルトはずして・・・」
酔っている彼に手を貸すために、座席のシートベルトをはずそうとして彼に覆いかぶさるような形で運転席から手を伸ばした時だ。半分眠っていると思っていた彼が、はっきり起きているかのような早い動きで、いきなり僕の右腕をつかんだ。そして、反対の手を背中に回されるとあっ、と思う間もなく僕は彼に抱きしめられるような形になった。
(何?)
思ったのもつかの間、次の瞬間には彼の唇が僕の口をふさいでいた。
何が起こったのかよくわからず、僕はめまいのような感触を覚えた。だけど、むっとするタバコと酒の匂いが現実を認識させる。
(キス?)
キスしている。彼が僕に。
反射的に彼の胸に手をついて体を起こそうとすると、反対に物凄い力で抱きしめられ、体の自由を奪われる。それに抵抗しようと大きな声をあげた。
「先輩・・・」
一瞬、目が合った。彼は酔っ払っているんだろうか。
僕が見た先輩の目はしらふの時と同じに見えた。とても静かに何か思いつめたような、酔っているとは思えなかった。
(僕だとわかっているんだろうか?)
僕は混乱する頭で必死に冷静になろうと取り繕った。
「先輩。まだ部屋まで着いていませんよ。乃理子さんと間違えないでくださいよ。」
僕の声は少し震えていたかもしれない。彼はきっと、奥さんと僕をまちがえてキスしたに違いない
そうでないと、・・・困る。
先輩は僕の目をじっと見たが、次の瞬間、まったく正常さを取り戻したように、
「ああ、ひどく飲んだな。まだ頭ががんがんするよ。」
笑って自分でシートベルトをはずしにかかった。
僕が車を降りて助手席に回った時、外に人影が見えた。よく見ると若い女性が近づいてきて、
「あの・・」
声をかけられた。
助手席から降りた先輩が彼女に気づいて、
「乃理子。」
(ああ、この人が)
「今、車の音がしたので、送ってきて頂いたのかと思い下へ降りて来てみたの。」
「ああ、かなり飲んでな。隆博に送ってきてもらったんだ。」
僕の方へ目をくれた。が、まだ足元がふらふらしている。僕は慌てて、彼の脇へ手を回して身体を支えた。
「どうも、すみませんでした。ご迷惑をおかけしてしまって。」
彼女が頭を下げた。
暗いので、よくわからなかったが、水銀灯の下で見た彼女は先輩よりも大人びて見えた。年上なんだろうか・・・?
それよりも今の・・見られたんじゃ?
僕は努めて冷静に
「いえ、同じ方向ですから。」
「こいつは同じ学部の後輩で・・」
先輩がろれつの回らない口で僕を紹介しようとしたので、堀江です、と自分で自己紹介した。
「木島乃理子です。もうすぐ水木になりますが・・」
(ああ、やっぱりそうか)
「おめでとうございます。今日はそのお祝い会だったので、乃理子さんもご一緒すれば良かったのに。」
そう、声をかけると
「ええ、ご招待を頂いたのですが、悟さんが嫌がるので・・・」
(門外不出か。そんな感じだな、先輩って。)
そんな話をしているうちにも先輩の足取りがふらふらして、支えている肩がずっしり重くなってきたので、まず、部屋まで送り届けることにした。
部屋まで送り届けると、彼女は本当にすまなそうに頭を下げて
「ありがとうございました。迷惑かけてすみません。」
何度も繰り返した。
「気にしないで下さい。それより、先輩だいぶ飲んでますから早く介抱してやってください。」
そう言って、〝休んでいって下さい〟という彼女の誘いを丁重に断って車に乗り込んだ。彼女は駐車場の脇に止めてある僕の車の所まで来て見送ってくれた。
僕はひとりになってアクセルを踏み込むと、安心し、どっと疲れが出た。めまいのような感覚を覚えた。先ほどまで彼女の前では冷静さを装っていたが、内心どきどきだった。
彼女があれを見ていたのか。先輩は酔って、あんなことを?
でも、あの後僕を見つめた目は確かにしらふだった。僕を見た彼の目を思い出した。何を思って?ただの悪ふざけだったらいいんだけど。悪ふざけにしては過ぎる。舌までいれなくても。ディープキスだ。男と女がするような。彼はそういう趣味があるのかな?言われるまでもなく、僕はノンケだ。男とキスしたのなんて初めてだ。
あれこれ考えてみたが、ひとつ不思議なことに気づいた。彼はどうしてあんなことをしたんだろうと、あれこれ考えを巡らせることはしても、それに対して怒るでもなく、嫌悪感を持つわけでもなく、ただ客観的にその事実を見ている自分がいた。
何だろう?この感覚は?本当だったら嫌悪感を感じても不思議ではない事なのに。
ふいにあのワークショップでの彼の言葉を思い出した。
〝美しいということは、儚いということ。〟
そしてその言葉を口にしている彼の薄い唇。
心臓が引っ掴まれた。頬が赤くなる。あの唇で僕にキスを?
初めてキスをした中学生の頃のことを思い出した。こんなに胸が波打っているのは、あの時と同じ?
いや、何馬鹿なことを考えている?
ふいに頭の中を扶美の姿がよぎった。肩まで伸ばしたストレートヘア。いつも控えめで、大人しく、透き通る声で静かに話した。
「綺麗ね。」
薄い透き通るような花びらを手に乗せて、僕の方を振り返った。
校庭の桜の木。満開の花の下。風に乗って散る花びらを名残惜しそうに拾い集め、扶美はそう言った。
ずっと好きだった。ずっと一緒にいたかった。
たぶん僕はあれから恋をしていない。恋をするときめきってどんな感じだったのか、もう遥か遠い昔のことのようでうまく思い出すことも出来ない。
そう、扶美のことが好きだった。いや、たぶん今でも。
僕はさっきのキスを忘れようとした。あの唇を扶美の柔らかな唇とすり替えようとした。そう思いながらハンドルを握る。うまく出来ない。
車の時計を見るともう夜中の2時を過ぎている。眠らない生き物のように、24時間のコンビニの明かりが無遠慮に煌々と行過ぎる車を照らす。気づくと、さっき彼に掴まれた腕が、今になってずきずき疼くように痛み出した。




