36話
(あ、もう時間だ。急がなくちゃ)
大慌てで荷物をかばんに放りこむ。
(でも、何なんだ。この持ち物って?)
デスクのサイドライトの灯りの下で、もう一度悟に手渡されたメモを見て、荷物の確認をする。
「防寒用長靴、登山用ウェア、ザック、手袋、帽子、雨具、サングラス、フリースのズボンやスパッツ、etc…」
(防寒用長靴?? 登山用ウェア???)
(どこへ行くつもりなんだ?)
何だか嫌な予感がした。どこへ行くか聞いても教えてくれないんだから。それでもとりあえず指定された物を揃え、荷造りをする。だけどどう見ても山へ行く装備だ。兄の孝一は野球の他にもスポーツは何でもござれだ。登山も彼の守備範囲だから、殆どの荷物は兄貴に借りた。
でも、山かあ。3月とはいえまだ冬だよ。今。本当かな。
そこへ階下に車が入ってくる音がした。アパートの窓から覗く。悟のようだが、車が違う。だが、カーテンを開けて様子を伺った僕を認めてか、小さくフォンを鳴らす音がした。やっぱり悟のようだ。だけど、アパートの外壁のすぐ横に止まっているのは赤のエックストレイルだ。
外灯の下の艶のある赤色のボンネットを見て、僕の脳裏にあの日彼女がつけていた赤い小さなピアスが浮かんだ。
〝これね。母が18歳の誕生日にくれた物なの。〟
里佳子ちゃんはドロップ型の小さなルビーを指で触りながらそう言った。
「だからあの日必死で探してたのよね。」
2年ほど前のサークルのバス旅行でのこと。途中のサービスエリアでトイレに立った僕がバスに戻ろうとしたら、サービスエリアの売店で這うようにして必死に何かを探している女の子の姿が目に入った。
〝どうしたの。〟聞くと、目に涙を滲ませて彼女は、〝ピアスを片方落としたの。〟そう言った。時計を見ると集合時間になるところだった。僕はバスの運転手に事の次第を告げ、待ってもらうように言って、すぐに売店に戻った。ふたりして床を舐めるように探していたら、売店に繋がる通路に奇跡的にも赤い小さな石が転がっているのを見つけた。
集合時間には10分ほど遅れたが、みんなのブーイングに〝だって急に腹が下っちゃってさ。〟と僕は舌を出した。
「ああ、あれか。」
里佳子ちゃんに言われるまでそんな事件があったことなどすっかり忘れていた。あの時の女の子が彼女だって事も全然気づいていなかった。
「嬉しかったの。一緒に探してくれたこと。遅れた理由も自分のせいにしてくれて。」
彼女が別れ際に話してくれたこと。僕を何故好きになってくれたのかって。こんな曖昧でいい加減な自分を好いてくれて嬉しかったことを最後に伝えたら、そう応えてくれた。
彼女と会った。例の水族館で。アシカのショーを見るって言ったのに結局行ってなかったから。最後にアシカのショーを見て、水族館の喫茶店で話をした。
正直にすべて話した。扶美のこと。それから悟のこと。
「じゃあ、私いつまで待っていても出番なさそうだね。」
彼女は少し口の端に笑みを乗せて、寂しそうに言った。
「もういない人なら、いつか隆博君がその人を忘れて私の方に来てくれる日も来るかもしれないって思ったけど、現実存在している人で、しかも忘れられなかった人を忘れさせちゃうほど凄い人なら、勝ち目なさそうだもんね。」
そうおどけて見せた。
そして言いにくそうにテーブルについたグラスの水滴を指でなぞりながら、
「あの、隆博君ってゲイ・・・なの?」
当然そう思うだろうな。僕は慎重に言葉を選んだ。
「わからない。こんな気持ちを抱いたのは初めてだから、自分も戸惑っている。今まで女の子にしかこんな気持ちは抱かなかった。」
里佳子ちゃんは困惑した表情で首を縦に振った。
そして視線を僕からはずして、
「ああ、あの人か。交差点で会った背の高い人。だからあの時隆博君変だったんだ。でも、てっきりお腹の大きな女の人の方かと思っちゃったけど。」
あの時の僕の様子がおかしかったことに合点がいったみたいだったが、女性の方が相手だと思ったらしい。当然だろうな。
〝でも、何だかいろいろ複雑そうだね。〟
僕は悟と乃理子さんのことは詳しくは彼女に話さなかった。彼女も察して聞こうとはしなかったが、複雑な事情があることは想像がついたに違いない。だけどそれ以上そのことには触れず、
「でも、やっぱりちょっとショック。」
そうため息をついた。
僕は返す言葉もなく黙ったまま、コーヒーに口をつけた。彼女も黙ってカップを手にし、そして思い切ったように顔を上げた。
「だって、大晦日の晩、あんなふうに友達に紹介してくれたのは、もう私を彼女だって思ってくれてたんだって、私、勝手に勘違いしてたから。」
胸を突かれた。ショックだったのは相手が悟だからだということだと思っていたら、彼女にとってショックだったのは、ステディな付き合いだとみんなに認めてもらうような行動を僕が取ったことだった。
自分の軽はずみな行動に顔から火が出る思いだった。
「ごめん。僕が深く考えずに行動していたからだ。」
「いいのよ。」
彼女は指で耳のピアスを確かめるように触れ、
「少しの間でも隆博君と一緒にいられて良かった。」
そう言った。
最後まで彼女は優しかった。本当に僕には勿体無い人だった。
赤のボンネットと彼女の耳にぶら下がっていたルビーの色が重なる。アパートの階段を下りながら目にする赤色に、あの日の彼女の寂しそうな笑顔を思い出す。後ろめたさみたいな感情は拭いきれない。結局、僕は又ひとり女の子を傷つけたことに間違いない。
そして、今夜彼と旅にでる。彼も彼女を置いて。何といって出てきたのだろう。臨月の乃理子さんを置いて。僕らはふたりして後ろめたい思いを引きずり、逃避行のような旅に出るのだ。だけど、半ば僕は開き直りのようなさばさばした気持ちだった。だって何を責められても彼といる時間は後残り僅かなのだから。
アパートのエントランスを出て、エクストレイルに近づくと、悟が降りてきた。
「車、違うね。」
「うん、つれの。」
僕の荷物を後ろのハッチバックに入れながら彼が答える。
「大丈夫だった?」
「何が?」
水銀灯の下で、目元に皺を寄せて微笑む悟。
「出てこられた?」
「あ、ああ。」
僕の問いの意味を考え、一瞬の間をおいた後、そう答え、
「そうだな。ちょっと渋い顔はされたけど。」
正直に答える。
「ま、いいよ。早く乗れよ。この時間なら高速も空いてる。あっという間だ。」
言われたとおり、助手席に座りシートベルトを締める。
車に一歩乗ってしまえば、僕らは現実の世界から全く別の世界へ移動してしまうことが出来る。車という密室の世界。車を走らせるエンジン音や、車道の湿った雪の振動やカーステレオから流れる音楽。ほとんど車の走っていない国道。時折、通り過ぎる対向車。ぽつん、ぽつんと現れる24時間営業のコンビニやファミレスの明かり。そんなものを眺めていると、この世界には僕と彼しかいないような気がする。
学校やバイトのこと、締め切りが近づいている原稿や、そんな諸々のことがすべて現実味を失っていく。こうして悟と2人でいる世界の方が、本当の世界なのではないかと錯覚をしてしまう。確かに2人でいる世界も現実の世界には違いないのだが。でも普段の生活の感覚とは違う。夢を見ているような、そんな感覚。
すぐ近くのICから高速に乗る。ETCのレーンをくぐり、合流地点の手前からアクセルを吹かし高速道に滑り出すと、その感覚はますます増してくる。
真夜中の高速道路。非日常的な空間。前を走る車のテールランプだけがいやに鮮やかに目に映る。規則正しく、定間隔に並んだ高速のナトリウム灯のオレンジの灯りが、ちらちらとフロントガラスに反射する。真っ暗な車内で、カーステレオのイコライザーが鮮やかなグリーンで音楽のリズムを刻んでいる。
「タバコ吸っていいか?」
ダッシュボードを指差し、悟が聞く。
「ああ、いいよ。」
ダッシュボードからタバコを取り出し、火をつけてやる。
「すまん。」
紫煙の流れ、吸い込む時に赤く点るタバコの先を何の気なしに眺める。そしてタバコを吸う彼の横顔を眺める。細い指。大きな手。
「何?隆博も吸えば?」
視線に気づき彼が言葉をかける。
「いや、いい。」
「しかしひさしぶりだな。こんなんしてふたりで出かけるのって。」
「ああ、ひさしぶりだ。なかなか会う暇なんかなかったもんな。」
このところ会ってもほんの数時間一緒に食事するくらいしか時間がなかった。だから楽しみにしていた。悟とふたりで出かけること。ゆっくりと旅に出かけるなんて、思いもしなかった。
そう、旅。そういえば行き先って?
「あ、そういえば行き先って?」
「行き先?」
「どこへ行くつもりだ?」
「あれ、言ってなかったけ?」
悟がすっとんきょうな声を上げた。
「聞いてないよ。」
「ああ、そうか。」
「それに何?あの持ち物?それにこの車。四駆でしょ?何か嫌な予感がするんだけど。」
悟は噴出しそうになるのをこらえて
「うん、うん、当たってるかも。お前のそのいやぁな予感。」
いやに嬉しそうだ。
「もういいかげんに教えてくれたって。」
「そうだな。うん。まあ、とりあえずそのサービスエリアで休憩しよう。」
そう言って、サービスエリアに寄るために左のレーンに車を滑らせる。




