30話
学校が始まって一週間ほど経ったある日。
久しぶりに悟から連絡があった。年末に話のあった翻訳のバイトの話。森下さんから会社に来てくれるよう電話があって、翌日伺うと返事したと言う。
まったく、いつも僕の予定なんか聞かないんだから。
急いで履歴書を買いに走った。早速、机に向かって履歴書を書き、入学式に着たスーツを引っ張り出し、指定された場所へ向かった。オフィス街。初めて足を踏み入れる場所だ。悟が車で送ってくれた。
「一緒に行ってやりたいけど、子供の面接じゃないんだからな。俺はここまでだ。森下さんにはよく話をしてあるから後はちゃんとやれよ。」
そう、言い残して帰っていった。彼もなんだか忙しそうだ。
それで、目の前のビルの15Fにある彼のオフィスへ向かった。僕の顔を見ると森下さんは愛想よく笑って応接室へ通してくれた。そこで履歴書を渡し、簡単な筆記試験と適正テストを受ける。
「まあ、形式だけだけどね。」
彼は笑った。そしてトライアル(試訳)を持ってきてくれるようにと、A4紙何枚かの用紙を社名入りの封筒に入れて僕に渡した。
「それでOKならうちの会社に登録してもらうから。出来れば長いつきあいになるとうれしいんだけどね。」
「よろしくお願いします。」
頭を下げた。
「また登録時に仕事の流れとか、契約のこととか細かい話はその時にね。」
と言い、帰ろうとする僕を階下にある喫茶店に誘ってくれた。
仕事とは関係のないプライベートな話を彼はし、僕にも学校や家族のことなどを聞いた。
あまり面識のない人とプライベートな話をするのは好きではなかったが、人懐こそうな彼なら何となく安心できた。彼はこうして人とのコミュニュケーションを計り仕事を円滑に進めていこうとする人なんだろうなと思った。帰ると留守電に悟から電話が入っていたので、電話をかける。
「お、どうだ。大丈夫か?」
「子ども扱いだな。」
「いやあ、そういうわけではないが、紹介した手前心配でな。」
「大丈夫だよ。今日は面接と適性検査やテストなどだけで、トライアルを見てみないと登録させてもらえないんだから。」
「そうだな。確かそんな感じだったな。」
「で、いつまでに?」
「一週間後。」
「そうか。手伝ってやりたいけどトライアルはだめだな。間に合うようにやれよ。」
「わかった。」
森下さんが喫茶店に誘ってくれたことを話すと、愛想のいい人でよく話を聞いてくれるし、面倒見がいいから仕事がやりやすい、と悟は話してくれた。
「数あるコーディネーターさんの中でも一番つき合いやすい人らしいから。ま、わからんところは彼に聞いてな。」
用件だけ言って電話が切れた。久しぶりなのに。そっけない。
ま、いいか。何かに熱中してる方が楽だ。今の僕には。
シャワーを浴びトライアルにかかる。意外と難なく出来た。ま、これで手こずっていては話にならんがな。それでも、誤訳がないか慎重に何度も見直す。訳した表現がいまいちだと思う箇所は納得行くまで調べて直す。そして最後に何度も見直す。出来た。
一週間を待たずにトライアルを持って彼のオフィスを訪ねる。〝早いな。〟と森下さんは感心してくれた。そして2、3日のうちには連絡をすると言った。
早速、翌日に電話があり、OKだから登録に来てくれと言われる。登録に行き、仕事の契約や流れ、注意点やいろんな話をし、書類を数枚記入し、オフィスを後にした。
〝ぼちぼち簡単なのからやってみてくれ。なるべく質の良い原稿をまわすから。〟と森下さんは人懐こい笑顔で見送ってくれた。
「そうか。良かったな。」
「ああ。」
数日後、トライアルが通り登録してきたことを報告すると、悟は嬉しそうに笑った。
〝でも学業を第一にしてな。〟
〝そうだろうね。あんたにみたいにスーパーマンじゃないからあれもこれも出来ないよ。〟
〝隆博なら出来るさ。〟
彼は満足そうに笑った。
会う時間をなるべくやり繰りしてくれてはいたが、彼は忙しそうだ。卒業を間近に控えてすべて単位を取っていた彼は、大学に出向くことはもうほとんどないが、住む所を探したり、乃理子さんも出産まじかだし、あれこれと忙しい。でもまあ思うような家が見つかって契約をしてきたと話した。
彼女のことを聞くと、ま、なんとか順調だ。4月が出産予定だと話してくれた。でもその話をするとき、彼は僕の目を見ない。やましい話をするみたいに、なるべく触れたくはないみたいだ。気持ちはわかる。僕も別に聞きたい話ではない。それは僕らが離れて行く日がそこまで来ていることを実感させるからだ。
最近は、悟に会う日がめっきり減った。忙しいのはわかっている。彼はおなかの大きな奥さんを抱えている。就職に出産。すぐに家庭持ち。変わることのない事実。わかっていたはずだ。そう、僕は期間限定の恋人だ。彼の。多分。
わかっていても納得がいかない、腑に落ちない、モヤモヤとしたブルーな感情に振り回される日々。それを誰にも言うことすら出来ない。そして里佳子ちゃんとのことだって曖昧にしていていいわけがない。物分りのよい彼女に僕は甘えたままだ。
何をしても手につかないし、最悪な気分だ。なのに、日常は否応なしにめぐってくる。
部屋に帰るとFAXが山積みになっていて、何だこれはと、FAXの紙をめくってみると、早速仕事の依頼だった。
僕はため息をついた。すると間髪いれず、森下さんから電話が入った。
「今、FAX流しておいたんだけど、どう?」
「はあ。」
「急で悪いんだけど、頼めるかな。」
頭の中に悟の言葉がちらついた。
(とにかく最初は何でも引き受けて自分を売り込め。出来ません、なんて口が裂けても言うなよ。)
「はい。やってみます。」
「そう、助かったよ。もし、わからないこととかあったらすぐ電話してね。社にはずっといるから。」
森下さんは愛想よく言った。
「はい、わかりました。ありがとうございます。」
それで僕は辞書を引き、悟にPCに入れてもらった翻訳ソフトの力も借りながら、依頼を受けた原稿の翻訳に取り掛かった。それまで悟のことなどで一杯だった頭の中がだんだん整理され、落ち着いていき、仕事に没頭できるようになった。
気がつくと何時間も経っていた。熱中しているとあっという間に時間が経ってしまう。こんな時、没頭出来ることがあるということはなんとありがたいことかと、しみじみと思ってしまった。いろんなことが気になるけど、今の時点は自分がどうしたいのかを時間をかけて考えてみる方がいいのかもしれない。
仕事が一息ついて、キッチンでコーヒーを入れる。お腹が空いたけど、冷蔵庫には何もないし、食べに出かけるには時間が遅すぎる。
時計を見る。午前2時を回っている。食事は諦めることにして、タバコの火を点ける。
以前の僕は酒も飲まないし、タバコを吸うこともなかった。悟とつきあいだしてからだ。以前の僕はもういないのかな、そんなことをぼんやりと考えてみた。悟と関係を持った自分。僕はもう前の僕には戻れない。
里佳子ちゃんを騙している気分になる。彼女は、扶美のことを忘れられない僕を待っていると言った。確かに今まではそうだった。扶美のことがあって、いろんな女の子と付き合っても真摯になれない。だけど、今の僕には悟がいる。悟との付き合いが扶美のことを乗り越えさせたのだと思う。でも、得たものはすぐに僕の手から離れていく。いつもそう。悟との付き合いもあと僅かだ。彼は僕から離れていく。どうすることも出来ない。
大晦日の晩、里佳子ちゃんを同級生の集まりに連れて行った。当然、皆は僕の彼女だと思っている。友達に紹介した手前、彼女も僕との付き合いはステディなものだと思ったに違いない。僕にそこまでの深い意味はなかったのだけど。
悟のことを考えると苦しくなる。逃げるように僕は彼女と会った。屈託のない彼女の笑顔を見ると確かにほっとした。はっきりと答えが出せない僕を彼女は責めることすらしない。気まぐれな僕の誘いにも嫌な顔ひとつせず、付き合ってくれる。あんなにいい子なのに。自分が嫌になる。




