27話
「店?」
聞き返すと、
「そう。バイト先。」
「さっきのピアノ?」
オーナーが(これで食ってたらしいよ。)と言った意味を聞こうとしたが、聞けなかった。そのことか?
「うん。高校の時、叔父さんに面倒みてもらってはいたが、これは就職したら少しづつ返すつもりなんだけど。親父からは一銭ももらいたくなくて生活費の足しにバイトしてたんだ。」
「だけど、コンビニの店員や新聞配達なんかろくに稼げやしない。それでつてがあってな。隣町のクラブで学校が終わってから雇ってもらっていたんだ。」
「未成年だろ?」
僕がよく学校にばれず補導もされなかったもんだと、感心すると
「まあ、いろいろとうまくやってたからな。」
と、返す。
「客のリクエストに応じて歌を歌いピアノを弾く。あとは今の隆博と同じだな。客の注文を聞いてカクテルを作ったり、応対をしたり、そんな感じ。」
「でも、うまいよ。びっくりしちゃった。」
ピアノはどうしたんだと聞くと、母親が幼稚園の時から習わせたらしい。歌は?と聞くと別に何もしてないと答えた。そして、母親にはこのことは非常に感謝していると言った。そのおかげで親父に世話にならず、何とか高校を卒業出来たからねと、笑った。
「さ、出来たよ。食べるよ。」
「ああ。」
僕がリビングのテーブルに料理を運ぶと、彼がよく冷えたワインを冷蔵庫から取り出す。
「まだ飲むの?」
「他に何を飲めと?」
呆れた、店であれだけ飲んでおいて。まあ、いいけど。
食べながらさっきの森下さんのことを聞いてみた。
「ああ、それにしても変なとこを見られたな。澤崎さんしつこいからなあ。」
眉間にしわを寄せる。とはいっても別にオーナーのことを非難してるわけではない。
「昔を思い出しただろ。」
「まあね。」
「その時のバイト先のオーナーが、澤崎さんと同じくらいの年代の人でな。それで音楽のこととかいろいろ教えてもらったから、澤崎さんと話が合うんだろうな。その人にはだいぶお世話になった。飯を食わせてもらったり、いろいろね。」
「それにしても懐かしい感覚だ。ああやって人前で歌うのはね。」
ふっと笑って、
「ああ、そういえば、あれなあ。前から頼んでおいたんだ。森下さんに。」
急に話を変える。就職の内定が決まった頃に、就職で東京へ行くので翻訳のアルバイトが出来なくなることを伝え、もし良かったら自分の後をやらせたいやつがいるので仕事を紹介してやってもらえないかと、彼に話をしていたらしい。
「で、何で僕?」
「お前が一番見込みがありそうだと思ったからだ。」
と、真剣な顔をした。
「だって、悟は僕のことほとんど知らなかっただろ。」
そうなんだ。夏にあの結婚のお祝い会で、飲みつぶれた彼を送って行ったことがきっかけでこうなったんだけど、それまでは学部内、ワークショップなどで悟に会うことは何度かあったけど、話らしい話をしたことがなく、彼が自分のことを知っていたことが驚きだった。
「何言ってるんだ。お前は知らんかっただろうがな。俺はお前が1年の時からずっと見てたよ。」
珍しく顔を赤くする。それは意外だと聞き返すと、
「お前さあ、熱心に勉強してたしなあ。まず入学出来たことに浮かれて、サークルや合コンやらにうつつを抜かす新入生も多いのに、お前真面目でなあ。」
それは自分がアルコールを分解出来ず飲めないので、あまりそういう行事に参加しなかっただけだと返すと、
「いや、俺わかるんだ。きちんと目的をもって入ってきたヤツは。俺も必死に勉強したもん。まあ、俺の場合は親父に対する反抗心だけだったけどな。とにかく勉強して学校を卒業して一人前になって、早く自立したかったんだ。そして自分のやりたいことを叶えたかった。そのためにはとにかく何でも一番になりたかったんだ。」
この人は楽そうに何でも出来るみたいに思われているけど、人の見ていない所でどのくらい努力していたんだろう。やっぱりすごい人だ。
「ワークショップでの課題さあ、みんな読んだよ。」
「僕の?」
「そうだ。」
知らなかった。初耳だ。
「お前さあ、原文よく理解してるし、訳にセンスあるよ。文章は独りよがりでない論理的な日本語を使ってると思ったし、なんか透明な空気みたいなものを感じるんだよな。それがひどく心地良いような。」
「何それ?」
「まあ、これは俺の個人的な感想だけど。それに、わからないところは手間隙惜しまず、本当に丁寧にネットで調べたり、先輩らに聞いたりしてやってるとこを見て信用出来るやつだなあと思って、ワークショップの課題を最初からずっと目を通させてもらったよ。」
知らなかった。全部読んでるなんて。あまり褒められると恥ずかしいなあ、と思いながら聞いていると、
「まあ、それだけではないけどな。」
(何が?)
聞き返そうと思ったが、口をつぐんだ。何かを思い出すような遠い目をしたからだ。それにしても彼が僕のことを1年の時から見ていて、こんなに見込んでくれていたとは思いもしなかった。ひどくそれが照れくさくて、しかし嬉しかった。自分がどこまでやれるかわからないけど夢に近づけるかもしれない。なんだか胸がわくわくした。
「隆博は固いし、しっかりしている。この仕事は思ったより地味だからな。とにかく納期厳守。守秘義務は絶対だ。最終チェックは念入りにして。たぶんこんなことは言わなくてもわかると思うけどね。お前は。あまり自信のない分野のものは断っていいからな。」
「断っていいの?」
「自信のないのをやって迷惑がかかるといけない。自分の身の丈に在ったものから確実にな。」
それから、彼は仕事の事についてあれこれと教えてくれた。
納期厳守、守秘義務、最終チェック、手間隙かけずわからないことは納得するまで調べること。良い文章に触れて日本語の読み書き能力を高めること。専門分野を持つように勉強すること。訳文に自信のない箇所は明確にコメントをつけて提出すること。入手可能な資料を最大限要求すること等々。
面白いところではスラング的な述語や商品名は訳語を見出すまでに苦労したことや、意味不可能な長文の英文。ネィティブでも間違えるスペルなど、苦労もいろいろみたい。
でも、結局僕はやってみることに決めたので、年明けに森下さんの会社へ行ってみることにした。この件に関しては悟が話をしてくれる。試験前やレポートの提出などに困ったときには、彼は面倒くさがらずに今まででも教えてくれて、とても助かっていた。今度の件も出来る限り教えてやるからと言ってくれた。
どうして彼は僕に目をかけてくれるのだろう。自分だって今が一番忙しい時なのに。可能な限りこちらにいて時間を作ってくれる。もうそんなに時間がない。充分わかりすぎるくらいわかっていることだ。それを彼も感じているのだろう。
酒で酔ったせいもあり、眠くて眠くて仕方ないのに、それに抗うようにしてお互いを求めあう。そっと唇に触れる。ゆっくりと深い海の底へ、そこは暖かくてゆったりとしていて、穏やかな時間が流れる。その心地良さに僕は身を沈める。
夢を見ているような感触だ。彼の体温を感じる。すると、徐々に自分の芯の中心がじんわりと熱を持ったように、熱くなっていく。それと同時に、彼の肌も熱を帯びたように熱くなっていくのを自分の肌で直に感じる。僕らはだまってただ、その行為に没頭する。女の子のそれとは違う。
徐々に波が押し寄せる。小さな波が足元へ。少しずつ大きな波になって、足元からあっという間に膝までの高さになり、腰を覆い胸につくまでになり、僕を飲み込もうとする。その波に呑まれまいと必死になって岸壁にしがみついていると、それが苦しいのか心地良いのかわからなくなっていく。どのくらいの時間が経ったのか、どこに自分がいるのかさえ、わからなくなっていく。
いや、違う。この腕は彼の腕だ。そう、彼の腕の中だ。




