10話
〝おまん、まだやってないんか。〟
昼間の健二の声が蘇った。
僕は頭の中で、財布の中の札の数を数え、3つ先の駅近くのホテル街の地理を頭に思い浮かべた。
可愛いし、いい子だし、僕のことを好いてくれてるし。理由は揃っている。だけど、何故か踏み出せない。今、抱いていいのか。この子とそういう関係になっていいのか、僕は戸惑っている。何に。又同じことの繰り返しになるんじゃないのか。僕も彼女も擦り切れた雑巾のように疲れ果ててしまう。今までのように。
立ち止まって彼女が僕を見た。その目は恋している目だ。少し潤んだように見える。
その瞳をじっと見る。
あ、決めなきゃ。
その時、ふいに携帯の着信音が聞こえた。
「あれ、私?」
バッグの中をかき回すようにして携帯を探す彼女に、
「ごめん、ごめん。僕だよ。」
コートの内ポケットから携帯を取り出して見せた。
ちょっと、ごめん。そう言って液晶画面に視線を落とすと、
(あ、先輩。)
先輩だ。慌てて着信ボタンを押す、
「ごめん、今いいか?」
彼が電話するわ、と言ってから10日ほど経っていた。
少し先で待っていてくれている里佳子ちゃんを目の端で見て、
「あ、ええ。」
そう返すと、
「すまんな。電話するわって言ってからだいぶ経ってしまって。」
「いや、いいんです。それより大変だったらしいですね。」
乃理子さんのことをほのめかすと、
「事情を話せばよかったんだけど、まあ、こんなこと言うのもなんかなと思って。」
「プライベートなことですからね。」
とは言ったもんのの、水臭いなあと思う気持ちは払拭できなかった。
「それより、今から会わんか?」
急に誘われて僕はとまどい、時計と里佳子ちゃんの顔を交互に見た。すまないと思う気持と共にどこかほっとした思いが過ぎった。
ごめん。里佳子ちゃん。まだ無理かも。
彼女はさすがにちょっとむっとしていた。無理もない。
〝とにかく断れない怖~い先輩なんだ。どうしても行かないと行けなくて。断ると後でどうなるかわかんないし。〟
僕は先輩の誘いにかこつけて、デートを中断した。申し訳ないので彼女を家までちゃんと送り届け、それから慌てて先輩との待ち合わせの店にすっ飛んで行った。
彼が指定した炉辺焼きの店に着くと、すでにカウンターで先輩は一杯やり始めていた。
「おまたせしました。」
彼の隣に腰を下ろすと、
「急で悪かったな。」
「デート中だったか?」
「どうしてわかるんです?」
「別に。当てずっぽうだ。」
「邪魔したかな?」
「いいんです。ちょうど送っていったところでしたから。」
本当は違うんだけど。
「いいなあ。デートかあ。」
彼がうらやましそうな顔をするので、
「先輩たちも行けばいいじゃないですか?」
「うん、でも、これだからな。」
お腹が出ていることを手振りで示した。
「当分は大変ですよね。」
彼女の具合を尋ねると、食事の支度をしている時に、床が濡れていたことに気づかず転んでしまったことが原因で流産しかかり、でも、処置が早かったのでなんとか持ちこたえたこと。今は実家に帰って療養していることなど話してくれた。
「だいぶ、店に来なかったから、どうしたのかと心配していたんです。マスターも最近、来ないねって。別にそうならこないだ言ってくれればよかったのに。」
「うん、まあ、なんか気恥ずかしいんだよな。そういう家の事情みたいなこと話すの。俺ってすごい所帯じみてる感じがするんだよな。最近。」
「まあ、もう所帯持ちですからねえ。でも、奥さんよかったですね。」
話してても、もうすぐに彼が子持ちになることなんて実感として沸くわけがない。目の前にいるのは、まだ2つしか違わない大学生だもん。
「そうなんだけど。ああ、羽伸ばしたいなあ。」
子供じみたことを言う。
「旅行とか?」
以前、当てもなくふらふらと旅をするのが好きだという話を聞いた。
「いいね。いろんなとこへ行ったな。」
過去の旅を思い出すようにして、
「地図を見るのが好きなんだ。日本地図広げてさ。自分が行った所に赤丸をつける。丸が一杯になるとなんだか嬉しくて。今度はどこへ行こうかってわくわくするんだ。」
嬉しそうに話すので、おかしくて小さく笑うと、
「子供っぽいなあと思ってんだろ?」
肩をこづかれる。
「わかりました?だって、こういう話をしてる時の先輩って、僕より年下なのかと思ってしまう。」
面倒見がよく大人っぽく見える彼が、こういう子供っぽいところを持っていて、それを見てるのが何だか楽しい。誰にでもこういう側面を見せるのだろうか?それとも?
「お代わりはどうだい?」
カウンター越しに大将が声をかけた。
「じゃあ、もう一杯。同じのを。」
先輩は焼酎のお湯わりをオーダーする。
「隆博も飲めば?」
そう言って、ウーロン茶をすすっている僕に勧めるので
「僕が飲めないの知ってるでしょ。」
「でも、少しくらい飲めるって聞いたぞ。」
「ワインなら少しくらい。」
「大将、ワインあるか?」
そうすると、大将はおかしそうに
「こんな店にそんなしゃれたもん、置いてあるかっ。」
そりゃそうだ。炉辺焼屋にそんなもん置いてあるはずがない。先輩が肩をすくめるので、
「いいですよ。どうせ先輩を送ってかなきゃいけないだろうし。飲むと頭が痛くなるし。」
「面目ないね。こないだみたいに迷惑かけん程度に飲むわ。」
彼が苦笑した。
「しかしな、人生飲めたほうが楽しいぞ。少し練習したらどうだ。」
「そんなもんですかね。」
「隆博はいつもクールだなあ。」
「クールですか?」
「そうだよ。いつもすましててそつがなくて。今まで大きな失敗も挫折もしたことないって顔してるよ。可愛げないヤツだよ。」
もちろん、目は笑っている。批判してるわけじゃないのはわかってる。この人はいつもこんな調子で口が悪いのだ。
「じゃあ、飲んでみようかな。」
「お、それはいい。焼酎を薄くしてお湯かウーロン茶で割ろう。焼酎はあとが残らないから、頭が痛くならないかも知れんぞ。」
そう彼が言うので、大将が
「そうこなくっちゃ。俺も飲み屋でウーロン茶ばっか飲まれると気が滅入るからな。」
早速焼酎のウーロン茶わりを作ってくれた。少し飲んでみると、アルコールの匂いがした、が、さっぱりしてるので飲みやすい。
「どうだ。」
「飲みやすいですね。これならいけるかも。」
「初めて?」
「ええ。」
「まあ、心配するな。酔っ払ったら俺が送ってやるから。」
すでにアルコールが回って潤んだ目をして彼が言った。
「その方が心配ですよ。そんなに飲んで。」
並んだ空のグラスを指差した。
「ああ、違いないな。」




