第2話 お隣さんの帰省と祖母への挨拶
失敗の経験は数え切れないほどある。
これからもきっと増えていくし、いくつかは忘れられない記憶として傷跡のように残っていく。
けど、今回の失敗はこれまでで1番で、まだ記憶にもなっていないのに大きな傷跡を残すのがわかった。
「おばあちゃん、ただいま」
和室にある仏壇の前で、正座をした雫後輩が寂しさを伴う帰宅を告げる。
小さく丸まった背中の後ろで、俺は胃の汗をかいていた。きっと、その顔は青くなっている。
――亡くなってたのか。
知らなかったこととはいえ、おばあちゃんに挨拶したいなんて無神経にもほどがある。いや、こうして仏壇の前で挨拶はしているので間違いではないが、俺の意図とは違ったわけで、どうあれ失敗だった。
気まずいどころの空気じゃないが、それでも遺影に目が行く。
むすっとしていて、写真越しにも気難しい人というのが伝わる。隣の田所さんとは対極的で、この人なら10円だろうと貸し借りを許さないだろう厳しさを感じた。
足が痺れてきた。
正座なんて普段しないせいだ。足の親指を動かすが、痺れは取れてくれない。けど、失礼をしたあとで『足を崩していい?』とも訊けず、とにかく耐えるしかなかった。
ずっと祈っていた雫後輩がそっと息を吐くように言う。
「この家、処分するんだ」
不意な申告に、そうなんだ以外の言葉が出てこなかった。
受け止めるのに時間がかかって、次の言葉が上手くまとまらない。
そもそも、俺の返答なんて待ってなくて、ただ懺悔のように吐き出したかっただけなのか、ぽつぽつと雫後輩は事情を語り零していく。
「誰も住んでないせいで、老朽化が進んでる。隣のおばちゃんがご厚意で手入れをしてくれていたけど……もう歳だから。この前、腰をやって入院してね。そのときに家をどうするか訊かれたんだ」
アパートの廊下でしていた、雫後輩の電話。
あれがそうだったのだろう。
「手入れをする人はいない。いつ倒壊するかもわからない。そんな状態で、家を残しておくとは言えないよね」
「……」
訊こうとした問いかけが喉で詰まる。
でも、必要なことだから、喉に触れて押し出すように言う。
「…………ぁ、雫後輩が、……ここに住むのは?」
「できないよ」
引っかかった問いかけは、あっさりと否定された。
雫後輩がいなくならない。
そのことに安堵して……安心したことが恥ずかしくなる。照れではない。彼女の気持ちよりも自分のことを優先した浅ましさを恥じた。
「だって、わたしはここじゃあ幸せになれないから」
後ろを向いたその顔は、苦い微笑みだった。
泣いてはいない。
でも、泣いている。
きっと、俺の問いかけは雫後輩がこの家を出るときに何度もしたことで、それでもと離れた。
固めた覚悟はいまも変わらない。
それでも、傷つかないわけじゃない。固ければ固いほど罅は入りやすいものだから。
――なにか、できないかな。
思う。
それが、第3者の同情や哀れみでしかなかったとしても、なにかしたいと思ってしまう。
あまりにも浅く、見え透いた底。
でも、とその浅ましさを超えて踏み留まるのは、きっと雫後輩相手だからだ。
俺の夢を手伝いたいと言ったとき、雫後輩もこんな気持ちだったのだろうか。
接着剤でくっつけたように開かなかった唇を、無理矢理こじ開ける。
「雫後輩にとって、ここは大事な場所?」
「……そうだよ、大事。だって、ここはわたしとおばあちゃんの家で、わたしの“幸せの形”だから」
「そっか」
……そっか。
それでも、壊さなくちゃいけなくて、雫後輩も決めている。下唇を噛み、滲む血が彼女の葛藤を物語っているように見えた。
怒るかもな。
もしかしたら、2度と口を聞いてもらえないかもしれない。
これから口にしようとしているのは、他人の花畑を土足で踏み荒らす行為に等しい。
だから、言わないのが正解で、不正解とわかりつつ口にする俺は愚か者だ。
でも、もしもを繋げられるとしたら、いまここにいる俺だけで。
嫌われたくなんてないけど、雫後輩のためになるなら、新しく心に傷を作っても後悔はしない。
……それくらいには、彼女が好きなんだな、俺は。
おかしくなって笑って、言う。
口を突いた声は存外軽かった。
「なら、残さないとな」
琥珀の瞳がハッキリと大きな円を描いた。






